第七十一話《風を聴こう、そっと耳をそばだてて》
目を覚ましたはずなのに、体が妙に軽かった。体重さえ忘れたような感覚だった。
「ねえねえ、早くお話ししましょう?」とそばで声がして、わたしがそばを見ると、ミレーニアが立っていた。
「もう朝なの? ミレーニア」とわたしは言うともなく言った。というのも、わたしは自分が口をひらいている感触がなかったのである。
「あら、ミレーニアを知っているの?」と彼女は部屋の窓を閉めながら、「よく間違われるの。私はパトリシアよ」
わたしはこの言葉を信じなかった。きっとミレーニアが、意地悪ないたずらをしているのだと思った。
「お話ししましょう。ずっと退屈なの。ミレーニアが魔法を使ってから、景色だって変わらないの」
でも、これはお母さんの声だ。わたしはなぜか心のどこかでそう感じた。ミレーニアとたしかに似ているけれど、あか抜けた低めの懐かしい響きが、昔その口で名前を呼ばれたような気にさせたのだろうか。……
「どうして、わたしはここにいるの?」動揺を隠しながら、何気ない口調でたずねた。
「ミレーニアの魔法は知っている? 写真みたいに、時間と風景を切り取るの。平たく言えば、生きた写真の中に私たちがいる。写真じゃ分からないけど、風だって映り込んでいる。わたしは風を呼んで、お話ができる。あなたはミレーニアの友だちよね? あなたは今、ミレーニアのそばにいる。そこには、私のまわりに吹いているのと同じ風が吹いているの。あなたは風に運ばれてここに来たの。……つまり、何かしら私とあなたには繋がりがあるんだわ。まだミレーニアには教えてないの。だって、知ったらお姉ちゃん、絶対意地悪をするわ」
彼女はゆっくり、長々と喋った。だがそこまで言われても、すべてを信じる気にはなれなかった。あまりにも唐突で、あまりにも単純が過ぎる。
「座って。あなたの話が聞きたいの」そう言いながら、彼女はわたしを椅子に座らせ、自らも席についた。その最中、わたしは壁にかけてある日付を見た。それは五百年も前の日付だった。
「名前をなんて言うの? やけに私そっくりだから、どうしても気になるの」彼女は机に肘をついてあごを手のひらに乗せた。
「リライナだよ」
「あら、素敵な名前。きっと名付けた人も素敵な人なのね」といちいち感銘を受けたような口調で彼女は言うのだった。
何もかもが意地悪だ。そして意地悪なものが、いつもわたしの胸を突いてくる。後片付けをするのは、いつもわたし一人なのに。……
「じゃあ、まずはわたしから話そうかしら。ある日に、唐突に力に目覚めたの。前兆はなにもなかった。そして、私とミレーニアが最初だった。そして、知っているかもしれないけど、魔法を持つものと、持たざる者が争いを始めた。ミレーニアは、魔法で私たちを守ることにした。写真の中の人は殺せないでしょう? ……はじめはたくさんの人が写真の中にいた。でも、のうのうと生き残ることに耐えかねた人たちがいた。そして武器を手に写真から出て行った。そうして、私とミレーニアだけが、今、写真の中にいる。意味があるのか、見いだせないまま生きている。お姉ちゃんは泣いてた。見たことなかったから、ちょっと動揺しちゃったけど。でも、私がいればいいって言うの。なんだか嬉しくなって、ずっとそばにいる。双子だからかな。私が出て行ったら、お姉ちゃんがまた泣いちゃうって思うの」
まるで気持ちに嘘があるような口ぶりだった。
それからわたしは、彼女のそういう真剣で含みのある喋り方に感化されたように、少しは真面目に話をする気になった。
「わたし、旅をしているの。だから、外のこと、少しなら話せるよ」
喋っている感覚がなかった。椅子に座っている感覚もありはしなかったが、どういうわけか、感情だけがはっきりと伝わってくる。わたしは彼女に、喋りかけたかった。……
「本当? リライナは強いね。どんな景色を見てきたの?」と彼女は身を乗り出して言った。
「最初から話すね。ここからずっと西のイスール・ベルって港町で生まれたの。夢が見つけられなくて、お父さんとお母さんに、ずっと負担を背負わせて生きてきた。……でも、ある時になって、夢を見つけた。絵を描いている人が池のほとりにいて、その人がハーケン・ボルステイン、わたしの師匠。画家になることにしたの。最初ね、師匠と会った池のほとりを絵に描こうと思ったの。でも、他に描きたいものがあるって気づいた……」
「どんな絵なの?」
わたしは喋りながら、今だけ、この意地悪に身を任せようと思った。だって、旅をすればするほど、欲張って、ないものねだりで、お母さんに、どんな旅をしているのか伝えたかったから。どれだけ寂しいか、伝えたかったから。……
