第三十八話《Because of you》リライナ編Ⅱ
メアリー・デシャネルは彫刻家の名だ。彼女の師匠、先代のメアリー・デシャネルの死後、その信念と共に受け継いだ名前である。しかし先代からそうであったように、二代目のメアリー・デシャネルとして工房を構えてはいたけれど、当時からサンルズにこの名前が広まっていたかと言えば、そうではなかった。
彼女の名がサンルズの人々に覚えられ、それと同時に信用を勝ち得た事件があった。
ある夏の日にサンルズを嵐が襲った。これはあまりに珍しいことだった。多くの小舟は転覆や損壊をして、五十あるうちの五隻のみが残った。少しは頑丈な造りをしている貨物船は無事だったが、小舟を失った商人は、恨めしそうな顔をして水路の底にうっすらと見える裏返った船底を眺めるなどするしかなかった。なぜなら、サンルズでは酒場や宿屋以外の商売は小舟の上でと定められていたから。
次に彼ら商人の目に映ったものは、無事に嵐をやり過ごした商人の小舟である。残された五隻には形に些細な違いこそあったものの、どれも船首に女神のような像が彫られていた。
「それはだれが彫ったものか!」そうある商人が言いだした。
「メアリー・デシャネルの傑作さ!」と、ある商人が答えた。
この一件以来、メアリー・デシャネルの名と共に彼女の作品は評価されるようになり、サンルズで商売をするならまずはメアリーの工房を訪ねなければならないといった儀式めいた意識が、商人に根付いた。サンルズの風物詩として商人の小舟を挙げるのであれば、必ず『メアリーの小舟』と称される。しかし、彼女のあこがれにとってこの大いなる誤解は錨をつけられるほどに煩わしかったのである。わけて彼女を『船大工』かそうでなくとも『船大工の端くれ』と呼ぶ商人や住人が現れだした昨今において、甚だしく不愉快だった。
だが彼女は、そう呼ばれるたびに苛立ちもしたのに甘んじて受け入れ、持ち前の奔放な振る舞いで包み隠すことにも順応した。
これに加えて彼女の性質と共に憤慨を弱めたものがある。それは彼女が先代のメアリー・デシャネルから、名前と共に受け継いだ夢である。
「ハーケンの弟子か。名前なんだっけ?」メアリーは煙草を吹かしながら言った。
「リライナです」とリライナは言いながら、サンルズの中心に聳える尖塔をもっとよく眺めようと柵から身を乗り出すのだったが、すぐ下を通っている水路での売買があまりに活気に満ちているために、なにか叱られでもしたように慌てて姿勢を正した。
「珍しい? 町じゅうが市場みたいでしょ」
リライナはメアリーの工房の二階のベランダで、いつの間にか始まったメアリーの昔語りを真面目に聞いていた。というのも、彼女が先日投げかけた言葉の続きがいつ始まるのやらと期待していたのである。
自然はあまりに夏らしい仕草をしていた。それが夏らしくあれば夏らしくあるほどに、水路での商売は荒々しくなって、遠くでは建物の屋根や小路に陽炎が認められる。ときおり吹く風の揺らぎは弱々しく、ちょうど気だるい息を吐きかけられたに違いないと思えるほどに衰弱を見せている。
「あの、メアリーさん」リライナは物憂げな視線を向けたが、彼女の横から日がのぞいていて、あまりの眩しさに目を細める。思いついた言葉は溶けて、水路の活気と陰鬱な木の香りのあいだへ消える。
「焦らない焦らない。歴史の授業はこれで終わりにするからさ」
メアリーのなんでも早口に言ってしまう性質……これにリライナは呼吸を乱され、彼女の奇抜な前髪であったり、大きい手であったり、大きな切り傷のように細められた目であったりに、怯えたりした。だがこの要素もまた、なにかハーケンと同じような雰囲気としてリライナのうちに上ってきた。だからこそリライナは、いつもハーケンにしている教えを請いでもするような従順な目で、彼女を見るのだったが。
彼女も師匠と同じになにか知っているに違いない。わたしが気配しか感じられないこの世の理だと言っても大仰が過ぎないものを……リライナはこのように思いながら、またそう信じ切って、不躾にならぬようつとめておとなしくしていた。これよりも先に物陰に隠れていた彼女の言葉は減りに減って、曲がり角に座り込んでいる猫ほどの気配もなくなった。
