第六十八話《おでこ》
わたしたちを乗せた幌馬車が、徐々に大陸の北にあるカエ・サンクに近づいていく。その道中、ついぞ聞いたことのない音が山に響いた。わたしは本の中にいる巨人が口笛でも吹いているようなその音が、どこから来ているのか辺りを見渡した。
「今のは列車の汽笛です。テムス地方に入ったときに線路を見ましたよね? あれの上を走る乗り物です」とセイディが言った。
これを聞きながらわたしには、すべてがすべてそうではないにしても、ある程度は現実も本の中と似ているような気がされた。そしてつい先日のミレーニア伯母さんから届いた手紙のことを思い出して、ひょっとしてお母さんも、この汽笛を聞いたのだろうかと思わずにいなかった。はたと気づいたのは、そんな時だった。お父さんが話した思い出の中で、お母さんは大陸を横断したかもしれないと言ったらしかったのを覚えている。本当にお母さんは、東から西まで歩いたのだ。そしてその娘たるわたしがいま、同じように、今度は西から東へ旅をしているのだ。……
その日はカエ・サンクの手前で野宿をすることになった。そこいらは米の収穫を終えたばかりの侘しい畑に囲まれた場所だった。手慣れたもので、テントの設営もすぐに終わった。野宿の度にわたしたちはどれほど早くテントを組み立てられるかと躍起になって、しかし正確には測らずに、前より早く組み立てられたような気を起こして、それで満足するのだった。
この頃、ヴラジーミルは一日に一度は森に入らなければ気が済まないらしかった。毎度彼はナッツの催促をして、一つだけ抱えたまま森に入って行く。しばらくすると、ナッツを抱えたまま帰ってきて、なにか寂しそうな顔をして、それをわたしの手のひらに返してくる。
ヴェリミールで買った野菜や肉を食べ、十分に腹が膨れてから、まだ寝袋に入るのが嫌だったりすると、わたしたちは焚き火のそばで物言わずに座りあっていることが多かった。そうしてじっと黙りあっているのも心地が良かったが、そんな時にセイディが手を叩きながら歌いはじめたりするともっと気分が良くなった。
セイディのほうを見ると、星がいくつか紛れ込んで見えた。そばの焚き火から熱が来て、頬がはれでもしたように痛かった。だがその感覚が痺れてくると、いくらか頬が削れたように錯覚した。焚き火の熱が目に触れると、それからわたしは、涙を流す寸前のような目をしてセイディを眺めやったものである。
それからテントに入って、いつからかわたしを真ん中にして二人が寝袋に入る習慣ができている。セイディは早々に寝てしまって、ときどき豚鼻になるのが常だった。そのそばでわたしとメリルとは、そういうセイディの寝息を笑いあうか、何かとりとめないことをどちらかが喋りはじめ、どちらからともなく止めてしまうのが習慣だった。
「まだ半年も経っていないのね。なんだか、何年もこうして旅をしている気がする」そうメリルが言いだした。
「そうだね。見たかった景色、たくさん見たよ」
「全部見てから、そういうこと言ったら?」
わたしは何気なく頷いた。それからしばらくセイディを起こさないように小声で喋りつづけた。そして突然、わたしたちは黙りあった。
冬になりかけの時期で、やけに静かだった。もうじき雪が降りそうな気配もするくらいである。
「あのさ、リライナ」彼女はもったいぶった口調で言いだした。
そういうときはいつも、何かしら言いにくいことがあるのだと知っていた。
「あたしが一緒で、迷惑じゃなかった?」
初めて出会った時は、彼女をどこか堅物のように思っていた。だがある程度、彼女の癖や言葉の運びを理解していくと、わたしとメリルはやはり育った環境以外にあまり違いがない人同士なのだと感じることができた。
「ううん。仮に迷惑だったとしても、わたしは迷惑だなんて思わないよ。迷惑に感じるほど、メリルと繋がってもいなかった。……前にも言ったけど、わたしはメリルと友だちになりたかったの。なんとかしてね。だからね……メリルが何かして、わたしがそれを迷惑に思ったら、きっとわたしは、メリルと友だちになったんだって思うから」
「じゃあ、まだ迷惑なことは起きてないのね」メリルは微笑みながら、残念そうに言った。
「うん。今のところ」
すると急に、メリルが上体を起こして、わたしの上に覆いかぶさりながら、わたしの前髪を抑え、そこへ唇を押し当てた。
よく普段から嗅いでいるメリルのにおいがする。手や唇から伝わってくる熱が、焚き火がわたしの頬にしたように、すっかり感覚を麻痺させていった。
「おでこ、意外と広いのね」メリルは何もなかったように言った。「おやすみ」
彼女が自分の寝袋におさまって寝ようとしたので、わたしはそそくさと上体を起こしてメリルの真似をした。
「おやすみなさい」




