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第三十九話《Because of you》リライナ編Ⅲ



 メアリーさんの工房から帰ろうとするころにはもう夜になっていて、あたりは薄暗かった。ふいとちょっと町の中を歩いてみようと思い立って、それからしばらく、ふらふらと歩きまわった。サンルズはどうやら円形に近い町であるらしく、水路やわたしの歩いている石の道でさえも、まっすぐなものは町の中心にある塔の他に、何もなかった。


 流れに沿って歩いていると、渡船場までやってきた。そこで、少し渡船場の隅に腰でも下ろそうと思い座ってみるのだったが、景色を見る気にはなれず、自然と自分の足に目がいった。無意味に足を振りながら、そのわずか下にある湖の水面の中の闇が妙に濃いのを認めたので、わたしは靴を落としてしまわないかと不安になり、そうして不安になったのに、靴を脱ごうとはしないままでいる。はじめのうちこの保留は心地よかったけれど、すぐに退屈の念が現れる。


 人間が荷物に感情を乗せて旅をするキャラバンのようなものであるならば、ちょうどいま退屈の一人芝居が始まったに違いない。大きな声でわたしを驚かせたかと思うと、次の瞬間、聞き取れない声をなにやら感情豊かな表情で発し始める。その聞き取れない声がそうであればあるほど、なにか大切なことを訴えているのだと錯覚して、わたしは耳を澄ませて息を潜ませる。この退屈はなにを言っているだろう? 世界の真理? 恵まれない構想? いや、もっと単純に、喋り疲れたと言ったかもしれない。


「お腹すいたの? ヴラジーミル? どうかしたの? ヴラジーミル……」


 彼が私の肩へ躍り出てきたので、いつものように話しかけながら指でつついたりした。そうして彼の名前を呼ぶのが少し楽しくなって、茶化すように、怒るように、煩わしそうに、つまらなそうに、気づかわしそうに、呼んだりした。


「ヴラジーミル、ヴラジーミル。ヴラジーミル……ヴラジーミル……ああ」


 体をつついてみたが、彼はいくら体制を崩されようともまた二本足で立ち上がり、それに我慢が出来なくなれば、わたしの顔に張り付くのだった。


「わかった。そろそろ帰ろうね」言いながらわたしは立ちあがって、ふいと後になってこの時を思い出すなら、きっとこうしなかったのを悔やみそうな気を起こしてしゃがみ込む。ヴラジーミルは帽子の上に身を移したので、わたしは少しの猶予を彼が与えてくれたのだと思いながら、そっと、湖に指先を浸す。そうして想像よりもその水の感触のあまりに硬いのが鬱陶しくなって、手を引き上げ、それから拭こうともせず、指先から粘り気のある水が滴るのに任せている。銀光をいただいた指は鈍く輝いている。においを嗅いでみたが、水のにおいではなく、鼻をついたのは絵の具のにおいだった。この指などに残っているのが、赤や緑のにおいで、茶色や藍青色などでなければ満足しただろう。でもしばらく考えていると、想像の色は果てしなく、意図せずに郷愁に近づき、けばけばしい、色だけ派手なものになっていく。ただ爽やかであれば、わたしは満足だったのに……


 悔しそうにしながらわたしは指を唇に持っていき、人差し指の付け根に噛みついた。最初は噛んでいる歯が痛みだしたように感じて、しだいに指が痛みはじめる。少し舐めてみると、わずかに酸っぱかった。噛むのをやめて指を見ると、付け根は赤くなっていた。これをなぜだか心地よく思ったわたしは、もっと噛み応えがあって、非力な部分を噛んでみようと思い立ち、面白がって手首を食む。やはり酸っぱかった。想像は正しく、わたしの手首は歯に対して抵抗することはなかった……代わりに、味がやってきた。そこでわたしは、あの酸っぱい、これまで水の味だと思い込んでいた味は、どうやら汗であるらしいと認めたのである。それから手首を自由にしてやると、去り際に筋の感触……あとにはうっすら、歯型が残っている。


