第九話《ふたりの思い出》前編
おれには生まれながらにして魔法が定着していた。そのことを両親はたいそう嬉しがった。両親にも魔法があったけれど、たいした需要もない落ちぶれた魔法だった――子どもが火を使えるとなればなおさら――必竟稼ぎ頭になってくれると思ったにちがいない。が、おれが稼ぎ頭になる前に母が死んで、父は金の生る木を育てるために躍起となって漁師仲間といっしょに毎日のように沖へ行った。港にはおれがひとりだけ残された。そうなると、この町から一刻も早く抜けだしてやろうという気をおこさずにはいられなかった。……しかし、どうしたって同じことだと思いとどまった。おれが外にいったって、結局は魔法に頼って金を稼ぐことになる。そういう金の稼ぎ方しか、あの二人は教えてくれなかった。
町には同い年の若者がいなかった。おれがこの町で思い出せることは、自分が家族にとって金の生る木であると自覚するまでの、束の間の穏やかな日々――とはいえ、これは自分の称号を思い出せば瞬く間に消えていった。いちど水面に浮きあがってしまった泡のように、そうなってしまうまでは、たしかに綺麗だったのである。
ある日。白波の立っている浜辺に寝そべって虚ろな目をしながら辺りを見まわしていると、目の端に大きな麦藁帽がうつった。それは風にあおられながらだんだん大きくなってくる。人が来たのだとわかったが、そのまま動かないでいた。しゃくしゃくと足音が聞こえだすと、病人のようにゆっくり目を閉じた。足音は耳元まで来た途端に止んだ。
「道を尋ねたいのだけれど、まずは目を開けてくださらない?」と、歳の近そうな女の声がした。
いまの今までまぶたを通して見えていた日の光は消え、目を開けると、ふたつの海が間近にあった。『ふたつの海』という形容のほかに、彼女の目にふさわしい言葉を知らなかった。なんだか見覚えがあるような微笑を浮かべていたが、その実おれはそんな微笑をついぞ見たことがない。いつのまにか信頼を自然に向けてしまうほどの安心感が芽生えている――月の銀光に似た柔らかな笑み。
「ここはイスール・ベル?」彼女は目を細めながら「私、イスール・ベルで宿を探さないといけないの」
「宿なら港のすぐそばにある」
おれは答えながら、しじゅう彼女ほどこの町に不釣り合いな人間もあるまいと思った。布の代わりに威厳を服にするあの上品であかぬけた雰囲気が、彼女のまわりにはただよっている。が、馴染んだ場所に見知らぬ人間が現れれば感じてしまう警戒心を、おれはちっとも感じなかった。
「じゃあ、ここがイスール・ベルなのね? よかった、地図もなにも持っていなかったから、ちょっと不安だったの」彼女はおれの隣に腰をおろしながら言った「私、ひょっとしたら、大陸を横断したかもしれないわ」
「とても君にそんなことができるとは思えないけれど」
おれは馬鹿にしたように言って、彼女の方を見ようとはしなかった。
「あなたには私が狼にでも見えるのかしら? でも、嘘は好きよ。知ってる? 嘘にもいろいろあるのですって」
この会話は続かなかった。当たり障りのないことまでも話した気がするけれど、あとに残ったのは、話せば話すたびに、おれが空気を吸っている代わりに、彼女は希望を呼吸しているように感じられることだけ。波の音や海鳥の声がおれにはいささかの感傷を誘うかに聞こえるけれど、彼女ならば、あの自然的な雑音にある種の享楽的な感覚を見出し、それを人生の幸福として微笑むこともできてしまうのだろう。彼女へ向いていた興味はきわめて緩慢にうすれていった。環境の異なりが露見していく、これがなによりの要因だった。
しばらく黙りあった。西日に視界をかき乱されて、目の当たりに見えるはずのものはどれをとってもおぼろげだった。風が吹くと空がゆれたような錯覚を起こしたけれど、それは空よりも美しい青でできた彼女の髪がなびいただけのことだった。汗が伝っているらしい彼女の髪の隙間で、ほそい光線が伸びたり縮んだりした。
