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第四十五話《Because of you》リライナ編Ⅸ



 雨は一度も降らなかった。ちょっとしたにわか雨でさえ降らなかったので、リライナは自分でも驚くほど絵に没頭することができた。描き終えると、ようやく汗でシャツが腕や背中に張り付いているのが分かるほどである。力が抜ける感覚に襲われ、ずっと立っていたために足が痺れた。そうしてとうとう、日が想像よりも傾いているのに気がつくのだったが。


 遠く、高さを測るのに恐れを覚える山がある。それがいくつも連なりながら、真剣に目を凝らしてみると、麓の木々がいくつか揺らめいているのに目がいく。殊に発展した東に比べて自然のすべてが浜辺の延長を思わせる揺らぎをする西の果てで育まれた彼女がそういう木々を見れば、故郷の姿を思い浮かべるのに十分に足りるはずであった。だが、彼女は見ようともしないでいる――あれほど幌の下で目指した景色をほうふつとさせるというのに……


 彼女はもう旅人だった。ちょっと自分自身を知りたい、そんな欲求に知らず知らず突き動かされている。他の旅人と違い特別なものがあるのではなかった。むしろ多くと同じように多くを知らないのだと弁えている。あえて彼女の他に類を見ない性質を挙げるなら、少し頻々と目を輝かせすぎることである。


 あれがもう二三度山から現れて、また今と同じように朝よりもずっと赤く見えれば、わたしはメリルたちのもとに帰るに違いない……そんなことを思いながら、ふと初めに浮かんだメリルの名前がやけに気に入って、それから彼女の瞳の花などもそっくりそのまま思い浮かべながら、なんとも清々しいような気持ちで日を眺めていた。


「でも、想像よりずっとメリルの目は綺麗なんだ」と彼女は小声でひとりごちる。


 メアリーが迎えに来たので、彼女は慌ててキャンバスを後ろに隠した。


「まだ見せてくれないの?」メアリーは不服そうに言った。というのも、リライナは絵を描き始めてからの数日、一度も絵を見せようとはしてこなかったのだ。


 焦らされれば焦らされるだけ、メアリーも、半ば自分の催促に対して彼女のする「まだです」の言葉のきっぱりとした口ぶりを楽しめるようにもなっていたけれど、今度は違って、リライナはキャンバスを抱えたまま小屋の方に走りだしながら「まだ乾いてませんから!」といたって子供っぽい響きで言うので、メアリーは自分の事のように嬉しかった。



 あくる日、メアリーは目を覚まして、ベッドの横に普段見かけない影があるのを見いだした。小屋の扉がひらいたままで、いくらか光が床に転がっている。体は自然に起き上がるのに、目が閉じているのか開いているのか定かではなかったので、まだ自分は夢を見ている――それも見たこともない新しい夢だと初めは信じた。


 そういう状況で認めたのは、先ほどからそばにある影で、それが世にも美しいものであったなら、彼女には名状しがたい幸福を防御する余力があるはずもなかった。


 彼女が見たものは絵だった。馴染みのある薄の上に、似たような金色をした今まさに小屋の中にある飛空艇が浮かび、頭を山の端に消えかけた日に向けながら大胆に日の色をいただいて輝いている。日に遠い空は濃青色に染まって、日に近い方では茜色に眩しく光っている。彼女は初め、これは夕暮れなのだ、もう夜が近い時刻にひっそりと私の飛空艇が飛んでいるのだと思うのだったが、ちょっと機械的な瞬きをしたあとでもう一度見直してみると、日の色が朝焼けのようにも思われた。印象の均衡の境目を成しているのは濃青色の空だった。次第にメアリーはそのもったいぶった青さが気に入り、これが自分のそばにあるのを改めて噛みしめた。


 ひとたび落ち着いて隣のベッドに目をやると、リライナの姿がないことにようやく気づいた。


「朝から元気だね」とメアリーはひらいたままの扉を見ながら独語して、一瞬時、この絵を少し抱きしめたい衝動に駆られたが、なんとかこらえて、煙草を咥えてマッチを擦った。そうすれば落ち着くような気がしたのである。だが、思い通りにならなかった。紫煙がなるべく絵の方に漂わないように配慮して口を手でやんわりと覆い息を吐くと、苦しくなり、次に濃密な湿っぽい山のにおいが涼やかな感触をくれる。そしてとうとうメアリーはわざとらしいきょろきょろとした視線を巡らし、誰も本当にいないのを認めると煙草を灰皿に置いてから絵をイーゼルから引き取った。絵の具を触るのは躊躇われたが、せめて鼻をキャンバスに押し付けんばかりに近づけなければ納得のいかない領域があったので、彼女はそのようにした。おそらく外に出ていると思われるあの画家に悟られぬよう、声をあげる以外に堪能の形を持たなければならなかったのである。


 それから漸次空想の力が彼女の中で強まったので、鼻を離すには強引に、感覚に区切りもつけずに行わなければ、いつまでもそうしていられる自信を漠然と認めることができた。


 記憶がよみがえるほどの感動に逆らうすべを人間は一度も学ぼうとしてこなかった。不完全な、言葉という形に記憶を押し込もうなど、そんな考えをずっと昔にやめてしまった人間がいる。それを成し遂げようとするならば、大げさに言って実のところ正確に、共感はおろか、ちょっと自分が他人より惨めに思えるだけなのである。


 しかし、あの子ならどうだろう? メアリーはそう思いながら、ついに絵をイーゼルにかけなおして煙草をくわえる。


「どんな顔して会ったものかなー」とメアリーはまたも独語した。


 あの画家ならばきっと、まるでこちらの言わんとするところのものをほとんどすべて理解しているような顔をして、たとえこちらが緘黙を守ろうと、倣ってみせるに違いない。


 彼女はこの確信を不思議に思った。なぜといって、彼女にも、友情にはパンの生地を寝かせるのと同じように時間が必要であるといった認識があったから。しかし同時に、彼女の手を取るだの抱き寄せるだのという行動に、三ヶ月、あるいは五ヶ月の時間を条件に出されてそのように我慢できるほど、彼女は冷静ではなかった。


 彼女は外へ、ようやく出て行った。この季節にしては、涼しい風が吹いている。


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