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第五十四話《Because of you》メリル編Ⅳ



 翌日、雨は止んでいたが、晴れている訳じゃなかった。


 マレスの村は、これといって農業や工業の影のない村だった。仕事がなく、多くの村人はちょっと東にある町まで出稼ぎに行かなければならない。つまりは貧しい村だったのである。


 メリルは村に入ると、ヴィンセントの背中から降りて走った。


「ちょっといいかしら?」とメリルは軒先で洗濯物を干している老婆に言った。「ジェローム・ヴォーティエって名前の人が、この村にいるって聞いたんだけど」


「ああ、あの青年かい? 彼なら、少し村から離れた丘の上の家にいるよ」老婆が方角を指しながらそう言うと、メリルは礼を言って去ろうとしたが、その前に老婆が付言した。「何日か前から、病気で寝込んでいてね」


 メリルは慌てて走らずにいなかった。セイディはヴィンセントを走らせて後に続く。


 一度も彼女は力を弱めずに走った――運動はかなり不慣れだった彼女の体はすぐに悲鳴を上げたというのに、一度も。先日の雨で地面は泥になり、よく靴にまとわりついて重い。風もあまりなく、走っているとすぐに口が渇いた。その上で続く呼吸が、どれほどうるさく聞こえただろう。……


 丘の上にある家の前で彼女はようやく立ち止まって膝に手をついた。走っているときは感じなかった熱がこの時になってとうとう、じわじわと覆いかぶさってくる。そうして呼吸も落ち着かないうちに彼女は扉へ手をかけた。鍵は開いていた。


「ジェローム!」


 そう叫びながら家に入ったが、返事はなかった。メリルは家の隅から隅に目を凝らして、壁際のベッドに横たわっているジェロームを見つける。彼女はゆっくりとベッドに近寄った。


「ジェローム……兄さん……」かすれた声で、彼女はまだ彼が生きているのを願った。そうするのが、悪寒に対してできる唯一の防御だったのである。


 ベッドのそばで座り込み、メリルは彼の手を握った。彼は眠っているだけらしかったが、かなりの高熱でもあるらしかった。


 徐々に、徐々に彼の目は上下にひらき、メリルの知っている金色の目が覗いた。


「……メリル?」彼はそう声をかけた。


「そう、そうよ。兄さん……」とメリルは言った。


 セイディは扉のそばに立って、二人を微笑ましそうに見ていた。もちろん不安も混じっていたが。


「さては、僕が君の兄だと知ってしまったのかな。きっと父さんだろう。あの人は口が軽いから、うっかり滑らせることがあるんだ。ああ、よく知っている。メリルが衝動に駆られやすいのも、よく知っている」彼は口調の弱さは病人のそれだった。


「一回くらい、兄さんの口から教えてくれたってよかったじゃない。追放される前日に、パレット理論なんて話すくらいなら……」メリルはなんとも嬉しかった。わけて、彼を兄さんと呼ぶことが。


「相変わらずひどく堂々としているね。でも……そうか、兄さん、か。そういう呼ばれ方が、僕にもあったのか」


「いくらでも呼ぶ! 兄さんって呼びたかった。ずっと、ズっと……」メリルは泣きながらそう言った。


「でも、島を出たら、父さんや母さんは――」


「――あんな奴ら知らない!」メリルは身を横たえている兄にしがみついた。「兄さんだけいればいいの!」


 ジェロームは妹の頭を撫でる。


「父さんや母さんにも、しっかり事情があるんだ。魔法を持たない子どもを産んだ両親を、島の人たちはずっと馬鹿にして笑いものにしてきた。僕に、少しでも魔法があればよかったんだ。でも定着しなかった。考えたことはあるかい? 親からの遺伝で魔法が決まるとしているのに、なぜ人は遺伝したと言わずに、定着したというのか。……魔法は消えていく。まるで何かに吸われるようにして。だから定着したって言うんだよ。僕には魔法をとどめておく力さえなかった。だから、メリルが魔法を定着させた時、両親は大喜びだった。あとは、僕が消えればヴォーティエの名に傷はつかないはずだった」


 仕方のないことだった。最後にジェロームはそう言ったが、メリルは聞こえないふりをした。


「どうして兄さんは自分ばっかり犠牲にしたがるのよ! 昔からのしきたりなんて、どうだっていいじゃない……」


「メリルが笑顔になるならそれでよかった。メリルが産まれるまで、僕もそれなりにいじめられた。でもメリルが産まれてから、島の人は手のひらを返して喜んだ。まさしく君は天使みたいだった。家族を救った。僕も十分に救われた。だからメリルだけには、辛い思いをさせないように、僕から両親に言ったんだ。メリルを一人っ子として育てるようにと」


「バカ。自分勝手よ、そんなの!」


「メリルだって自分勝手だろう? ……ああ、悪いことをした。それは兄譲りだね。どうか許しておくれ」ジェロームは天井を見上げながら、「最後に妹に会えて良かった」


 また悪寒がメリルを襲った。口が渇き、泣きはらしたあとで驚きの声も出なかったが、はっきり襲われた。


「実は、そう長くないんだ。医者には余命一ヶ月だと言われた。手術を受けるために東部へ行くお金も、手術に払うお金もない。もっとも、もう手遅れだそうだが」


 ジェロームは、彼の顔を覗き込んでいる妹の口が震えながらひらいては閉じるのを見た。目は大きくひらかれている。


「そんな顔しないでくれ。ますます、怖くなるよ……」


 彼は妹につられて泣きながら、彼女の頬へ手を当てた。


「思った通りだ。こっちに来てからもいろんな花を見たけれど、やっぱり、メリルの花は……」続く言葉は激情のために出てこなかった。


 ジェロームは扉の横で佇んでいる少女を見た。


「……友だちかい?」とメリルにだけ聞こえる小声で言った。


「ええ、そうよ」


「パレットに絞るほどの仲かい?」


「ええ、そうよ。あの子はセイディ。緑よ。葉群れを付けるならあの子の色にする。もう一人いるの、あたしの大好きな子。その子はリライナって言うの。目が青くて、風みたいな子。青い風ね、風を塗るなら、その子の色にする……」


 妹が友人について語っている。どれほど素敵な友人をジェロームが想像したことだろう。できることなら、その色を一目見て、花の周りを風や緑を描きたかった。彼は、一輪の花を描こうとしか決めていなかった。余白は、何が埋めてくれるだろうか。……


「そうか……そうか……」


 ジェロームは、静かにそれだけを繰り返した。


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