彼女は靴を脱いで波際まで歩いていった。麦藁帽をおさえて、はしゃぐように波を蹴る姿はまさに旅人といった格好である。優雅な彼女のそばで、いくつかの水玉が舞った。地上の星屑のように絢爛な光を見ると、とうとう黙っていられなくなった。
「どうしたってこんな所に来たんだ? 君はきっと、都会で花屋でも営んでいた方が良い。だって――」
彼女の目をまっすぐに見て、おれは口をつぐんだ。憧憬の代替品であった嫉妬は、彼女の目にこもった、つつましやかな情熱によってまったく意味をなさないものになってしまった。
「ここでなにをするつもりだったの?」彼女はだしぬけに言いだした。
「いや。ただ、空は本当に一つだけなのかなって考えていたのさ」とってつけたような調子でおれは言った。
どんな場合においても、おれには考える暇があった。暇になるたびに、人間が若いうちから備えている空想の領域に没我する――だれもが『自分の世界』と呼ぶ領域である。が、たとえ山の中を、青々とした緑の中を奔放に走りまわる姿を思い描いたとしても、いつだって、どんな場所からも海が見えてしまう。
「海より空が好きなんだ。魔法のせいで、おれは海に行けない。漁の仕方さえ教わったことがない。……嫌なことばかり考えるんだ、海を見ていると。だから空ばかり見るようにして、大陸は広いはずなのに、空は一つだけなんて、もったいないって思って……」果実の皮をむいていくように、夢中で喋っていた。つまるところ、本当におれは、そんなことを妄想していたのだと信じ込みたかっただけなのである。
「そんなこと、浜辺でなくても考えられるわ」彼女は目を細めながら「それにあなた、具合も悪そうに見える」
「父さんを待っているんだ」自分を哀れに思いながら「今日。おれの誕生日でさ」海鳥よりも、小さく、弱々しい声でおれは言った。
父の帰りをこうして待っているのは、今日で三日目だった。
ゆっくりと波際から彼女が歩み寄ってきた。それから隣に座り込むと、両手でおれの手を握りしめた。
「同情ならいらない」おれは抑揚のない声で言った。
「ちょっとほだされただけ」彼女はささやいた。
おれたちはまた、どちらからともなく黙りあった。だが、そんなじれったいような沈黙が、今度は長く続かなかった。彼女が自分の冒険について語り始めたのである。
内陸部で育った彼女は、ある日に家出をした(出身地とその理由を、彼女は一度も語らなかった)。沈む日を追いかけるようにして町から町を歩き、あちこちで服を仕立てては宿代を稼いだ。彼女にも魔法があった。人の目には見えない、風の声を聞く。生活を縛られることのない魔法。それを知ると、どんなものにも慈愛の心を忘れない振る舞いが腑に落ちるような気がした。「世界とのつながり」彼女は魔法についてそう言った。
「この町に来たのは、ただの気まぐれなのか?」とおれは尋ねながら、彼女の顔色をうかがった――彼女は微笑むだけで、何も答えてはくれなかった。しじゅう彼女はおれの手を握ったままだった。
彼女を宿に案内する運びになる頃には、もう空が赤くなっていた。最後には二人して浜辺に横たわる始末で、服についた砂がすこぶる厄介だった。砂に対して悪態をつくなんて些細な話題が、おれと彼女が初めてした共有という行為であった。
「あなた。名前はなんと言うの?」と、彼女は言った。
「エリック。ありふれた名前だよ」
「そうなの? 私、エリックなんて名前の人、あなた
が初めて」
「じゃあ、君はなんて言うの?」おれはやや早口に言った。
「パトリシアよ。こっちの方がありきたり。近所にパトリシアって名前の人、八人はいたもの」と、彼女は無邪気な笑みで言った。
「おれも、パトリシアなんて人は会ったことがない。でも、本で読んだことがある」
夕日で包まれた町の中は、なに一つの境界もありはしなかった。
「どう書かれていたのかしら?」
「光の名前。そう書かれている。素敵な名前だって思う」