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第七十話《昔の写真》



 彼女は喜んでわたしがそう呼ぶのを勧めるけれど、伯母さんと呼ぶのは差し控えた。荷運びを終えたメリルとセイディは、ミレーニアを見ると、わたしと同じように目を開いて驚いたものだった。


 それからわたしはミレーニアに城じゅうを案内され、お母さんの残していったものや、写真を見ることが叶った。ミレーニアの部屋で、彼女のベッドに腰をおろすと、彼女が思いついてアルバムを引っ張りだしたのである。それは白く飾り気のない分厚い本に思われた。


「これ、私とあの子が小さい時よ」彼女は見たことのない服を着た二人の子どもが映っている写真を指した。夏に撮ったらしいその写真は、ひまわり畑を背にして、二人の青い女の子が手を繋いで立っている。「こっちがパトリシア」


 右側の女の子を彼女は指した。わたしは表面では写真を嬉しそうに眺めていたが、内心では、さっきから鼻をくすぐってくるにおいがなんとも気にならなかった。


「あなたの母親になってからも、写真は撮ったのよね?」


 ふいにミレーニアはわたしを見た。匂いを嗅ごうと近くに寄っていたわたしは、彼女の瞳を間近で見ることになった。


「うん。飾ってあるのは一枚だけなんだけど」とわたしはやはりうわの空のように呟きながら、なにか彼女に確かめたいことがあると認める。「ミレーニアは、その、お母さんが死んじゃった事、どう思ってる?」


「伯母さんよ。見た目ほど若くないんだから」と彼女は微笑みながら言って、次に視線を落とし、二人で写った写真を指で撫ではじめる。「……そうね。ちょっとだけ寂しいわ。でも、それだけじゃないの」


 アルバムをめくり、彼女は一枚だけ写真を抜き出した。一瞬時そんな指が震えているように思われたが、わたしは黙ることにした。


「あの子は、自分は旅に出なきゃいけない、イスール・ベルに行かなきゃいけないって、ある時から口癖のように言うの。理由を一度だけ教えてくれた。それがこの時。あの子が旅に出る前に、一枚だけ撮ったの」


 わたしは写真を受け取った。それはわたしの覚えている中でいちばん若いお母さんよりもちょっと若い姿だった。


「会いたい人がいる。そうとだけ教えてくれた。名前は、リライナだって言っていた」


「それは、お母さんの魔法?」


「分からないわ。あの子の魔法は、私の魔法より説明が難しいの。でも、未来予知なんてものじゃないはずよ」


「お母さん。風の声が聞こえるって言ってた。それが魔法だって」


 ミレーニアは考えあぐねたように首を傾げて天井の辺りを見やった。


「不思議ね。私の魔法も十分に不可解なのよ? 写真のように時間を切り取っているのだから。でもあの子のは……」


 わたしは多くをたずねようとはしなかったが、ミレーニアの見た目にようやく合点がいった。彼女はこの手元のアルバムの写真の中で生きているのだ。写真に写った人物が年を取らないのと同じように、彼女もそうして、歳をとらずにいるのだ。それからふと、わたしは彼女から届いた手紙の『百か千か……』という言い回しを思い出した。


 しかし、それについて口をひらこうとしないまま、わたしは何か、あの故郷から旅に出る前に、舞台に躍り出ようとしなかった、わたしが『おいで』と呟いても、ただ寂しがっているだけだった旅に出ないわたしのイマージュを、彼女に重ねてしまった。わたしがああやって彼女を置いて旅に出たように、お母さんも、ミレーニアを置いて旅に出たのだ。……


「寂しかった?」とわたしはなにげなく言った。


「ずるい子ね。私にそう言わせる気なの?」とミレーニアはどこか無理をしているように微笑んだ。「きっと、リライナも私の手紙を読んで、今の私がそうであるように嬉しかったはず。パトリシアの子どもがいる。それを知って、まだ一人じゃないと思ったのよ」


 彼女はどこまでもお母さんに似ていた。目の色や髪の色、唇の動きや眉も動きも、いちいちそっくりだった。それはかつてあこがれを持って眺め、いまは思い出に仕舞っている類似だったけれど、気を許してしまうと、彼女を『お母さん』と呼びそうで怖かった。


「リライナ。ただそう呼ばせて。私、何よりもそれがしたいのよ」


「うん。わたしもミレーニアをミレーニアって呼ぶたい。わたしね、友だちにはそうするの」彼女を親戚として扱うよりは、そうするほうが、距離が近くなるような気がした。


 ミレーニアは困ったように口を結び、物憂げな顔をしている。わたしはそういう彼女を見かねて、おもわず手を握った。ちょっと血管の目立つ皺のない手だった。筆を握ることに慣れたわたしにとって、それは甘美な触り心地のある手だった。まるで、なにもしたことがないかのように。……