 我にかえって手首を痛めでもしたようにもう一方の手でそんな手首を掴んでみると、自然に掴まれた手の指がひらいた。すると、ついぞ認めたことのない手相らしき短い線が何本も手のひらに見える。どんなものかと改めてじっくり手のひらを見てみると、指先に向けて鋭い部分を尖らせている三日月のような線が四本あるのを認める。ひょっとして……そう思いながら、わたしは反対の手も確かめてみる。やはり同じような線が入っている。それは爪跡だった。それを認めると、メアリーさんの工房を出たときから、もしくはそれよりも前から、ずっと自分が拳を無意識に作っていたらしいと分かる。


 途端にわたしは、今こうして渡船場にいる自分のまわりに首を巡らした。物音ひとつない、影のない町、非力な自分の姿。


 駆け出さずにいなかった。無我夢中に走って、おぞましい手か手のない腕のようなものが、自分の後ろに迫っていて、もうじき肩に手をかけるに違いないと錯覚しながら、なおも激しく走った。わたしは走った。わたしは走った。わたしは走った。ただ、一人がとても怖かった。


 もうすぐ道の先にアトリエが見えるところまで来て、わたしは走るのをやめて、あたかもちょっと散歩をして帰ってきたのだといったふうを装い、またそう自分に言い聞かせた。大きく息を吸い、スカートの裾を引っ張る。


「リライナさーん!」


 セイディの声がした。その声はひどく反響して、後ろから聞こえた気もすれば、すぐ横で聞こえたような気もされた。


「リライナさーん! ここです! アトリエの屋根です!」


 二三遍辺りを見回してから言われた場所を見ると、セイディがたしかに屋根に立っていて、手を大きく振っているのが見えた。それからわたしはなんともぎこちなさそうに小さく手を振りアトリエの中に入った。


 師匠が椅子に座りキャンバスに向き合っている。邪魔をしないように、わたしは声もかけずに階段を上がる。二階にはメリルがいて、カウチに寝転がって本を読んでいた。


「もう! ようやく帰ってきたのね。今日の炊事当番はあなただってこと忘れた?」メリルは本を閉じて立ち上がりわたしに詰め寄った。


「あ――」


「あ? まったくもう。いいわ、夕飯はあたしがやる。あなたがいつもみたいにへらへらして帰ってきていたら、そのままやらせるんだけどね」とメリルはきっぱり言った。


「ごめんなさい……でも、ちょっとは元気になったよ」


「あら。落ち込んでる自覚あったのね。今のうちにもっと元気になっていてくれたら、あたしがお祝いにとびきり辛いもの作ってあげる」


「ん……辛いの苦手って知ってるくせに!」とわたしは不服そうに言いながら、呆れた顔をするメリルを見ていると、徐々に相好を崩していくのが分かった。


「からかったのよ。本を読み終わるとそんな気分になる。でも本当に、当番はあたしがやる。あなたは鳥を捕まえてきて」


「鳥?」


「セイディよ。今のは、それっぽいことが言いたかっただけ。機嫌がいいの」メリルはそのまま階段を降りようとしたので、わたしは呼び止めて、振り返るのを待った。


「どうかした?」メリルは手すりに手をかけたまま、半身をこちらに向ける。


「ううん。ちょっとだけ、名前を呼んでほしいなって、思って」


 言いながら、想像の絵の具が灰色を塗りたくるのを感じた。あの希望に満ちる前の、朝焼けを塗るなら、わたしが選びそうな、なんとも言えず優しい、そんな色である。


「リ――ラ――イ――ナ」


「うん。ありがとう」


「まったく、たまに強引になるのね」


 彼女はなおも微笑みを絶やさずに、それから階段を下りて行った。


 階下に彼女の姿が消えてから、わたしはその場に立ったまま、自分の名前を彼女の口調を借りてしばらく反芻させる。口を綴りに合わせて動かしてみると、言葉には肉がつき、たくましく、濃淡もくっきりとしてきた。それからわたしはもっともっとと思いながらこれを繰り返しては、その度毎に、まるで自分が人類で初めて名前を呼ばれた人間であるかのように舞い上がった。


