第八話《命日と誕生日》
お母さんがいなくなって、もうすぐ一年が経つ。幸か不幸か、お母さんはわたしの誕生日に雲となった。不幸なのはどうしても辛い記憶ばかりが、泡沫の現実となって、命日までわたしの精神を巻き戻してしまうと予感することが容易であることだった。これが幸福と思えるのは、この数か月にわたしの身に起きた様々なことを、お母さんに報告できること、すべてはこれに尽きた。命日と誕生日の重なった日。お母さんとわたしが、もういちど誰の目にも映らない絆で結ばれる日。そして、家族が一つになるのに相応しい、愛すべき命の日。……そんな風に、少しは思えるようになった。
「世界は広い。毎日誰かがどこかで死ぬ。それなのに、どうして人は笑っていられるのか、分かるかい?」ある日、アトリエで師匠がわたしにそう問いかけたことがある。わたしは弟子となった日から、ほとんど自然的に師匠へ絶大な信頼を寄せていた。わたしに夢を見せた人というだけで、そうするには、わたしにとって十分だった。
「えっと、興味がないからとか?」とわたしはさっぱり分からないと云ったふうに小首を傾げながら言った。すると師匠は、そんなわたしをあざ笑うというよりも、自分が教会の牧師みたいにそう言いだしたことを恥ずかしがるように微笑を浮かべながら「世の中が狭いからだ」ときっぱりとした口調で言った「世界は僕らから笑顔を奪わないために世の中を作った。一人の命に対し、相応の慈しみを与えるために。だから君が、母親の死んだ日が一年で一番、気が滅入る日だと考えているなら、僕はこう言いたいのさ」それから師匠はわたしの肩に軽く手を添えながら――「馬鹿な子だねって」といささか不謹慎とも思える言葉を発した。……でも、わたしの胸に感じられたのは憤りではなかった。また、激しい嫌悪でもなかった。わたしはほとんど必死になって耳をそばだてていた。
「いいかい、リライナ。世の中は狭い。君が不幸を感じる横で、誰かが笑っていたって、君がその誰かを泣かせる権利は決してない。もっと言えば、君は誰かが笑っている横で、誰かのために悲しむことができる。狭い世の中、自分が誰かの死を悲しめるのなら、悲しめることを喜ぶんだ」
師匠がわたしの肩から手を離すと、わたしは目頭をおさえていた。胸が苦しく、帽子の中にいたヴラジーミルは心配そうにしながら、わたしの前髪に鼻を押し付けだした。薪ストーブで温まった師匠のアトリエの窓の外で、いやに霞んだ視界の向こうに、なにやら白い光の粒が無数に漂っているのが見えた。それは雪に違いなかった。……
その日、先日見つけたばかりの幻想的な景色が徐々にぼやけているのを感じながら、わたしは師匠のアトリエへと向かっていた。わたしは何かを感じていたけれど、それは文字通りあまりにも漠としていた。不意に風が吹いて、わたしはそちらに視線を向けたけれど、ただ騒がしいくらいに茂った緑があるだけだった。わたしは地団駄を踏んだ。帽子の中で急な揺れに驚いたらしいヴラジーミルがわたしの肩まで飛び出して、あちこち見渡し始めた。指先で少しばかり頭を撫でてみると、それきりそこでうつ伏せに張り付いてしまった。そんなことをしていると、わたしもいくぶん落ち着きを取り戻した。驚かせたことを詫びながら、あの景色がさっきよりもぼんやりしているのを胸の裡で見出した。そしてまた、昨日と何も変わらない自問をしていた。
「なにが描きたいのだろう……」
わたしはなにか、自分の力で事を成し遂げるという行為に一種の使命のようなものを感じるのである。それは常に自惚れを孕んだ野心に違いない。縹渺とした胸中にそれだけがやけにゆらゆらと煌いていた。それを道標にして歩いていたら、いつの間にか知らないところに来ている。気づけば懊悩ばかりの日々が行く手に立ちはだかっていた。歩いているはずなのに、進歩のない今日が来て、また進歩のない明日が待っている。穢れているだけの日々……。――わたしは、この穢れた日々を清められるのは、わたしだけだと自惚れている。願望を叶えようとする欲求がわたしにはある。それがやはり、わたしを焦らせたりもした。
その日、わたしは師匠のアトリエに行ったけれど、筆を持つことはなかった。起きてからずっと、早くあの風景を描きたいと思っていたはずなのに、いつの間にかわたしの心は淀んだように盲目となっていた。キャンバスの前に座れば、何かが描ける自信があった。しかし、わたしの理想が文字通り白紙であることを理解するのが関の山であった――絵の具を絞り出すことは簡単だった。筆をとることも、それであの風景を描くことも、今のわたしなら、それらすべてを容易になせるはずなのに思いとどまってしまうわたしの感情というものは、すこぶる厄介な代物だった。
初めのうち、師匠はわたしの横に立っていたけれど、窓がまちに伝書鳩がやってくるとそれ以降は手紙を書くことに忙しくなっていた。ヴラジーミルは師匠が手紙の返事を書き終えるまで鳩とじゃれあっていた。
俯いて、スカートを握った。皺をつくって、それを伸ばしてみて、やはり残っている跡に指を這わせたりして、つくづくわたしは苦しいだの無能だのといった想念に気に入られているのだと分かった。
