第四話《風と海の間》
わたしが勇み足で階段を下りていると、これまでずっとそばにありながら一度も図々しく主張することのなかった朝食の匂いが、やっとのことでわたしの鼻に届いた。が、それさえもわたしの幸福の箱に蓄えられた想念を微塵も揺るがすことは出来なかった。こんな思いを、わたしはこれまでに感じたことがない――これから風に挨拶をする、その行為が、今のわたしをどれだけ歓喜させていたことだろう!
台所に立つお父さんの姿を見つける。横合いから見るその姿に、いつもならあのフライパンの下で光っている火の青や赤で出来たスパンコールに対して、およそわたしでも数えきれない多種多様な嫉妬という観念を感じるのだけれど、このときばかりはちっとも羨ましくなかった。
「おはよう、お父さん」とわたしはいかにも機嫌よさそうな声音で言った――でもお父さんはわたしの方を振り向かなかった。わたしは少しだけ不審に思った。沈黙の中で跳ねている油の音だけがあからさまに大きく響きだして、それからそういう沈黙のうちになんということもない寂しい雰囲気を見出した。
「お父さん……?」
傍に歩みよりながら、わたしは急に怖くなりだして、お父さんの額から絶え間なく流れている汗がまつ毛の辺りでとどまって、やりきれない想念のようなものが火に照らされてときおりキラキラと不思議な輝きをしだしているのを、心配という意識を自分の意識のしきみへ上らせながら、ただ静かに見入っていた。
間近で見るお父さんの顔にわたしが感じられることはなにもかもが不確かなようで、それらはすべて、わたしのうちに不安や焦りのような感覚を残していった。その不確かな、曖昧な、悲しみに似た焦燥が急にわたしの肌に触れるものだから、わたしはほとんど無意識的に、押し黙って、お父さんの服を掴んだ。
「……? ああ……リライナか。どうした?」お父さんはいくらか上ずったような中音で言った。ようやく向けられたお父さんの目はわずかに温かな様子だったけれど、それがそうして、子供へ向けるに相応しい色に変わる刹那、今にも泣きだしそうな色をしていたのを、わたしは見逃さなかった――しかしわたしは、意識的になのか、本能的になのかは分からないけれど、訊いたら駄目だと思った。そうしたらなにか、大事なものを損なってしまうとさえ感じられた。……だから、わたしはどうにか次にお父さんがもう一度その優しい口調でわたしを呼ぶときは、どうか、どうかこの素晴らしい服に気づいて欲しいと、切に願った。……
――これが、この服こそが、幸福の在処だった。
うつむいて、視線をそれはもうせわしなく床の隅々に走らせた。
そうして床の上に焦げ茶色のシミばかりを見出しながら、もしお父さんが服に気づいてくれなくて、わたしの顔を、仮面のような優しさを張り付けた顔で覗き込んできたのなら、わたしはどうすればいいのだろうと、考え出していた。
無意識にスカートを掴んでいた。そこにはすでに数本の不細工な筋が出来ている。でもわたしがスカートから手を離そうとしかけると、これまで押さえつけられていたらしい、不安や無力を題名にして綴られた醜い想念が、ゆっくりとわたしを蝕むのが分かった。
板挟みになってもどかしく、とうとう下唇まで噛みしめながら、ただただ逃げずに待っていた。
お父さんがわたしの肩へ手を置いたのは、それからまもなくのことだった。
「リライナ」
どこかしゃがれた声の中、かすかに波打っていたのは真心のような温かい情であった。
わたしはなおも黙ったまま、わたしをふいに抱きしめるお父さんのしたいようにさせていた。
「おまえは風に育てられた。父さんは漁師の息子だから、さしずめ海といったところだろう。その間に生まれたリライナは、潮風に育てられたんだ」
「うん……うん……」
「だからなにがあっても、立ち止まっちゃいけないよ。船が前に進まなくなる。家に帰れなくなってしまう」
わたしはずっと、耳を澄ましながら詩でも聴かされているような心持になっていた。そうしてだんだんと、自分の浅はかな思春という過程の中であの床のシミと同じように汚くこびりついた想念の数々がいともたやすく落ちていくような、清々しいイマージュを自分のうちにまざまざと感じだした。
「この服は母さんが作ったんだろ? あんまり上手に言えないが、潮風に似合う服だ」
なにかを言いだそうとして、また口を噤んだ。それきりもう、なにを言おうとしたのか思い出せない。
「ここに風はいない。はやく友達になってきなさい」
そういうお父さんの顔は、やはり寂しそうだった。