「セイディ! そろそろ中に入ってきて!」梯子を上ってひらいたままの木戸の隙間からそう呼びかける。意味もなく大声が出したかった。


「リライナさんもこっちに来てみてください! それはもう荘厳なのです!」彼女も彼女でちょっと浮かれているらしかった。


 躊躇もなく屋根に飛びだして、ときおり足元を見ているうちに、それまでの高揚は少しずつ静まった。月と塔の上にある篝火の光だけでは、足元は暗く、それどころか目の当たりに見えるものはどれも夜の砂を被りでもしたように、ざらざらして見えた。屋根の上を、それはもうもったいぶって、歩きにくそうに歩く。


「こちらへどうぞ。まさに特等席なのです」とセイディは手を伸ばしながら言った。


「どう見えるの?」わたしは彼女の手を掴んで、隣に腰をおろした。


「役者のいない舞台か、眠りたくない町といったところでしょうか」彼女は口ごもるように言った。頬が膨らみ、なにか食べているらしかったのでじっと見ていると、片手にキュウリを持っているのが分かった。


「一本どうです?」


 セイディはまるまる一本のキュウリを取りだしたので、わたしは受け取り一口かじった。ヘタを吐き出すのを忘れて、あまりに苦かったから大げさに飲み込む。


 しばらく無言のまま、サンルズを眺める。彼女の言う通り、まさしく特等席であるらしかった。そこからは町全体とはいかないまでも、十分に町が見えた。湿っぽい山の土のにおいも、水のにおいも……わたしは服が汗臭いのをようやく思い出した。


「ちょっと臭う?」


「生活感があります」とセイディは小刻みに頷いた。


 それから彼女は何事もなかったように、もしゃもしゃとキュウリを食べ、少しのあいだ、頬を膨らませている。


「胸が躍って、足が軽くて、目の裏が熱い時、どれから対処すればいいでしょう?」やがて大きく喉を鳴らしてセイディは言いだした。わたしはキュウリを二口そそくさと齧った後に、味を噛みしめているような格好で顔を上げながら、悩ましそうに唸ってみる。


「どれでもありません。これはまさしく感動です!」


 立ち上がり天高く拳を突き上げたかと思えば、彼女はそれを大きくぐるぐるとがむしゃらに振り始める。わたしははじめのうち、気づかわしげに彼女を見ていた。でもそうしていると、彼女がよくしているようなあの大人びた憂いのある笑みではなくて、無邪気な笑みを浮かべているのが分かった。感極まるとセイディは目を瞑る癖があるらしく、この時もそうで、わたしはそれを見上げながら、彼女もこんな顔をするのだと思った。


 声は反響を止め、ときおり涼やかな風が山から町の中心に下りてきて、背中の熱がいよいよ力を強める。妙なことに、それはどんな風にあてられようとも弱まらず、さらにくっきりと感じられるものになっていった。この感触のせいであるのかは定かでないにしても、なぜだかわたしは機嫌がよくなったし、以前よりもっと、彼女と自分のあいだには不思議な、おかしな結びつきがあるのだという感覚を、はっきりと認めるようになった。


 わたしは彼女がまた落ち着きを取り戻して座るのを待って、そうして彼女が腰をおろすと、ふいと思いついて、これには見た目よりも深い意味があると伝えたげな慎重な手つきでセイディの肩に手を回した。そういうわたしに何も言わないままで、彼女もわたしの肩に手をかけ、そしてメリルが梯子を登ってくるまで、したいようにしあっていた。


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