第四十三話《Because of you》リライナ編Ⅶ
メアリーにその誕生と共に与えられた名前はどうやらゲルダであるらしかった。というのも、彼女は名付け親を知らなかったし、この名前があまり好きではなかったのだ。もっと響きがいいものを、そう思うでもなかった。彼女は決めたがる大人そのものに何かしら本能的な嫌悪を常に抱いたのである。大人は、みんなして彼女をそのままゲルダと呼ぶか、『骨付きゲルダ』と哄笑した。これはまだ幼い彼女を小間使いとして迎え入れたとある地主の一家の全員がしたことだが、彼女の扱いはほとんど奴隷のそれであった。
彼女はこの時代にごくありふれた捨て子だった。
食事より先に食器洗いを覚え、遊びより先に仕事を覚え、いつも彼方へのあこがれや月の光でなく、疲労が彼女を眠らせた。一家全員が口をそろえて『骨付きゲルダ』と呼ぶには相応しく、その他の六歳になる子どもと比べても、かなりに痩せが目立つ。ちょうど庭で木に繋がれている犬がおもちゃにしている動物の骨が、彼女の足や腕とそっくりだった。だがこれを見ても、地主一家は彼女に満足な食事を与えず、必要最低限――なんとか死なない程度の食事をさせる以外には罵倒することしか知らない連中だった。
仕事を決められ、食事を決められ、睡眠すら半ば決められていた。決められることはどれも彼女は嫌いだったが、なかんずく嫌いだったのは彼らが律義に自分をゲルダと呼ぶことだった。
夏の盛りに彼女は食器を割って五、六時間『お小言』をもらう羽目になった。地主は自らの口を醜く卑しい言葉の列挙で汚しながら、彼女を炎天下の日向に立たせ、ちょっとでも彼女が身動きしたり目を逸らしたりすると、手をあげることに躊躇がなかった。彼女は泣かなかったけれど、地主と自分のかなりの体格の差に半ば驚きつつ見上げているうちに、いつも私を責めるものは空からやってくるのだと思い至った。そういう想念が去来して集中力を欠いたりすると……地主は気に入らず、また彼女の頬を張ったりした。
それから庭の草むしりを命じられた。彼女は一言も口をひらかなかった。
しばらく草むしりをしていると、ときおり草の陰に羽虫や昆虫の姿を認める。彼女はゆっくりと物音一つ立てずに手を伸ばして、昆虫を手に乗せてみる。特に感情が現れたりはしなかったが、妙な欲求を禁じえなかった。昆虫の動きはあまりにぎこちなく、よくみれば足が二本ちぎれている。その無様な痛々しい姿は不思議と心地よかった。彼女は試しに昆虫の足を一本ずつちぎっていった。じたばたともがいてくれさえすれば、もっと満足ができたけれど、それでも彼女は気分がよかった。自然と微笑し、暑いこともしばしば忘れた。もっとこの感覚を味わいたかったので、彼女は昆虫をじわじわと握り、潰していった。昆虫ははじめ硬かったけれど、手を閉じるころにはすっかり柔らかくなった。唾を飲んで指を広げると、頭がまだ形を保っている。だが胴体はかなりにぐしゃぐしゃだ。まだ潰せることをこのうえなく喜び、指の腹で頭を押していく。それから昆虫は、枯れ葉を握ったときにするような音をわずかに立てながら潰れた。
『殺してやった! 私がこの手で! こいつの命を私が決めてやった!』
彼女を罪悪感が襲うことはなかった。ひどく満足した。だが、直後に足らなくなり、もう一匹虫を捕まえる。
一本、足をちぎる。一本、足をちぎる。一本、足をちぎる。一本、足をちぎる。一本、足をちぎる……一本、足をちぎる。
それから最初の虫と同じように握りつぶすと、今度も頭を残してぐしゃぐしゃになった。彼女はまた先ほどと同じようにそこへ指を差し向ける。
しかしここで突風が邪魔をした。虫が飛んできて彼女の手を噛んだりもしたので、手に乗った虫は勢いよく放り出された。こういうささやかな自然の反逆は彼女の心に著しく作用し、いつの間にか隣に恐怖を感じた。彼女は隣にそれがあるような気がしたくらいだったが、恐怖は間違いなく彼女の内にあった。だがどちらにしても、彼女はじっと立ち尽くしているわけにはいかなかったのである。
ゲルダは、逃げなくてはならなかった。幸い、彼女を見張る者はいなかった。なぜならこの一家は、骨付きゲルダがこれまで粗相は起こすけれど反抗することがなかったために、こいつは縄で縛らずともどうせここに帰ってくるのだという確信があったので。
