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第六十五話《前兆》


 空が澄み渡った日を、どれだけ思い出せるだろう。


 すべての事物が完成を前にして少し惰性的な流れを帯びるように、この季節にも、誰かが惰性を持ち出しただろうか? しかしどんな状況にあっても夢をないがしろにしてはならない。そうだ。一色一色、ゆっくりと塗っていくしか道はない。わたしは苦しいことから逃げたりしない。もしも苦しいことから逃げるのなら、わたしはこの画家という夢を、この道を、逃げ道に選んだみたいだから。……


 どこかわたしには自分でも知りえていない領域があるらしかった。それはある日に始まり、三週間ほどわたしの中で旗を掲げていた。なんでもわたしは、メリルの言によると、キャンバスの前に座ると、一言も発さずに、立ち上がることもせずに絵を描き続けているらしかった。意識ははっきりとしている。でも顔を上げると、夜になっている。さっきまで昼間だったのに。……


 絵を描いた。画家として、必然からくる絵を。


 ある晩にわたしは、胸のうちにこう呼びかけたことがある。


『本当に絵を描くことで、人に夢を見せられるのだろうか?』これについてわたしは、少し考えた後でこう答えたものである。『いや、夢を見せるというよりも、わたしのしていることは、人を優しくさせるような絵を描くことだ。それが人と人を繋ぎはしないかと期待している。……でも、もしも絵が、軽いあいさつや名前を呼ぶだけで本来つながるはずの心を、ようやく出会わせるならば、……なんて寂しい世界なのだろう』


 このようなことを考えた後に、しばらくわたしはスプーンやフォークより先に筆を取るようになった。絵の構想は詳しく練らなかったけれど、描いているうちに、どうして絵を描きだしたのかが分かった。


「リライナさん。ずっと描きっぱなしですよ」と隣の椅子に腰かけながらセイディが言った。


「うん。そうかもしれない」わたしは筆を下ろさずに言った。


 すると横合いから、フォークがわたしの目の前に現れた。先端には焼き魚が刺さっている。


「口を開けてください、そうしたら、絵を描きながら食べられます」


 いちど筆を止めてセイディの顔色をうかがうと、ギターを弾くときによく見せていたあの微笑みをしているので、真面目にそんなことを言っているのだと分かった。


 わたしは口を開けて、焼き魚を放り込んでもらった。それからまた筆を動かしていると、ふいとパレットに目がいった。幾重にも重なった色がある中、わたしはそこに緑を見つける。ちょうど今から山を描こうとしていたので、それを筆の先につけてから、わたしはセイディの前で筆を見せびらかした。


「これ、セイディの色」


 はじめ彼女はきょとんとして、あの馴染み深い苗色の丸い目を輝かせた。それから先日メリルが聞かせてくれたパレット理論の話を思い出していると、セイディは恥じらったように、またわたしの口に焼き魚を放り込む。


「リライナさんが! これを食べ終わったら、今度はヴラジーミルさんにナッツをあげますので、絵に集中してください」


 そうして、わたしが焼き魚を平らげてセイディがヴラジーミルを連れて行った後も、一人で絵を描いていた。


 幌馬車が山野を進む様子を、一色一色、描いたのである。


 ある夜、絵を描き終えてから深呼吸をしていると、師匠が肩を叩いてきた。


「君に手紙だ」と師匠は言って、一通の手紙を差し出した。


 それを初めに読んだこの時のことを、わたしはずっと忘れられないでいる。



 愛しいリライナへ


 ハーケンには無理を言ったの。あの子が機密主義なのは、お弟子さんならご存知ね? でも、あの子は私には逆らわないから、こうして、手紙の中でできるだけ話しておこうと思うの。ごめんなさい。いきなりよね? でも、いつだって物事はいきなり起きるのよ。どれだけ善行を努めようと、どれだけ悪行を重ねようと、出来事はいつも、起こるべくして起きるの。さて、話がそれたわね。あの子、ハーケンはね、まだ赤ん坊のころに、道端に捨てられていたの。それもカエ・サンクのど真ん中に。それを、旅に出ると言って家を出て行った私の妹が、私の元へ連れてきた。それから、私はハーケンの母親代わり。赤ん坊を育てるなんて思いもよらなかったけれど、なんだか楽しかった。もしも、リライナ? あなたが今、いろんなことで悩みながらも画家の道を進もうと弛まないでいるのならば、きっと、私と妹がしたことは無駄じゃなかったのよね? どれだけ耐えたかしら……百か千か、もう覚えていないけれど。私の妹は、なぜだかずっと前から、リライナと呟くことが多かった。私が誰の名前か尋ねると、子どもの名前だって言うの。なんだか楽しそうだった。まるですべてが分かっているみたいで。あら、そろそろインクがきれてしまいそう。もっと大事な事だけ書くわね。あなたの母親、パトリシアは、私の妹。それって、私があなたの伯母さんってことになるわよね? もっと好きなだけ、リライナがカエ・サンクに来たら、たくさん話してあげられる。ぜひいらして。あなたは姪だもの。歓迎するから。


 ミレーニア・アレキサンドロヴナより



 お母さんの名前だ。久しぶりに、誰かの手で書かれたお母さんの名前を見た。字面で見るのはお墓の文字以来だったから、妙に嬉しかった。


「君の母親の旧姓は、アレキサンドロヴナだ。イスール・ベルからカエ・サンクに行った時に、僕もそれについて教えられた」と師匠は淡々と喋りだした。


「つまりですけど、師匠がいろいろ教えてくれるのって、恩返しみたいなことなんですね」とわたしは手紙を何度か読み返しながら言った。


「したいことをしている。もっとも、もう付き添い以外にできることは――」と師匠が何か言いかけたので、わたしは椅子から立ち上がって、言葉を遮った。


「じゃあ、もう少しだけ、もうちょっとだけ続けましょうね! この旅を!」わたしは強引に声を出した。そして懇願でもしているふうな格好で師匠の目を見た。


「……ああ」師匠は弱々しく、驚いたような目をして言ったきりだった。


 わたしはそれから、布団にもぐる前に一言だけの手紙を書いた。もう少し文字を書く習慣を身につけておけばよかったと思う。



 あいにいきます。


 リライナ・メイリークより


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