「じゃあ、そうして。私の名前がお気に召したのよね?」


 ミレーニアの部屋の窓から見えるのは、遠い昔の景色だった。今は本の中に記されているだけの、戦争があった、人類の繁栄期の景色が。……

 


 夕食の席で、わたしは面白いものを見た。師匠とミレーニアの掛け合いである。


「ほら、野菜も食べるの。あと肉はよく噛むのよ? スープで流したりしないの。せっかくのごちそうよ?」とミレーニアは師匠の食事の作法についていちいち指導した。果てには師匠のそばに立って口をもごもごと咀嚼するように動かしながら、「あと二十は噛むの。聞いてる?」と言いだす始末だった。


「……はい。そのように教わりました」


 師匠はわたしたちを見回しながら、ちょっと気恥ずかしそうにしている。


「世の中広いですね。ハーケンさんが押し負けています」とセイディがわたしに耳打ちした。


 わたしは微笑ましいものを見ている格好でうなずき、わたし自身も注意を受けないよういつもより多めに料理を噛んだりする。しかし、ちょっと彼女の気になる程度に食器にスプーンをぶつけたりした。


 そうしているうちに食事を終え、師匠とミレーニアを残して、わたしたちはテラスへと出て行った。そこには満月があって、春らしい匂いがして、秋の落ち葉がやってきて、季節外れの暖かい風が吹いている。


「あんまり不思議って言いたくないけど、これは不思議としか言いようがないわよね。こんな魔法があるなんて、まったく知らなかったもの」とメリルはテラスの縁に腰かけながら言った。


 わたしとセイディもそれに倣って座った。


 かなりに目の肥えたわたしたちには、この景色は恍惚をもたらすものだった。そして季節というものが、どこか浅はかな概念のようにも思われる。春のほとりに立ち、一歩進めば落ち葉を踏み、かぶりには雪をいただいて、澄んだ月の白粉を肌に塗る。それが一度にやってきておいて、どの季節がなんだと口にするのは、あまりに馬鹿げているのではないだろうか。……


「結局、人の縁より不思議なものはないよ」とわたしは少し面白みに欠けることをついと口にした。


「それ、セイディが言いそうね」


「やっぱりそうかな」


「今はそんなこと言いません」


 セイディは顔を両手で隠して唸った。


「まあ、そういうこと言ってるセイディも、あたしは嫌いじゃないけどね」


「掘り返されると恥ずかしいのですが……」


 ちょっと風が吹いた。帽子を飛ばされないように抑えると、ヴラジーミルが頭の上で暴れだして、それから肩に出てきたかと思うと、セイディの頭の上に飛び乗った。そこで彼は、彼女の髪の隙間に身を滑り込ませる。どうやら彼は、ナッツを探しているらしかった。わたしはセイディの髪に手を伸ばした。そうして深くもぐりこんだヴラジーミルを摘まみだすには、相応に深く指をもぐらせなければならなかった。彼女の白銀の髪に触れ、次に頭皮に触れる。すると、あせものような膨らみがあり、いくらか汗ばんでいるのを感じた。その柔らかいようで、指の腹で撫でると少し硬めで……そんな小山に少し心奪われ、ハッとして、すぐにヴラジーミルを摘まみ上げた。


「お、お腹空いてるのかな……」わたしは慌てて、とってつけた調子で言った。


「はい。それとも、居心地が良かったのでしょうか……」


 セイディはいたって自然な口調で言った。しかしわたしには、それが自然の何気ない響きであればあるほど、気まずく、ひょっとして、と、そんなふうに思われた。


「あら、揃って月でお化粧しているの? 私も混ぜて」


 振り返ると、ミレーニアが一人でフレンチ窓にもたれて立っていた。


 そうしてわたしたちは、四人そろって季節のある、季節を忘れられる庭で、しばらく肩をつき合わせて座った。


「どっちがどっちか見分けがつかないわね」とメリルが言いだした。


「それじゃあ、髪でも切ってみようか。一度、メリルみたいな髪型にしてみたかったの」とわたしはミレーニア越しにメリルに言った。


「なら、私が切ってもいいかしら? 髪を切るのは自信があるのよ」


 そうミレーニアが言ったので、わたしは翌日、髪を切ることにした。



 まだ旅の出来事を並べようとすると、指折りで足りる数である。だがわたしは、これを誇りに思っている。人生はいつから始まり、いつから終わるのか……なぜ、人生に行き止まりを設けるのだろう。終わりがなければ、そんなに辛いのだろうか? 辛いのは生か、それとも死か……そんなふうに、唐突に考え出しながら、わたしはこの日、ミレーニアのそばで眠りについた。


 そしてこの夜に見た夢から……一人の人生から、わたしが始まったのである。


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