人魚の涙 3
人通りが少ない夜景の中に、倉庫があった。
その中は改造されており、ほぼすべてを研究室に、他にあるのは隅にある物置のように使われている小さな部屋と、外と繋がっている扉ぐらいだった。
研究室は機材を始め机などいろいろ置かれていたが、その並びは他人からすれば汚く思うようなものだった。
その中で葛城は機嫌を悪くしていた。
原因はこの場所にはなかった。葛城にとって研究そのものと、この研究室は聖域のようなものであったからだ。
それは剃りこみの男のせいであった。
人魚の涙の製作で慎重な今、不用意に接触するなと伝えたのに関わらず、昨日大学にやってきたからだ。
その上で先ほど、機嫌がいい時に水を差すように電話をして来た。
通話中の男はなぜだか歯切れが悪く、最初は自分がなんとか会おうとかいまどこにいるかなど言っていたのが、そのうち上司に代わりに行くような事を言い出していた。
だが葛城にとっては、どっちが来ようとも変わりはなかった。
その要件が人魚の涙を求めていることに変わりなかったからだ。
なかばストレスをぶつけるように、手に持っている栄養ドリンクのようなビンの蓋を開けた。
それは男との電話を終わらせた後に物置から持ってきた物であり、中身を一気飲みした。
すると直前までのストレスが嘘のように、高揚感があふれ出る。
「…ふふっ」
自然と笑いがこぼれ、まるで脳みそがアドレナリンに漬けられる感覚であった。
ふとそこで、手元のビンの本数に気がついた。
手に持っている飲み干した一本と、まだ空けていない一本。
物置から持ち出したのは三本のつもりだったが、手元にあるのはその二本であった。
どうやら一本は途中で落としたか、持ち出せていないらしい。
ビンを服に仕舞いながら、来た道を戻って確認しようとした時――、
「葛城、手を上げろ」
誰もいない筈の空間で、突然自分の名前を呼ばれた。
音のほうへ振り返ってみると、まず目についた男性が自分へと銃を向けていた。
その後方からも、囲むように戦闘服を着た集団が銃を構えていた。
男性はヒールブーツを、また集団はヒールの無いブーツを履いた大人数が動いたのに関わらず、足音も気配も一切無くそこにいた。
だが今の葛城にとって、目の前の状況に緊迫することはなかった。
「U.N.F.か…。ということは」
戦闘服に書かれた名前を見た葛城が、一番近くの男性へと視線を合わせた。
「お前が里中剣か」
始めて会ったにも関わらず、名前を言ってきた葛城に対して剣は表情を変えていなかった。
その服は紺のスーツではなく、襟が立っているジャケットに細身のパンツであり、全体の色は髪色と同じ黒であった。
「手を上げろ。…そう言ったが?」
表情を変えないまま剣が声だけで威圧した。
指をまだ引き金に置いていないものの、その迫力はいつ発砲してもおかしくないものであった。
「…はいはい」
そんな剣に対して、葛城は軽く言いながら従うように手を動かす。
だがその手で一本のケーブルを掴むと、近くにあるビーカーに突っ込んだ。
シュウウウウ!
けたたましい音と共に、白く濃い煙が発生する。
「―っ!」
白い煙はたちまち全身を包み込み、隊員たちは下がって離れるしかなかった。
その一方、剣は下がりこそしなかった。
だが、この煙の中で発砲すればなにが起こるか分からない為、そのまま走りだして葛城を腕尽くで捕まえようとした。
しかし――。
ブォン
そんな、風を切るような音がすると、隊員たちの頭の上を葛城が飛び越えていた。
「待て!」
ジャンプ台も無しに人を飛び越える。
そんな跳躍力に隊員たちが動揺する中、剣もまた飛び越えて葛城を捕まえようと追いかける。
先ほどの煙に紛れて取り出したのか、葛城の右手にはメスのような刃物が握られており、その目的地は外への扉だった。
一直線に扉へ向かう後ろで、剣は近くの机を足場にすると一気に跳躍した。
全身をバネのように使った勢いは凄まじく、扉へたどり着かせないように間へ割って入れるほどであった。
そして素早く葛城の右肩へ狙いをつけると、躊躇いなく発砲した。
キィン
高い金属音がすると銃弾は肩ではなく、まったく違う机を撃ち抜いていた。
なんと葛城は、銃弾を刃物で弾いていたのだ。
「なに!?」
「ククク」
さすがに動揺する剣の前で、葛城は笑いながら走ってくる。
―ただの人間が弾けるわけがない。
剣の中に嫌な予感がしたが、目の前の相手は考えている時間をくれそうになかった。
