第五十九話《シービンの親子》
コッツウォー地方の東に織物で生計を立てる町がある。大陸にある半分の衣服はここで作られている。この町は大陸の中心からやや東に位置していて、すぐ隣の町は政府が近いために発展している。隣町がどれだけ栄えていようと、このシービンの町がもっと発展した東の町にとって田舎町であるのに変わりはなかった。わけてシービンの町民は代々、魔法のない身に生まれたならば、魔法至上主義に万歳を辞さず、阿諛追従の精神で彼らの身なりを整えることがわれわれの呼吸を和らげる唯一の処世術と教え込まれて育った人たちだった。
大人の多くは、すでに出来上がっている楽な姿勢に不平を述べなかった。もっともこの処世術は、だれが始めたのかが伝えられていなかったので、ちょっと子どもが粗相をするとか不平が出てくるような気を起こすと、大人はすぐに「皆そうするんだ」と言って聞かした。大事なのは、皆とはだれかではなく、彼らはそう言う以外にできないほど言葉を失っていることだった。
この町に、ちょっと好奇心とまだ反抗心に燃える若者が一人いたとしよう。目が釣りあがって、野心があり、草原を陸の海と思えるほどの感性があり、病気の父を抱え、まだ赤ん坊の弟を背負いながら衣服の商売に励むような若者――彼女はシャルデュである。
彼女の家の軒先で営まれている衣服の商売は東側の人間を対象にして、肌寒い気候に合わせて少し厚手のものが多く取り揃えてあった。断じて左団扇の生活ができるわけではなかったが、彼女一人が店番をすることで、父の薬と弟の口にあう質のいいもの、そして彼女の胃袋を満たしたうえで、家についている電灯の税を賄うのに、不足のない商売である。
シービンの町において商売と言えば、服を売るか、あの山脈の尾根に連なっている数基の風車を管理し、それを昼夜問わず見張るような仕事しかない。シャルデュの父は、その発電所で働いていた。これもまたシービンの町民が言う『東側の利益』の意味深長な響きに添うものだった。
さて、ある秋の日に、シャルデュには出会いがあった。彼女がお得意の演技で愛想のいい接客をして、もうじき店を閉めようと金の計算をしている時だった。
「あの! ちょっと服を買いたいんですけど」この声を、これは自分と年の近そうな女の子の声だと思いながらシャルデュは顔を上げて確かめようとした。
たしかに女の子ではあったが、まだ子どものように思われた。衣服はどこでも見たことがない意匠だったし、青い髪も見たことがなかった。わけてシャルデュが一番戸惑ったのは客の口からこれほど丁寧な頼みごとをされたことだった。
「ああ、いいよ。もう店じまいだから、あんまり長くは無理だけど」と彼女は背中の弟の手が来客のほうへ伸びているのに気づきながら言った。
「おとなしくする約束だっただろう?」シャルデュは小声で言った。
だが弟は、ちっとも客のほうに伸ばした手を引っ込める気がないらしかった。
「弟さん? それとも、妹さん?」客は興味深そうな、感じのいい微笑みを浮かべて言った。
「弟だよ。今年の冬で一歳になる」昼間に弟が泣きはじめたのを怒鳴る客が一人いたので、シャルデュはちょっとした安堵の小川に足を浸しながら言った。
「ちょっと抱っこしてやってくれない? あなたが気になるみたいだから」とシャルデュは言いながら弟を青い女の子に渡した。
「抱っこのやり方はこれでいいのかな」
「うん。そんな感じ。首がすわるまでが大変だったんだ」
弟はどうやら女の子の顔のどこかに興味があるようで、まだ手を伸ばし続けていた。シャルデュはけして人懐っこい性質ではない弟がこれだけ遠慮なく心をひらいているのが面白かった。商売人によく垣間見える観察眼を若くして彼女も持っていた。だがそれだけでは彼女の納得に届かないものがあった。青い女の子には、計り知れない不思議なところがあって、空や海がこの少女から始まっているのではと、馬鹿馬鹿しいけれど、思わないでもなかった。それがずっと微風に揺らめいているあの珍しい青髪や、変な服と帽子からくるものなのかさえ、ついに分からなかった。
「わたしの目に興味があるんだね」と客は腕の中の赤子に向かって言った。「ごめんね。これが宝石だったらあげられるんだけど」
なんて面白いことを言うのだろう。そうシャルデュは笑おうとしてすんでのところでやめた。客は唇だけで微笑んでいたが、ちっとも冗談めかして言ったわけではないらしい雰囲気を見て取った。
シャルデュは商売人として培う前から記憶力には自信があった。しかしこの自負する力をどのように駆使しても、昔に似た客に会ったことがあるように思うだけで、顔や時期やらは一切思い出せなかった。
「服! どれにする? 東に行くなら、やっぱり厚手の?」ようやく黙り込んでいる自分に気づいて取り繕うように彼女は言った。
「うん。厚手の服持ってないから」と客は赤子をシャルデュに返した。
弟は満足したのか諦めがついたのか、姉の背中に戻るとすっかり眠ってしまった。
「服のことはよく分からないんだけど、どれがいいのかな。テイスルーズまで行くの」
