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第五話《静けさを聴く》


 海鳥の声を聴きながら外へ出て行くと、もう風が満ちていた。山からやってきた風はいたって個性的な土の匂いと共に、あちらこちらで青々とした樅の枝先から騒々しい静寂を絶えず引きもぎっていた。風の流れに従って海の方を眺めやると、うっすらと白波がたっているのを見出して、すぐそばの港に数隻の船があるのを認めることができた。それらの、情緒と自然の慈愛のうえでは、海鳥が優雅に泳いでいる。


 そうして一、二分眺めていると、風がついに止んだ。本当の静寂が山からゆっくりと下りてくるのを感じながら、大きく息を吸った。そうすることで、いましがたわたしが抱いてしまった、ささやかな、けれども強固な不安や疑念といった観念を少しでも取り払うことが出来でもするかのように。


 ほとんどの木々からざわめきが消えかかった――でも、家の前の小川を挟んだ向かいにある雑木林の梢はいつまで経っても鳴りやまなかった。日の光は小川に落ちて、その水面を半ば幻想的な輝きをもって彩ったのち、水面から飛び立って、木陰のあちこちにゆらゆらとした光線を浮かび上がらせていた。


 わたしは躊躇なくそちらへ歩き出した。煉瓦で作られた橋を渡る足は朝露のように軽かった。そうして文明の立ち入りを拒んでいる林の中へと足を踏み入れ、育ちのいい根や草の間を、さも歩きにくそうにしながら奥へと進んでいった。


 風はほとんどあるかないかくらいの微風になってわたしの背中にやってきた。それが背中を通り過ぎると、またわたしは風の少し後ろを歩いた。


 人々の生活。資源が枯渇していく世界。海鳥の声。それらすべてが漸次、遠ざかっていく。今この時、風とわたしに触れることが叶うのは、微笑む木々が無数に枝を差し交している葉の隙間から地面へとまばらに落ちる日の光――ただそれだけである。


 しばらくすると、急に開けた場所に出た。そこでは空気でさえ緑色を帯びているかのように見えるほど、たくましい自然がありふれていた。


『ここが風の住処なのかもしれない』と、わたしは口の裡で呟いて、意地悪な世界がこれまで執拗にわたしから遠ざけてきたように感じられる些細な幸福――平等な、だれ一人抜きんでることなく与えられるちっぽけな要素を、自分の隣に見出すことができたという確信を、いまこそやっと、意識に上らせることが叶った。


――ただ風に吹かれているだけだった。風を感じようなんて、一度も考えてこなかった。


 緑の広場の真ん中で、そんな想念をとつおいつしていると、ときおり木陰からなにか茶色いものがこちらを窺っているらしいのが分かった。


 しゃがみ込んで、わたしはいかにも不思議そうな顔をして木陰を見入っていた。まもなくそれは姿を現した――はたして、それはリスだった。


「おいで。友達になれるよ、きっと」リスの方へ手を差し伸べながら、わたしは努めて優しい声音で言った。それから続けて「なろうよ。友達に」と言い足した。


 リスは恐る恐るといった調子で近寄ってきた。やはり、すぐに自然と打ち解けられるものではないのかもしれないとわたしが訝りだして、そういう想念が胸の裡で膨らもうとするのを抑えようとでもするかのように、わたしが一瞬時、無意識的に目を閉じると、指先にひんやりとしたものが触れた。おもむろに目を開けると、髪の隙間から、わたしの指に自分の手を置きながらこちらの顔をそこはかとなく心配そうな面持ちで見つめているリスの姿を認めた。


「そっか……勝手に壁を作っているのは、わたしだよね」


 ふいに口を衝いた言葉は、他ならぬ自分自身に向けられた言葉だった。喜悦と不安の山脈で登攀を繰り返していた心が、とうとう目的地にたどり着いたのだ。

 リスはなおも憂慮の色を宿してわたしを見ていた。


「怖くないよ。ようやく世界を好きになれたから、あなたとも仲良くなれる」リスに言ったというよりも、自分の確信を大切にしだしたような心もちで呟いて、「そう思うの。心から」と言い添えた――世界が幽寂に作り上げた自然の中で、風をまとい、木々のざわめきや土の匂いを間近に感じ、それから自分自身の自虐的な観念や浅ましい想念の数々をさえ、そっくりそのまま受け止め、騒がしい胸の中に、心地良い静寂を見出しながら……


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