第四十話《Because of you》リライナ編Ⅳ
師匠を抜きにしてわたしたちは夕食を終えた。師匠は「ぼくは後で食べるから」と言ってキャンバスの前から動こうともしなかった。お節介とは思いながらも、食事を持っていき、恐る恐る壁から様子を伺う。まだ師匠はキャンバスの前に座ったまま。手にはパレットも筆もない。それからふいと、なにかこの場面が師匠とわたしの出会いと、状況がまるで違うけれど、なぜだか似ているような気がして、あの時になかった遠慮を今の自分に見いだした。
「あの、師匠」とわたしは怯えるように言って気まずそうに唇を噛んだが、魚の味が残っていて美味しかった。
「……もらおうか」と師匠は静かにこちらを見ながら言うのだった。
彼はまだ思惟から抜け出せないらしく、表情は硬く、まつ毛には憂いがあった。でも、すぐにそんな自分の顔に気づいたのか、師匠は少し俯き息を吐く。顔を上げると、見慣れた微笑みが作られていた。
皿とスプーンを渡して、わたしはキャンバスを見る。すぐに、師匠が筆を持っていなかった理由が分かった。加えて、この絵をわたしは知っているとも思った。
「君の故郷で描いたものだ」
「はい。わたしが師匠と出会った時の……」
自分の絵を描いていいと言われた日に、これを描きたいと心から思いながらも、結局書かずにしまった景色が、そのキャンバスに描かれている。ひどく懐かしいように思われ、また突然、絵にとどまらず記憶さえも懐かしみたいという欲の湧いたわたしは、同意を求めるように、目で師匠に語りかけた。師匠がまばたきを二回したのを理由に、わたしはそばにあった椅子を引き寄せて座った。
「なんだかすごく昔のことみたいです。まだ一年しか、経っていないのに……」
「僕は昨日のことのように覚えているよ。あまりに純粋な目をしていた。初めて夢を見たようにまっすぐで、怯えてもいた。メリルも同じような目をしていたが、それ以上だ。……いや、純粋さに度合いは必要ないか。種類の違いだ」師匠は食事に手をつけず、目を天井に向けてからわたしに向けたりと、忙しくしている。「後進を育てようという気はさらさらなかった。しかし……メリルをひょんなことから弟子として迎えると、妙な感覚になった。なぜといって、彼女はぼくと出会う前から、それなりに絵の心得があったみたいで、そばにいるあいだは挫折する様子もなかった。それですぐにアトリエを持たせたわけだが、その頃には、もっと人に教えてみたくなっていた」
言い終えると、師匠はどこか恥ずかしそうに目を伏せて、思い出したように食事を口にした。師匠がそうやって自分自身の話をすることは一度もなかったことだったから、わたしは静かに驚いて、また静かに、興奮した。
「弟子を取ろうと思わなかった理由って、あるんですか?」わたしは平静を装い言ったけれど、声には震えがあり、師匠が二の句を継ぐのが待ち遠しかった。
だが師匠はしばらく黙って食事をしだしたので、わたしはお預けを命じられでもしたように不安になった。沈黙が続き、さっきまでの声がもう耳にすら残っていないように思うと落ち着かず、靴を脱いでみたり、また履いてからその側面をこすり合わせたりしてみる。
「正直、考えたこともなかった」やがて師匠は言った。皿は空になっている。「だから別に、育てるのを毛嫌いしていたわけじゃないんだよ。考えなかった。それだけのことなんだ。メリルを弟子にした時、ほんの少しそういう観念が芽生えて、彼女がかなり手のかからない弟子だったものだから、満たされなかった。……だからなにか、特別に嬉しいものが、君を弟子にした時にはあった。変な話だが、君が画家として一作目を描くときに、描けと言ったのはぼくなのに、実は描かないでほしいとも思っていた。もし一枚目を描いたら、もうぼくが教えることは、なにもなくなるような気がしたんだ。カエ・サンクから帰った時、君の絵を見たくはなかった。だが見なければいけなかった。それからじっと見入った。心地よかったし、またひどく落ち込んだ。……リライナと出会った時――」わたしは相槌も打たず、押し黙って、真剣に師匠が口にする言葉にいちいち耳を澄ませている。「目を開けて夢を見る方が、目を閉じてそうするよりも、美しいように思えた」
言葉の終わりに師匠はまっすぐわたしを見ていた。
「君には、まだ隠していることがあるんだ」と師匠は言いながら空いた皿を差し出した。
「師匠?」皿を受け取り、立ち上がった師匠を見上げながらわたしはまた不安になった。
「またぼくが言いたくなったら君に教えよう。とりあえず、メアリーの所へ行ってさぞかし疲れたろう? もう休んだ方がいい。それと――」師匠は去り際、わたしの肩に手を置いた。「君が君なりに悩んでいるのは、見ていれば分かる。だが、もう向き合い方は教えたはずだね? 君にはもう、自分の目がある」
それだけ言うと、師匠はアトリエを出ていった。わたしはなんとはなしに物悲しいような気持ちになって皿を片付けに台所へ行った。
わたしはもうこれから寝るだけとベッドに身を横たえてようやく、師匠の台詞の意味を考える気になった。師匠の助言はいつも抽象的にとどまり、具体的な打開策なるものを提示するのは、絵の技法以外にあまりしないことだった。それだからしばしばわたしは考えなければならなかった。そうして台詞に終わらず師匠の表情まで思い出そうと努めだして、あの涼しげな訳知り顔が、わたしの裏まで知っているのだと思われるような微笑みがよみがえって、妙に安心して、小さく高揚した。なぜといって、あの顔を見ると、自分が持っているものの価値を、今は見出せる力がないためにこうして悩んでいるのだと思える。どんなにわたしが師匠を尊敬し、信頼を寄せてきたか。今までそれにあまり応えることのなかった師匠はついに、それほど大きなことでなかったにしても、ようやくわたしに言って聞かせる気になったのだ。ちょっとだけ腹を割って、師匠自身の胸のうちを語ったのだと感じられる言葉が、わたしを認めてくれているのだという漠然とした意識を高め、さらにはそれが、ようやく少しの信用を勝ち得たのだと誇らしく思える……わたしは一度か二度かぶりを振って、思考を本筋に戻した。だがあまり悩まずに済んでしまった。
わたしは師匠の目を借りて景色を見ようと努めてきたのだったし、それゆえに初めて書こうと決めたイスール・ベルの景色でさえ、気づいたのは自分の絵を描いていいと言われてから気づいた。それまでは単に、師匠の目に映り、師匠のキャンバスに切り取られた景色以上のものではなかった。それをわたしはついに描かなかったのだ。そうして本当に描こうとしたもの。あれを師匠の言う『自分の目』なる考え方とするなら、これ以上に清々しいものはないように思える。
わたしはもう、師匠の目を介さずにある程度まで世界を――いや、それよりももっと、自分の心情で景色を塗ったりできるに違いない。
そのあとになって、わたしはどれだけ素晴らしいものを、ここまで最初に書き終えたことに後悔の念を禁じえない絵を描いたものだろう、と思った。