シャルデュが次に客へ向けた眼差しはひどく情熱的であった。彼女はまったく驚いたのである。ちょっとは屈強な体をした行商人がシービンから西のメレンスまで米を運ぶのを見たことはあるが、それには驚かなかった。旅や遠出をするのであれば、忍耐だの反逆だのの他に、何かしら天性的なものが必要だと、彼女は信じていた。その信頼をいつも肉体の強さであったり、はたまた精神の強さであったりに向けていると、自分が手ぶらで生きているように彼女は思うのだった。
「じゃあ、このコートかな。これからの時期は、雪がいつ降るか分かったものじゃないからさ」とシャルデュは羊の毛で仕上げてあるもこもこしたコートを客に渡し、耐えかねてたずねた。「旅をしているの?」
「友だちと一緒にね。ずっとイスール・ベルにいたから、見聞を広めるのが目的」
『イスール・ベル!』とシャルデュは口のうちで叫ばずにいなかった。『最西端じゃないか! そんなところからわざわざ? それだけの理由で?』とうとう表情にも驚愕の色が現れてしまった。かなりに驚いて、目を見開いたりはしなかったが、口はあんぐりとひらかれた。
客はそんなシャルデュに気づかずに、ずっとコートの手触りを確かめていた。
「じゃあこれと、そっちの帽子を」
シャルデュは会計をしたあと次のようなことを言った。
「お強いね、お嬢さんは」
「ううん。ただ、時間をかけて動いているだけ」と客は首を振った。
「そんなことないよ。この町に住んでる人は、東側の人間のために尽くすのが定めみたいに思ってるんだ。それ以外は、考えるのもダメって風潮さ」
「じゃあ、あなたは考えたことがあるんだね」と客は的を射たことを言った。「だって、そんな話をするんだから」
シャルデュが黙ってこの言葉を受けとめていると、風が吹いた。もう消えた夏が最後に残しておいたものででもあるかのように、それはとてもあたたかいものだった。
「きっと、どんなことでも人は許せるはずだよ。だれもしようとしないことは、間違いだからじゃない。勇気がないだけ。でも忘れちゃいけないの。自分がどれだけ頑張るかなんて、他の人には関係ない。この服と帽子を作った人の努力も、わたしには一切関係ない。でも、わたしは大事にするよ。気に入ったから」
「どうして、そんな話を?」
「それはお互い様だよ」と少女は冗談めかして言った。「こんな話をする人を一人知っていると、もっと、他にも何人かこんな話をする人がいるに違いないって、思えると思って」
シャルデュはこれを聞きながら背中の弟に一度視線を投げた。ふいと身を案ずる気になったのである。
「リライナ! いつまで買い物してるの!」
「すぐ行くから待ってて―!」と客は後ろを振り返りながら言った。
客は再びシャルデュのほうへ向き直って小さく手を振った。
「服、ありがとう。ばいばい」
「うん。ばいばい」
彼女はその青い少女が幌馬車に乗り込むまでずっと身動きせずにいた。それから思い出したように、店じまいを始めた。
この日の夜、彼女は食事と医者から貰った薬を父親に出したあとで、何か引っかかるものがあって、とうとう口をひらいた。
「今日、髪の青い人に会った」
これを聞くと、ずっと身を横たえてベッドの上で安静にしていた父親がやおら体を起こして彼女を見た。
「青い人。ひょっとして、私と同じくらいの歳の人か?」
「え? 違うよ。あたしと同じくらいの子」シャルデュは父が少し驚いているふうの格好で身を乗り出しているのに驚いた。
「なら、ひょっとしたら子どもかもしれない。青い髪だなんて、大陸中を探したってそういない」
彼女は父の言うことを興味津々に聞いていた。父親は大病というほどではなかったが、かなりに弱っていて、近頃は口数も減っていたので、この時、父が饒舌に話しているのを安心して見ていられた。それだから彼女は、もう少し父親に喋らせたかった。
「父さんが会ったのは、どんな人?」
「まだおまえが小さい時に会った。一歳になる年だったと思う。青い髪で、目も青い、波打つような色だったよ。……ちょうど、店じまいをする頃に、その人はやってきて、イスール・ベルを目指すから、服と帽子を買いたいと言ってきた。ちょうど夏を控えていたから、彼女は麦藁帽を買っていった。当然、覚えていないだろうが、まだ小さいおまえを背負って、私が店番をしていたんだ。おまえは彼女のほうへ手を伸ばしたんだよ。……彼女は、おまえを抱かせてくれないかと言ってきた。東から来たと話していたが、東の人で、そんなことを言うのはその人だけだった」
父がどこか敬虔な態度でいちいちゆったりと退屈するような喋り方をしても、シャルデュの興味は去らなかった。彼女は週に一度やってくる牧師が分厚い本をちょうど中ほどをひらいて持ち上げながら話す説教を長々と聞いたことがあった。だが父のいましている話は、いくらかマシだったのだ。
「私は喜んで、おまえを彼女に抱かせた。おまえは、その人の目が欲しいらしかった。そうして彼女は、この目が宝石ならあげられるのにと言って残念そうにしていた」
これを聞いてシャルデュは、本日何度目かの驚愕を味わい、それからふと、ここまで似たようなことが起きたのであれば、父もきっとあたしと同じようなことを考えたかもしれないと期待した。
「父さん」と彼女は改まって父を呼んだ。「旅に出たいって、思ったことある?」
父親はベッドから娘の顔を見た。娘が見たのは、父の嬉しそうな顔だった。
「口にしたことはないがな」
それから親子はひそひそと笑い合った。……