平和なアトリエの傍らで、わたしはなるべく音もたてずに出て行った。
夢を見つけて、なんだか嬉しくて、勝手に舞い上がって、自分にも何かできるんだって思いあがって――でも、結局わたしには……。何を描くべきだろう。わたしは何が好きなんだろう。……
時間がわたしを追い越していく。今でもわたしは、あの頃に囚われているのだ。お父さんがいて、お母さんがいて、その間にわたしがいる。そんな些細で平凡な、もう叶わない日々を、わたしは望んでいる。
気づけばヴラジーミルがわたしの足にしがみついていた。
「家に帰ったらね、お母さんが心配してくれてるんだ。遅くまで外にいたものだから……。でも、お母さん、優しいから……ご飯抜きにしたりとかしないの、ただ一言だけ、いつから悪い子になったのって言いながら、やっぱり笑ってくれるんだ。――ああ……」ゆくりなく理想が口を衝いた。誰かに話せば少しは楽になる、そんな考えがよぎって、またそういうふうに教えてくれたのもお母さんであることを思い出した。
ヴラジーミルはじっとしていた。わたしの足に爪を立てんばかりの強さでしがみついている彼の姿を窺おうと視線を落とすと、スカートが不自然に揺れているのに気がついて、目の当たりの木々のざわめきを耳にして、ようやくわたしは、わたしの周りに強い風が立っているのを感じることができた。それを認めると、わたしの目頭がやけに熱を帯びているのが分かって、また、それが風にさらされて漸次、冷えていく――まるで不安が取り除かれていくような心地にもてなされた刹那、わたしは風が行く方へ歩き出していた。
不甲斐ないように思う。自分では何もできない自分が。すぐ風を頼りに歩きだす自分も。何もかもがちっぽけに思える。厭世的な想念で胸中を満たすことは得意で、綺麗なものを見つけるのは誰よりも苦手なのだという自覚がある――そんなわたしに、風は綺麗なものを見せてくれる。ヴラジーミルとの出会いも、師匠との出会いも、あの幻想的な景色も。それらをすべて、わたし一人のために見せてくれる。そう考えていると、わたしがこうして風を感じていることに、なにか意味があると思える――そうなるとわたしは、歩き出さずにはいられないのである。
わたしが一つの墓の前に立つと、とうとう風が止んだ。
高台にある墓地。そこには様々な花の香りや、ぼんやりとした潮の匂いとが、もうどれがどれだか分からないくらいに混ざり合っていたけれど、お母さんの墓の前に横たわっている楓の花の芳香はすぐにそれと分かった。わたしは墓の前にしゃがみ込んで、膝を抱きしめながらお母さんの名前を眺める。
『パトリシア・メイリーク』
「お母さん。お母さん……」とわたしはわたしでも知らないうちに尻すぼみに呟いていた――はたと気づかされたのはそんなときだった。わたしは心のどこかで、お母さんのことを忘れようとしている。それが叶えば、また世界を愛せるようになるに違いないとさえ考えている。大好きだったはずなのに、いつまでもわたしの胸に居座る往生際の悪さを悩まされている――わたしは、自分自身がどれだけお母さんに救われてきたか、そのうえこの服に込められたお母さんの思いも、忘れようとしているのだ。
ふと、お母さんの言葉を思い出した。
「ねえ、お母さん」と、わたしはあの日、重苦しく口を開いた。ベッドに横たわるお母さんの手を大事に握りしめながら、お母さんがこちらを見つめてくれるのを待っていた。やがてお母さんと目が合うと、わたしはついで「あの時、風の強く吹いていた浜辺で、わたしに何を言ったの?」と怖気づきながら言った。
苦しそうなお母さんの吐息にいちいち気を配りながら、耳をそばだてた。
「自分を忘れないで。そう言ったの」とお母さんは微笑みながら言った。それはどんなに高尚な美辞麗句を並べたてようと表すことのできない美しさと、見た者すべてが心の空隙へ安心を見出してしまうような、不思議な魅力のある微笑だった。
「リリはきっと、これからたくさん悩むことになるわ。自分のことでも、お母さんのことでも。ひょっとしたら、ふさぎ込んでしまうかもしれない。全部、なかったことになればいいのに、って、思うかもしれない。だから、……だからね、そうなったら、自分がどんな気持ちになってきたか思い出して、綺麗なものだけ、取り出してほしいの。風に出会えたこととか……」とお母さんは途切れ途切れに言った。「ごめんね――なんて言えばいいの? こんなとき……」
それからお母さんは、おもむろにわたしを抱き寄せた。
「リリの誕生日だから、すごく幸せなのに、お母さん、こんなだから、おめでとうって言ったって、生まれてきてくれてありがとうって言ったって、リリは……喜べないよね――ごめんね」わたしはお母さんの肩に口をうずめたまま、力なく首を横に振ったりしていた。
お母さんの墓の前で、あの時のお母さんの予想は正しかったのだということを痛感したのち、決意を胸に立ち上がった。
「どんなに嫌いになったって、どんなに苦しくなったって、そのたびに思い出してやるんだ。綺麗なものだけじゃなくて、醜いものも――全部わたしで、それでもわたしは、お母さんのことが大好きだから!」