第五十二話《Because of you》メリル編Ⅱ
突発的な狂気に任せて人を殴ったあとに虚しくなるのと同じように、メリルは少し冷静になりかかりながら山道を歩いていた。少し山を登ると、嘘のような雨が降った。魔法には反動が付き物だったので、彼女の体は狂熱的な熱さがこもっていた。それだからこうして体が冷えるのにはなんとも満足した。だが心は? 狂熱にほだされ、駆り立てられておきながら、メリルの心とやらはずっと冷えていた。熱さがリライナに冷たい態度をとってしまう事態を招いたのを、彼女は皮肉って嘲笑した。
しかし、そうするのは寂しくなるだけだった。あの目を見た? 火柱が消えた時、あの子のしていた寂しそうな目を……
メリルは何も持たずにアトリエを飛びだした。食べ物が無いのに気づいたのは、もう日が落ちてからだった。
雨は止まなかったし、歩くのを止めようともしなかった。なんてことはないはずだった。こうして一人で歩くのも、黙っているのも。だが隣には感動がない。慣れ親しんだ人の存在が思わせる展開や機微の一切がない。もう笑いあうのを知った後で、この感覚の瘴気は身内を蝕む。これを癒すはずの本でさえ、彼女は置いてきてしまった。
「メリルさん!」そう呼びかけるものがあった。
馴染みの呼び方が一瞬時、刹那的、瞬間的と言われるきわめて短い時間、わずかにメリルを喜ばせた。だが、我にかえるのもまもなくだった。
呼んだのはセイディだった。彼女はヴィンセントに乗って、雨具は着ていなかった。彼女はメリルのそばまでやってきた。
「何しに来たのよ」とメリルはなんとか棘のある言い方で言った。
「ご同行です。メリルさん、何も持って出られなかったので」そうセイディは気圧されることなく言った。
「それだけの理由? 食べ物くらい、山菜をむしったりすればなんとか――」
「――恩返しです」セイディはあまり好んでしなかった語気の強め方をした。
「あたし、あなたにそんなことした?」
「はい。メレンスで最初に出会った時に。……あのまま眠っていたら、本当に目覚めなかったかもしれません。だから恩返しです。自分がどのようにして人に希望を与えているのか、注意しないとだめですよ」
メリルは彼女の真剣さについて友人の範疇で知っている限りのことは知っていたが、このように、明らかな熱をひた隠しにして半ば怒りのある真剣さを彼女が持っているなどとは思いもよらなかった。メリルは首を絞められるささやかな驚きに固まった。
「行きましょう」
セイディの伸ばした手を掴んでメリルは彼女の後ろへ座った。
「もう夏も終わりです」
ヴィンセントは山道を進みだした。
マレスの村は想像以上に遠かったので、セイディは野宿の提案をした。メリルはしぶしぶではあったがこれを了解した。何も食べずやつれた顔を兄に見せるよりはいいと思ったのである。
休める場所を探していると二人は一つの立て看板を見た。文字はかすれて読めなかったが、どうやらそこは人が消えて久しい廃村であるらしかった。そこでセイディとメリルとは廃屋に入った。ヴィンセントは屋根のある場所でニンジンをもらった。
家の中は木材が腐っていて、所々で床が抜け、天井にも穴があったので屋内に入った実感はさほどない場所だった。どの家も同じような有様なのを見た後で、少しはこの家がまともだと思い込もうと努力した。しかしこの努力はちょっとでよかった。なぜなら、二人はもう疲れきっていたから。
「これ、リライナさんが持って行けって」
セイディは鞄からパンを取りだした。幸いなことに、パンは濡れていなかった。
「そう……」メリルはしっかりと礼を言おうとしたが、実際はセイディにも聞こえず、彼女も言ったような気になったくらいだった。
それからめいめいに場所を取ってパンをかじった。セイディは背の低い本棚の上に腰かけ、メリルは壁にもたれかかった。
二人のあいだには天井の穴から入ってくる雨のために滝に似た壁が出来てきた。互いの表情は、かろうじて目を凝らせば見えるくらいだったが、メリルはセイディのほうへ視線を投げようとはしなかった。これは躊躇いだったろうか。なぜメリルは、この場においてはサンルズでしたような身勝手な発作的衝動に突き動かされず、さらにはそれが起きていたとして、なぜそれに従わなかったのだろう――念願がすぐ叶うのであれば、多くの人が、貧困に悩むのなら富に、暑熱にあてられれば水に手を伸ばすはずなのである。なぜ我慢がこれに立ち入ったのだろう? 彼女はもう十六だが、まだ十六であるはずなのに。
「メリルさんって、私が思っている以上に強い人です」
「どうして?」
「だって、後先考えないですよね。無謀ですけど、しっかり結果がメリルさんの後ろにいつもついてまわっている。そう思います」
「そこまで猪突猛進じゃないわよ」
それって、まわりが優しいだけじゃないの。そうメリルは思った。
まだ、彼女はセイディを見ようとはしなかった。
「ずっと、私たちと旅をしているあいだも、お兄さんのことを考えていたのですよね」
ようやく、メリルはセイディのほうへ目を向けた。するとセイディは、半分ほど食べ終えたパンを手に持ったまま、あの天井から入ってきた雨に打たれる場所に立っていた。彼女の緑色の目には、メリルの知らない怒りが感じられる光があった。
「ずっと……ずっと、ですよね。教えてくれたってよかった。お兄さんを探しているなら、そう言ってくれたなら、手伝うこともできたのに」
「セイディには……あなたには関係のない話よ」メリルはいつも言葉に含んでいる堂々とした調子の欠片すらこの言葉に込めなかった。
「やっぱり、メリルさんは私を信用していないのです。きっと、リライナさんのことだって」
「あの子のことを持ち出さないで!」
メリルはセイディのそばに駆け寄り片方の手で彼女の胸倉を掴んだ。もう片方に持っていたパンは握りつぶされた。
セイディは少し唸った程度で、圧倒されたりはしなかった。
「じゃあどうして黙っていたのですか! お兄さんのことだって――魔法のことだって! リライナさんも私も、もっとメリルさんのことが知りたかったのに!」
「できるわけないでしょ! セイディもリライナも、魔法が定着してない。それだから魔法を使わなくても追える夢を追っている。そんな二人のあいだで、魔法が使えるのに画家をやっているなんて、そんなことが知れたらあなたたちは――」
予想していなかった。彼女は彼女の頬にセイディの張り手が飛んでくるとは、まったく想像しなかった。
彼女はセイディから手を離して、自分の頬に手をあてて、急に寂しくなった。
「人の夢を、品切れの棚に偶然残っていたパンみたいに言わないでください。私は好きでこうしています。やりたくてやりたくてたまらないから、こうしているのです。リライナさんもきっとそうに違いありません」
セイディはメリルを自分の胸へと押し当て、再会の祝いにある力強さで抱擁した。
「今のは、私の胸にしまっておきます。同じ言葉は、けしてリライナさんに聞かせないでください」
メリルはしばらく黙ったままだったが、弱い頷きを何度か繰り返していた。そして、ようやく口が言葉を思い出した。
「ごめん……ごめん。ただこワかった。魔法が使えルなんて分かっタら、二人が離レていくんジャないかって――コわかった!」
吟遊詩人は、この場に起きたことを、本当にだれにも話さず、まるで起きていないように扱おうと固く胸に誓った。
「まずは休みましょう。それから、お兄さんに会いに、マレスへ行きましょう」