ゲルダは駆け出した。せめて自分の死ぬ時くらいは、自分で決めたいと思ったのである。
気づいた時からこの家に従い、外に出る機会を持たされなかった彼女に行くあてはない。だが彼女は二三日のあいだ山道を走り回った。ある日は濃霧で、足元がよく見えずにそのまま道を踏み外して転落し、体じゅうに無数の擦り傷を作ったこともあったが、ひどい喉の渇きに比べれば大丈夫だった。
転落先で彼女を喜ばせたのは、目の前に現れた濁った池である。彼女は衣服の一部を破る……もうそれくらいに衣服が傷んでいたので、それはなんとも容易かった。そうして布切れを泥水に浸して、それを無我夢中に噛みながら泥水を啜る。不思議といつもの食事より味がある。嬉しくてたまらなかった。布切れに水気がなくなると、また池にそれを浸し、肉に食らいつきでもするように噛みついて啜る。しばらく繰り返すと、彼女は満足した。
ゲルダの足はすでに、体が前方に傾くので倒れないようにほとんど無意識で動いているに過ぎなかった。わけて道を踏み外して以降は獣道を歩いたので、平坦な道が久しかった。苔の生えている岩の陰などはまだ涼しかったけれど、それでも夏の盛り、日焼けしたらしい首筋がちりちりと痛むのが煩わしかった。
夜更けに、ゲルダは獣道から一面に薄の生い茂った草原に出た。ずいぶんと暗い場所に慣れていた彼女の目には、ここで眠りにつけるなら本望と思われるほど、それは美しいものだった。
だが道沿いに進んだ先に小屋を見いだし、そこからかすかにロウソクらしき光が漏れているのを認めると、急に彼女は落胆した。しかしそれと同時に気になりもしたので、覗いてパンの一つでも盗むくらいの気持ちで歩いた。
結果として彼女が犯行に及ぶことはなかった。なぜといって、窓から小屋の中を覗いた直後に、ゲルダは中で四十がらみの女がなにやら木を削っていて、それがどうやら人の形に彫られていると認めたのだ。何かしらそこには彼女を魅了する雰囲気があった。
あまりに身を乗り出して中を覗いていたので、窓が揺れ、女はそれに気づいて振り返った。女の目は鋭く、ゲルダはその場で化石したように固まる。
「こんな夜更けになんだい? ひどい身なりじゃないか」とまもなく女が出てきて言うとおり、ゲルダの体は血が固まったばかりの擦り傷や打撲があり、所どころ泥がこびりついていた。
ゲルダは喋らなかった。
「あんた、中に入りな。ほら」女は彼女の手を掴んだ。まめがいくつも出来ている大きな手だった。
ゲルダは人に対しての信用の一切を知らなかったばかりか、地主一家以外に大人を知らなかったのでそうされることにひどく震え上がりながら、ついに声を出した。
「いやさそんなの! 自分の死に方くらい自分で決めるよ!」叫んで彼女は初めて反抗した。衝動に任せて女の腰のあたりを殴ってみたが、手が痺れただけだった。
「じゃあどこでどうやって死ぬつもりなんだい? そんなんじゃ、夏が終わる頃にはそうするつもりなんだろう」女は呆れるどころか、真剣な口調で言った。
これについてゲルダは考えないでいたが、何も答えられないでいるのが実に腹立たしかった。がむしゃらに頭の中を探ったが、自分を納得させる条件が一つも立ちのぼってこない。そもそも、ゲルダは食わずにいると死ぬ以外に到達の術を知らなかったのである。残念ながらこれが唯一の幸いだった。死に方はどれも他人の実践により学ぶものであったから。くわえて、彼女は本当に、何も知らなかった。
「どんな死に方があるんだ」とゲルダはか細い声で言うのだった。
「あんたよりは詳しい自信がある。どんな死に方にも体力が必要だ。とりあえず、中で飯を食って、今より元気になったらお好みの場所で、お好みの死に方をするといい」
釈然としなかったがゲルダにはこの女がどうやら地主一家とは違う人間であるような気が早々にしていた。何を思ったか彼女は女を睨めつける。だが、威勢のよさを気に入られるだけだった。
「あんた。名前はあるのかい?」
「呼ばれるのが嫌な名前ならある」
「そうか。ならきっとハリエットだね。あたしはこの名前がずっと嫌いだったんだ」
「勝手に決めるな」
「それじゃあどうしようもないね」
「おばさんはなんて言うのさ」ゲルダの声音は聞こえるか聞こえないくらいだった。
「そんなの興味ないだろう?」と女は考え込んで付言した。「でも、おばさんは嫌だね。メアリー・デシャネルって名前だよ」




