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第六話《夜が怖くて泣いたころ、いつもあなたが傍にいて》

 朝食の席で、わたしは雑木林で友達になったリスを得意げな顔で紹介した。帽子の中が気に入ったらしいリスは、わたしが帽子を脱ぐまで、頭の上で優雅にくつろいでいた。それからリスは、お父さんとお母さんの視線に気づいたのか、慌てたようにテーブルへと飛び出した。

 そうして食器の間を駆けまわる姿を見て、わたしは少々、この行儀の悪い子に影響されてあたふたとしたものだけれど、お父さんは笑いながら「ずいぶんと賑やかだな」と言うくらいのもので、お母さんはお母さんで「いいお友達ね」とからかいでもするように言うのだった。

「これだけ元気なら、腹もすぐに空くだろう」

 お父さんが厨房から小皿いっぱいのナッツを持ってきて、リスの目の前へと置いた。リスはナッツの匂いを嗅ぐとすぐさま一つ掴んで食べだした。食べ方もどこか慌てているように見えるけれど、これで一安心である。

「名前はなんていうの?」とふいにお母さんが口を開いたので、わたしは少し驚いたふうをして見つめ返した。命名という観念が、このときのわたしには明らかに抜け落ちていた。そんな贅沢なことを、わたしがしてもいいのだろうかと、思わないでもなかった。

「お友達になったのでしょう? なら、名前で呼んであげないと」そう言われてわたしが悩ましげに天井を仰いでいる隙に「ねえ、リリ? 名前はなんていうの?」とお母さんはどこまでも優しい口調で、わたしの愛称を呼んだりした――そういう柔らかい尋ね方をされると、わたしはどこまでも弱かった。

 山百合の匂いがした。それはお母さんの匂いに他ならなかった。そしてそれは同時に、唐突に幼い頃の記憶をくすぐりさえした。




 まだ夜が怖かった時分に、わたしはいつもお母さんの傍にいた。子どもの権利を余すところなく行使していたわけなのだけれど、わたしは本当に、夜に一人でいることがこの世のなによりも怖かったのだ。無能で、価値のない、役立たずの自分と密接に交わっている――そのころから寸分たりとも変わらない、お母さんからの優しさ。そんな優しさを、夜というものが、ちょうど日の光を地平線の向こうへ押しやるのと同じように、いつか、わたしから遠ざけてしまうのではないかと信じて疑えなかった。

 世界は無能に優しくない。こんな想念が、わたしの妄想に禍々しい光彩を添えた。そうしてついに泣き出しそうになると、お母さんは決まって『今日はどの本がいいの?』と何気なさそうに声をかけてから、わたしを部屋まで案内するのだった。道すがら、わたしは絞り出すような声で『リスの本』と言ったりした。どれだけ小さい声でも、お母さんは訊き返すことをしないで、いつも微笑みながら頷くきりだった。

 わたしはリスが主人公のその絵本が好きだった。本なら他にいくらでもあったというのに、わたしはその物語を心から気に入っていたのだ。家族とはぐれた一匹のリスが、荒野や熱帯雨林や砂漠を横切りながら、やがて家族と巡り合うという、ただそれだけの、飾り気のない冒険記。でも、結末は明るいものではなかった。家族はリスのことを忘れてしまっていた。リスもまた、その長旅の間に、だれも自分の名前を呼ぶ者がいなかったために、――そのうえリスの忘れっぽい性質が手伝って――自分の名前を思い出せなかった。

 リスは忘れてしまっていた。自分が何者であるか。けれど、わたしは覚えている。勇敢でちょっぴり頑固な彼の名前は、「ヴラジーミル」というのである。




「ヴラジーミル」と、わたしは食卓で休まずナッツをかじるリスを見つめながら言った。そのとき、うっとりした吐息のようなものが聞こえた。そのほとんどあるかないかに感じられた音は、今しがたお母さんがおもわずこぼしてしまったものらしかった。それが分かると、わたしは気恥ずかしくなった。けれど同時に、わたしがこうして命名という形で彼の名前を呼ぶ以前から、彼はヴラジーミルとして生きていて、その名前を、わたしがついさっき思い出した記憶と同じように、世界が思い出したのに過ぎないのではないかという、やけに壮大な妄想を巡らせたりもしていた。また山百合の匂いが触れるころには、そんな妄想も急に靄がかかったようになって、それからやがて、思い出せないほど遠くなった。……



 家のお手伝いをしないといけなくなる夜になるまで、わたしは一瞬時でさえじっとしていることが出来なかった。ヴラジーミルを連れて町をひたすら練り歩いた。何もかもが新鮮だった。生臭い魚の匂いが漂う市場。そこで買い物を済ませたらしい人たち。見慣れた石畳の道。それらが点々とあるがままの姿をしていながら、わたしとはなんの関わりもなく過ぎていく。そのいたって日常的な現象のいちいちが、わたしを喜ばせた。

『わたしの世界に、風が吹いている』とわたしは事あるごとに口の裡で呟いて、自分だけの心に留めようとしていながら、しかし共感を求めでもするように、わたしの肩ですっかり疲れきってしまっているヴラジーミルの頭を撫でるのだけれど、彼はそんなことは気にもしていないらしかった。

「もう、これまでのわたしじゃないんだ……」


――世界が優しい、どこまでも、ずっと。


 なんて都合がいいのだろうと、やがて考えはしてみたけれど、もう遅かった。わたしは自分の口で、いまや世界を愛していると言えてしまうほどに感謝と幸福と謝罪の心で満ちていた。どれだけ世界を恨んできたのかを覚えている。魔法が使えない。遺伝だの運命だのという腹立たしい観念。それらすべてが、だんだん白みだしていく。これを幸福と言わずして、なんというのだろう!




――夕刻。


 わたしはその日、家に帰るまでの道のりを、嫌というほどに思い出すことができる。浮かれた心も少しは落ち着きを取り戻していた。夕日が町のあちらこちらを煌かせていた。石造りの家の窓に反射した光がときおりわたしの目をわずかに眩ませた。二つほど小さい橋を渡った。どちらもせせらぎがぼんやりと聞こえ、どこもかしこも夕日の色だった。

 もうじき、家にたどり着く。そんなときに、ヴラジーミルがわたしの肩から飛び降りて、家の方へ駆けだした。わたしは最初、ヴラジーミルはお腹が空いているのだと思った。だからそんな行動をとったのに違いないと、思った。


 大きな声が聞こえた。お父さんの声だ。


 わたしは、家の中に入った。


 そこで、お母さんが倒れていた。


 この日、もう風は吹かなかった。


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