その目の前の相手が横なぎで切りつけようと構えたその時、剣は手に持っていた拳銃を投げつけた。
葛城は勢いよく飛んでくる拳銃を、構えていたこともあって刃物で弾き飛ばした。
その弾いている一瞬の隙に、剣は左足を上げると、どう仕舞っていたのかブーツ付近からコンバットナイフを取り出した。
「チッ」
舌打ちした葛城の真正面から、剣は左手に持ったナイフを上から振り下ろした。
「グゥ!」
とっさにナイフを刃物で防御した葛城だったが、その勢いは強く、足を止められていた。
続けて横から来たナイフも防御したが、さっきと同じ勢いに今度は後ずさりした。
下がり始めた葛城に対し、剣は前進しながら素早く、時には遅くナイフを振っていた。
それはわざと防御させることで、自分がマウントを取ったまま相手を疲労させる為であった。
「クゥ…!」
そんな思惑も気づかず、葛城は迫りくるナイフから逃げるように下がるしかなかった。
だがそれでも、自分が攻撃できる瞬間には目ざとかった。
「アアァ!」
もはや言葉ではなく奇声のような声をあげながら、葛城は刃物を振った。
しかしその攻撃も、まるで遅い球を見ているようにあっさりと避けられてしまった。
「ウアァァ!!」
続けて全力で突き刺そうと、避けた後の体を狙った。
ぶぅんと風を切る音がするほど鋭く突き出された腕だったが、突き刺した物は虚空だった。
「…ッ!?」
目の前にいた剣が急に消えて動揺する葛城をふっ、と影が包み込んだ。
上からの影に葛城が見上げると、その視界に映ったのはヒールであった。
ゴス!
「グァア!」
鈍い音をたてて、まるで踏みつけるように右肩をヒールブーツが蹴り飛ばす。
その痛みに叫びながら、刃物を手放してしまった。
そんな葛城の前で、カランカランと刃物の落ちる音と共に剣は軽やかに着地した。
そして左手に握っていたナイフを仕舞うと、葛城へ向かってジャンプしながら回し蹴りを見舞う。
「―ッ!」
葛城は左前から向かってくる脚を両腕で防ぐ。
だがその勢いある威力は防ぎきれず、衝撃にふらつくと後ろにあった机へ倒れ込んだ。
体を起こそうとするよりも早く、近づいていた剣が腹へと蹴りを入れる。
ガシャァンと激しい音をたてて、成人男性の体が置いてあった物と一緒に机の上を滑ってから床へと落ちた。
「…グゥ」
あたりに物が散らかる中、葛城は机を支えにして立ち上がった。
「…ずいぶん頑丈なんだな」
自分との戦闘技術の差は歴然で、体に刻まれたはずだった。
それでも立ち上がってくる様子を見ながら、剣は呆れたように言った。
「ハァ…ハァ…」
「これ以上は無駄だ」
息を荒げる葛城へ、剣は冷たく切り出す。
「まずは大人しく投降して、お前が拉致した葉月ももの解放。それと人魚の涙に関する情報と俺の名前を知っていた理由を答えろ」
剣に言われてもなお、睨みつける葛城からまったく戦意は無くなっていなかった。
その様子に続けて言おうとしたが、葛城が飛ぶように跳躍すると殴りかかってきた。
(よくそんな力が残ってたな)
そう頭の中で思いながら、ひらりと避けるとその顔面へ右手ストレートを食らわせる。
「グェ!」
「お前の取引相手はもう捕まえた。抵抗したところで意味はない」
カウンターで殴られてふらつく葛城へ続けて投降を進めたが、本人の答えは裏拳のように腕を振った事だった。
だがそれもあっさり掴んでから、足払いをして床に転倒させた。
続けて腹を蹴り飛ばすと、先程とは違う机に向かってボールのように勢いよく衝突した。
「ガフッ…ゴフッ!」
「……」
腹を蹴られて机にぶつかった葛城は咳込み、ふらつきながら立ち上がった。
それを剣は黙って見つめ、投降してくるのを待っていた。
「――ガァァア!!」
だが葛城は叫びながら、まるでゾンビのように両手を前に伸ばして走ってきた。
それはもはや戦意は関係なしに、ただ暴れているだけのようであった。
「…はぁ」
ため息をついた剣はそのまま立っていた。
葛城の手が掴もうとした瞬間――またもや、その姿は消えた。
すると剣の右手による掌底が、顎へと入った。
「ウゴフ…」
その攻撃に葛城は言葉にならないものを口から出しながら、半分意識を失ってそのまま立っていた。
そんな無防備な腹へ向かって、剣は左足を軸に右足で突き出すようなキックを食らわせる。
半分意識がない状態では、防御も抵抗もせずに床へ大の字で倒れた。
もはや立つことすらできないのか、倒れたままの葛城を見つめる剣の後ろで隊員達が扇状の展開を始めた。
「マ…マダ」