「お母さんとお父さんと、わたしが三人でいる絵を描いた。……お母さん、ちょっと前に病気で死んじゃった……」
それを言い終えると、わたしは目を伏せてしまった。同時に椅子を引く音がして、彼女がわたしのそばに近づいてくるのが分かった。
そばにやってきた彼女は、何も言わずにわたしを抱きしめる。何も感じないはずなのに、あの嗅ぎなれた、山百合のにおいがした。といって、その実そんな気がされたくらいのものだったけれど。
「それからね、赤い髪の綺麗な子と、銀髪で吟遊詩人の子と一緒に、旅を始めた。メレンスの牧場で、馬や牛を見て、……あとね、可愛い女の子がいるの。幼くて、しっかりしてて、本や芸術が好きな子。そこからまた東に行ってね。サンルズってところで、彫刻家の人に出会った。素敵な夢を持ってて、いつか、飛空艇を作って飛ばすんだって言ってた……あとね、干し肉がすごく固いの――歯が折れそうなくらい固かった。暑い中、山道を歩いたり、友だちの目があんまりに綺麗だから、そればかり描いたりして……喧嘩っぽいことして、仲直りして……それで、もっと仲良くなって……それから……ああ、コートも買ったの。結構あったかくて、ヴラジーミルも気に入ってくれたみたいで……あ、ヴラジーミルはね、リスの名前なの、出会ってすぐに仲良くなったんだよ。……それで、そうだ! ヴェリミールってところでね、鳥にパンをあげてる女の子がいたの。ちょっと喋りたかったけど、できなかった。それで……それでね……」
わたしはもう、自分の話せることをあらかた喋り終えてしまった。なんとかもう少し、もう少し、一語や二語で構わないから、続けていたかった。……
「素敵な旅ね」彼女は、お母さんがわたしにしてきたような優しい口調で言った。「そろそろ……ミレーニアが起きてくる頃だわ」
そう言って、彼女は窓際に立った。
「窓を開けたら、風が流れる。そうしたら……リライナ、お別れになってしまうの」
彼女が窓に手をかけるのを見て、わたしは立ちあがった。
「待って!」これが嘘でも真実でも、まだ伝えていないことがある。「お母さん!」
とうとうわたしはそう呼んだ。お母さんは驚いて、窓から手を離した。
「まだ言いたいこと、たくさんあるの! あるはずなんだよ! お母さんが死んでから、ずっと、もう一回だけお母さんと話したいって思ってきたんだから! ……夢を見つけたよって、もう大丈夫だよって……大好きだって言いたかった! おかあさん……もっと言いたいのに、もうお別れだなんて嫌だよ……二回もお母さんがいなくなるなんて!」
お母さんに駆け寄って、強く抱きついた。きっと風邪でもひいたんだ。なんだかとっても顔が熱い。
「リライナ……じゃあ、私がそう名付けるのね」
「そう。お母さんがつけてくれた、大好きな名前だよ……」
お母さんの胸に頭を押し当てて、苦しくなるのを堪えた。
「じゃあ……私はリライナを残して、いってしまうのね……」
「お母さん……おかあさん……」一度目の別れでそうしたように、わたしは呼ぶことしか出来なかった。
「イスール・ベルに行って、私はリライナを産むのね。ねえ、教えて、それはどれくらい先の話?」
わたしはかすれた声で、自分の誕生日を言った。別れが近いからなのか、自分の声が聞こえなかった。
「ずいぶん、先の話なのね……でも、私がお母さんで、リリは嬉しかったよね?」
うなずいた。何度も、何度も……
「じゃあ、頑張る。もういちどあなたに会って……別れることになるけれど、お母さん、リリに生きてほしい。わがままで、身勝手が過ぎるけど……そうしてもいい? ずっと、リリのお母さんでいさせてくれる?」
わたしは……うなずいた。
「会いに行く。それで、お母さんにできること、全部してあげる。お母さん、頑張るから……リリ、これから先は、お母さんに伝えられないことばかりを経験すると思う。もう、あなたの人生よ。……生きてね」
強い風が吹いて、窓が勢い良くひらいた。そうして風だったらしいわたしは、だんだんお母さんから遠ざかっていった。
そばで声がする。体を揺さぶられる感触がある。今度こそわたしは、本当に目を覚ましたらしかった。
「リライナ? あなたうなされているわよ?」ミレーニアの声だった。
目を開けると、彼女が心配そうな顔でわたしを覗き込んでいる。
ベッドに横たわったままのわたしは、こめかみを涙が這っていくのを感じた。
「夢を見た。お母さんに、伝えたいことを伝えられた」
力なくそんなことを言いながら、わたしはあることに気づいてハッとした。あれがすべて、本当にお母さんに伝わって、それでお母さんが旅に出たのだとしたら……
「……わたしが、お母さんの魔法だったんだ」




