第四十四話《Because of you》リライナ編Ⅷ
「お師匠様にはそれから干し肉とカボチャのスープを飲まされた。今のリライナちゃんみたいに、はじめはぜんぜん噛み切れなかった」メアリーは自分が少し暗い内容を純粋な少女にしていることを十分に弁えて、ときおりリライナの顔色を窺いながら喋っている。
この配慮は、殊に生々しい神経的であるとか痛々しい肉体的な苦痛の記憶に蝕まれた過去を出来るだけ短い時間に収めるのには効果があったし、リライナはリライナで彼女の気配りを掴みあやまりはしなかった。瞬間的なバツの悪さを感じた場合にも、カウチの上に隣り合いながら顔を見合ってなんとはなしに微笑を投げあったりしている。
ヴラジーミルだけはまったく二人に興味を示さず、ナッツで飽満したのかすでにリライナの腕にしがみついて目を閉じている。
一本、二人の前で灯っているロウソクがある。薄明はまったくの暗闇にいるよりもそれを際立たせて、また世界を徐々に狭めていったので、幾度か部屋には音が聞かれた。しかしこんな夜更けにする音がどれほどに明澄なものであろうとも、昼間の疲れが急に堰を切ったらしい二人には、そんな気がしたくらいで、ふいと瞼を持ち上げると、どうもさっきより自分たちは身を寄せ合って座っているなと思われたくらいだった。だがこれも、次第に初めからこんなふうに座りあっていたに違いないという確信が取って代わるまで、ぼんやりとした意識下にあった。
「眠いでしょ」とメアリーは友人が友人に向けてする親しみのこもった低い声音で言った。
それから自分がこの話をするのを望んだことに少し異様な感触を見いだしたので、深くこれに捉われ、リライナの返事が聞こえないほどだった。
「メアリーさん?」
「ああ、えっと、眠い?」心配そうな顔で覗き込まれたことに彼女は驚いた。
「いいえ」リライナは低く真面目な調子で言った。「それからすぐ弟子になったんですか?」
ただただ探求心や知識欲に彼女がうながされていると感じるには親しみが顕著にあらわれ過ぎていたし、そう尋ねられると、かねてより欲しがっていた機会にようやく立ち会いでもしたような興奮があった。だがメアリーは落ち着きを保つことが出来た。興奮を体現するにはあたりがあまりに闃としていたので。
「あんまり詳しくは覚えてないかな。もう二十年くらい前のことだから」メアリーはリライナがそれを聞いて考え込む仕草をしたのを見いだして付言した。「私は二十六。いや、二十七だっけ? まあいいや。ちなみにハーケンと同い年」
「あー……えっと、メアリーさんの歳で悩んだわけじゃなくて、わたしがまだ生まれてない頃にいろいろあったんだって、思って」
「つまり若い自慢だ」とメアリーはからかい交じりに言ったりした。
「ち――が――い――ま――す」リライナは一音ずつ強調しながら体を左右に振った。
それからしばらく沈黙の雰囲気に守られていた。メアリーはカウチの縫い目に爪をひっかけてぼんやりと音を立てる。物に爪を立てるのは彼女の癖で、見た目ほど倦怠的なものではなかった。彼女は懐かしい感覚に浸り、できるだけ多くの思い出を、手短に、それでももっと、口にしないだけでそこには些細な事物までが伝承に値するものなのだと、彼女が思っているように、隣にいる画家にどうやって伝えるべきか――それを考えていたのである。
だがリライナはメアリーの癖について一切知らなかったし、まだ彼女の過去を必死に信じようとしている最中だったので、凄惨な印象をそれに見いだすと、ふいと彼女の仕草が打ちひしがれでもしているふうに感じられた。こんな時にリライナは手を握ろうとする癖があった。だからリライナは、怖がらせでもしないかといささか遠慮がちに彼女の手を、まずは指で触れてから握った。
メアリーは彼女の行為に遠慮を感じなかった。もっとも空虚の目を飛空艇のあたりに散漫に向けながら考え続けていたので、彼女の指の微妙な震えであるとか、かじかんだような固さであるとかには気が回らなかった。しかもこういう彼女の仕草が気に入り、心地よくなった。そうして握られた手をちょっと弛緩してみせたあとに握り返し、彼女と目を合わせた。
「気づいたら弟子だったかな。お師匠様の信念に惚れた。いつか、人類の歴史の繁栄期が戻ったみたいに、自分の作った飛空艇を空に飛ばす。飛空艇にはメアリー・デシャネルの彫刻。堂々と語られれば語られるだけ、私は魅せられた」メアリーの口調は事前に思い描いていた思惑にぴったりと相応しい響きだった。あの楽の音にときおり見られるような、過去が今になり、今が自分の隣からずいぶん遠ざかっていく感覚のある響きである。
「小さい頃は、空が好きでも嫌いでもなかった。でも、上から自分の名前を呼ばれて、お小言をもらっているうちに、そういう嫌なものが、全部、空から降ってきているんだって思うようになった。雨みたいにね……」
そこまで言うと、ようやくメアリーはリライナの手を離して立ち上がった。そのまま飛空艇の翼に指を這わせながら、
「でも、自分の信じたものが空を本当に飛んだら――そうなったら、きっと空を好きになれる気がするんだよね」
リライナにはこれは本当に夢のある話のように思われた。同時にこれの持つ魅力的な印象の儚さにも気がついて、すぐに筆を取りたくもなった。だが干し肉であごが疲れ、足首には砂利が詰まったような痛みもあった。それにため池で水浴びをしたあとでもあったから眠かった。
「これが現実になれば、きっと……」メアリーは言葉を口にするのが気持ちよくなり、その後も言葉を続けていたのだったが、急に背後で軋みと思われる音を聴いて振りかえった。そうしてリライナが眠っているのを見いだし、名残惜しそうに唇を揉み合わせる。
あくる日に早くからリライナは画材を持って草原の傍まで出ていった。幸いにも彼女の集中力に甚大な被害を及ぼすものなど何一つありはしなかった。むしろ彼女の集中力は、意識に不純な要素を立ち入らせないほど瞬間的に高まりやすかったし、傍から見れば、そういう彼女の姿に彼女自身が気づいていないのだと思えるほど、ぼんやりとしているように感じられる。
イーゼルにキャンバスを立てかけて、ほとんど無心に近い動作でリライナは絵を描きはじめる。それでもときどき、彼女がふいと顔を上げて、やはりはじめはぼんやりとした顔を、次第に和やかなものに変えざるを得ない事象が通り過ぎた。揺れる薄の穂先で風が吹いたのである。メアリーはすでに目を覚ましていて、小屋では薄目を開けて、彼女が外に出た後では物陰に隠れながらずっと、そういう姿を見ていた。