葛城は立ち上がらないが、震える手で栄養ドリンクのようなビンを取り出した。
だがそれを開けるよりも早く、ブーツが手を蹴ってビンを飛ばされる。
ガシャンと音が鳴り、遠くでビンが粉々に砕けて中身の液体をまき散らした。
一方で剣は蹴り飛ばした足を戻しながら、足元で寝ている葛城を見下ろす。
足元の男は、握っていた物を蹴り飛ばされたにも関わらず動揺していない。
いや、それ以上の異変があった。
「お前…自分の体になにをした?」
見下ろしている自分を見ないどころか、その目は虚空を見つめ異常な充血していた。
少し前の筋力と今の目といい、その変化に剣は疑問を口にしていた。
「…ククク」
だが、視線を向けることもなにかを言うわけでもなく、笑っているだけだった。
「マーメイド…研究シたかっタ」
ただ独り言のように、相変わらず虚空を見つめて呟いた。
「……」
そんな様子に剣は、無言で葛城の首根っこを掴むと無理やり持ち上げる。
その前進からは力を感じられず、まるで抜け殻のようであった。
掴んだ剣の元へ、後ろから来た隊員達が葛城を拘束して扉へと向かう。
だがその足は引きずって、まったく歩く意思はないようであった。
「見つけました!」
葛城の連行とは別に動いていた隊員達の声。
その言葉に剣は素早く、隅にある小さな部屋へと向かう。
小さな部屋の中は物置のように使われており、室内を隊員達が調べていた。
その奥で倒れていたももの元へ行くと、上半身を起こすように右腕で抱えた。
「里中さん?」
「はい」
剣は抱えているももを正面から見つめる。
その様子は拘束と緊張のせいか、表情も声も弱々しかった。
「よかった…。繋がってたんだ…」
「ええ。葉月さんの電話のおかげでここが分かりました」
腕で支えながら、ももへと優しく話しかけた。
そもそも剣は、剃りこみの男を利用して葛城を逮捕する作戦を行うとしていた。
しかしその最中に、剣の元へ来たももの電話。
電波状況が悪い通話に異変を感じて、ももの現在地確認と逆探知をした。
すると行方不明であり、探知場所はこの場所を指していた。
そして葛城の研究室であることが発覚すると、剣自身が向かう作戦へと切り替えたのだった。
今助けられたももは、安堵しているようであったが動こうとする気配はなかった。
いくら弱まっているとはいえ、剣はその事を疑問に思った。
「葉月さん、なにかされたか分かる事ありますか?」
「薬がどうとか…。なんだか…身体がおかしくて」
剣の質問にももは答えていたが、その意識は半分ほど無い状態であった。
「そうですか、もう安全ですからね」
答えを聞いた剣がスマートフォンを取り出した。
「民間人を保護した。救急車を」
通話を短く済ませた剣の横顔。
それに自分を支える、後ろの腕。
(そういえば、前もこんな風に見たなぁ)
ふと、ももはそんな事を考えていた。
我ながら呑気だな、そんな風に感じていると、男が荷物を漁っていた光景を思い出した。
「そういえば…」
「どうしましたか?」
もも自身でもびっくりするぐらいの、呟くような声であったが剣は聞き逃さなかった。
「あそこら辺で男の人がビンを落としたんです」
視線となんとか動かした指先で場所を指す。
その位置を見ながら剣は顎を動かすと、部屋を調べていた隊員の一人が探し始めた。
するとあまり時間もかからず、見つけた物を隊員から手渡しされた。
「これは…」
それは先ほど葛城が飲もうとしていたビンと同じであった。
――マーメイド…研究シたかっタ
自分を見ずに言った言葉が、頭の中で響いた。
もしこの液体が葛城の変化と直接関係していれば。
もしこれが自分の想像している物であれば。
だがその考えは剣にとって最悪のものであり、大きな不安がのしかかった。
そんな心境でビン越しに、水のように揺れる液体を眺めていると――
「綺麗」
そんな一言が、聞こえた。
「え?」
思わずそんな言葉を出しながら、声の主であるももを見た。
しかしその視線はビンではなく、自分の顔に向けられていた。
「里中さんの目って、奇麗な赤色なんですね」
ももへ向き合った剣の右目。それは赤色の虹彩をしていた。
普段カラーコンタクトで黒色にして隠していたのだが、先程の騒動で外れてしまっていたのだ。
「…いや、これは」
なにを言うつもりだったのか、自分でも分からないまま口を開いていた。
だが何か言うよりも先に、ももの瞼は落ちていった。
「……」
なにも言わずにビンを服の中に仕舞うと、静かに寝息をたてているももを抱えて外へと歩き出した。