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もしかして、うんち

自由きままに書こうと思います。

よろしくお願いします。





 思い出や記憶なんて、うんちみたいにトイレへ流してしまうことができればどれだけ楽か。糞みたいな過去の遺産なんて、腹に溜め続ければ病気になりそうだ。そんなことを思いながら、私は小部屋の中で響く流水音を扉で遮断し、陽だまりのダイニングキッチンへと急ぎ戻る。

 平日の月曜日。それも午前。世間は慌ただしく新しい一週間を迎え、また新しい月曜日に向かって走り抜けていく。身を粉にしながら働く人や学ぶ人を横目に見ながら、私はどこへ向かうともなく行き当たりばったりな時間を過ごしていた。そんな生活になってもう一ヶ月。

 両親の遺産は、よっぽどの無駄遣いをしない限りは残りの人生を遊んで暮らせる程のもので、私は迷うことなく会社を辞めた。まさかこんなに貯め込んでいたとは全く知らなかったので、ふと幼い頃を思い出して首を捻る。ごく一般的な家庭だった。旅行は年に一回で、それも近場の温泉。外食はほとんどしない。近所のお姉さんからもらったお古のワンピースを着て、フリマで買ってもらった自転車を乗り回し、リビングで宿題をしていた小学生時代。確か、大学入試の時には、「うちはそんなに余裕ないんだから、浪人なんかしないでよ。落ちたらちゃんと働いてもらうからね!」と言われたっけ。ということは、この大金は事故で両親が亡くなる直前にこの世を去った祖父の遺産ということかもしれない。

 キッチンの勝手口から外へ足を投げ出して座る。スナップを効かせて足首を振り上げると、つっかけサンダルは庭の雑草の茂みの中に落ちて沈んだ。

 悲しみは続く。

 元々反りが合わなくて疎遠だった。親子なんだからという言葉を使えば大抵の問題は解決したし、歪んだものには見ぬフリを、穢れたものには美しい嘘を添えるのが得意なのは、唯一似ていたところかもしれない。

 それなのに。漠然とした空虚感は、初夏の突き抜けるような青空と少し似ている。

 これを埋めてくれるのが娘の存在だ。

 娘は夫に似ている。妊娠中、私にどうか似ないでほしいと八百万の神々に祈り倒したのが良かったのか、私に全く似ていない。

 ふと、背後から小さな足音が近づいてきた。彼女にはまだ、ブレーキがついていない。目標物にぶつかることでようやく停止する。私の背中に大きな衝撃が生じた。

「おかーさん」

 ようやく片言の日本語をしゃべるようになり、何かと話しかけてくることも多くなった。『ママ』ではなく『お母さん』と呼ばせているのは、安っぽい響きが気に入らない他に、昨今はこの言葉が一種の業種を指すようにして使われているからだ。私は役割としてのママではく、私という個人である『お母さん』なのである。

「なあに?」

 振り返ると、娘は内股でもじもじしている。

「おしっこ?」

 尋ねると、娘は小さな手を口元に持っていき、小首を傾げてこう宣った。

「もしかして、うんち?」

 天然のくるくる巻き毛と、それによく似合う愛らしい声。けれど、内容に風情や美は全く無い。次の瞬間、爽やかな五月の窓辺の空気が少し淀んだ。

「オムツとってきて!」

 娘は駆け出していった。おもちゃの方へ。

 私は呼び戻された。現実の世界へと。

 勝手口の扉がパタンと閉まる。


 お尻が綺麗になってすっきりしたのか、娘はオムツも履かずに部屋の中にあるジャングルジムに登り始めた。はしたないことこの上なし。

「こら、履きなさい!」

 私が怒れば怒るほどニヤニヤする娘。しまいには、オムツの口を広げて手を差し込み、そのまま追いかけっこを始めるが、三十路を過ぎた『お母さん』の体力はすぐに事切れてしまう。肩で息をしながら、椅子の影から狙いを定めていると、窓の向こうに人影が見えた。

 窓の向こうはうちの庭。つまり、うちの敷地。勝手に他所の人が入ってきて良い場所ではない。不審者かもしれないと表情を引き締めると、娘は何かの異変に勘づいたのか、こちらへそそと寄ってきた。私達二人は空気のように音を立てず、身を潜める。すかさずオムツとズボンを履かせると、しっかりとその小さな身体を腕で包み込み、カーテンの向こうの黒い影を凝視した。

 まだ、いる。

 私は床に転がっていたスマホを拾い上げると、娘にはここを動かないように目線で言い聞かせて、窓辺にそろそろと近づいていく。

 庭には花壇があって、オレンジの花は先日娘が全ての花弁をむしり取ってしまった。その花弁は、娘の手からひらひらと宙を舞い、すぐに地面へ吸い付いて何度かの雨に打たれた後、土に還ってしまった。今花壇に残っているのは何種類かのハーブだけ。それらを雑草と見分けるのは難しい。

 その花壇にだ。腰をかけて黄昏れる少女がいた。ペールブルーのトップスに黒のデニムのミニスカート。肩先までしかない髪は毛先が寝癖のように遊んでいる。高校生ぐらいたろうか。しかし雰囲気は二歳の娘と共通するものがある。私の歳の半分も生きていない、それも女の子となれば、私だけでも打つ手はあるかもしれないと思った。不法侵入を通報するのは後にしようと、スマホはキッチン脇に置き、静かに窓を開ける。

 その音で、少女はこちらに気がついた。

「どちら様ですか?」

 こちらには守るべき娘がいる。相手が分からない以上言葉面は丁寧だが、低い声で軽く威嚇したつもりだ。

「これ、ローズマリーでしょ?」

 少女はローズマリーの枝をポキリと折った。

 私はキレた。

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