メアリーはリライナが徐々に無口になりだしたのを気に入った。というのも、サンルズには彼女との会話に商売を持ち込まない人はなく、真剣な言葉を注文以外に使うことを知る者は一人もなかったから。それゆえに彼女は、この小さく青い画家の少女が自分の彫刻よりも、なにか精神的な対話を求めているらしい振る舞いに興奮さえ見出したのである。
「夢とかある? いや、まあ、あるよね。じゃあさ、どうして画家になろうと思ったの?」と彼女は面白がるような口調で言いながら煙草を灰皿に押しつけた。
「故郷で師匠と出会いました。師匠はちょうど絵を描いていて、わたしはそれを見て、わたしにも出来ますかって言ったんです」
「冷たくされなかった?」
「ちっとも! その気があるなら、その一言でした」
「それで弟子に? あいつにしてはずいぶん流れが速い」メアリーは柵に寄りかかった。「サンルズにいた時のハーケンって、弟子入りを何度か断っていたの。だから驚いた! リライナちゃんが弟子になった経緯に、あまりに障害がないんだもの!」
これまで以上に興味の湧いた彼女は腰をかがめてリライナの顔を覗き込んだ。そうして二人は、互いが互いに、目の色、頼りない青色と、自信さえ滲む高貴な灰色を認め合った。
「話は変わるけど、あなたの目は迷ってる。根を失った木みたいにゆらゆら揺れてもいる。どうしてだと思う?」彼女はさらに微笑みながら言った。
「それは……」
リライナはこの時が来るのを待ち構えていた。ずっと待ち構えていて、それに耐えうるだけの準備を済ませておいたのである。だが即席の壁は脆い。一日と期間をかけなかった壁が壊れるのは須臾ほどの時間で足りる。殊に精神の壁はだれでも通り抜けられる。なぜ鍵をかけ厳重にしてその中にリライナは閉じこもらなかったのか? それは、もう彼女が立ち上がった後だったからである。もう、何も出来ない無能の冠をいただき玉座に居座るのに倦んだ後で、だれがまた座りたがるだろう?
リライナは、彼女が、そうでなくともじきにハーケンが自分を叱るはずと信じていた。夢を追いながら――目を離してはいけないと知りながら、ふいと目を離してしまって、それでいざ筆を持つと震え上がる自分自身の不誠実さを、だれかが叱るはずである……いや、彼女はそれほど、救いようのないほど不誠実ではなかった。むしろ、あまりに繊細で、あまりに純粋が過ぎた。彼女はなにより自分自身にそうして腹を立てていた。
「旅に出てから、わたしは……一度も絵を描こうとしませんでした。なんだか、自分の甘えた姿勢が垣間見えたんです。それで、描かなきゃあって、思って。筆を取っても、全然ダメで。だらしなくしてたからだあって、思って……」
荒々しい呼吸の合間を縫い、かろうじて漏れた言葉の如きか細い音は、幼い間延びした調子になって、もはや終わりは、そばにいたメアリーでさえ聞き取れなかった。
メアリーは目の前で今にも米粒ほどの涙でも流しそうになっているこの画家をゆっくりと抱き寄せながら、彼女の顔を自分の胸へと押し当てた。
「リライナちゃん? 夢はあなたから遠ざかったりしないって。もし夢に少しくらいの感情があって、遠くまでよく見える目があるなら、きっとあなたを気に入るはずだもの」と彼女はリライナの頭を抑えながら、「あなたは、夢を描く。夢に無能な自分を描かれてどうするのさ」
耳に聞こえる言葉に、リライナはどれほどのぬくもりを感じたことだろう。ちょうど日の持っている本来の光、あの白光に感じる普遍的な、それゆえについ忘れがちな熱……いよいよ夏の盛りの今になって、人々がそれに敬虔な態度を示すのと同じような感覚で、彼女は自分の画家という夢に対する情熱を今一度、慎み深く受け入れ、また相応の静かな心で歓喜する。閉じたまぶたの裏に、ゆっくり、想像の絵の具がよみがえる。
だがそれだけで、絵の構想や天からの閃きが彼女に下りてきたのではなかった。意気揚々と、最初の絵を描いた時に持っていた力を今こそ取り戻したのだとキャンバスに臨めば、自分はまた、ただ重い感触の拭えない頭に悩まされるに違いない。あの重量が自分の頭の空虚な様を、その意識を育み、折るに至らずともたちまち筆を下ろすことになると予感した。わけて彼女を悩ませたのは、必然の衣装で着飾って舞台に躍り出るほどの情景が自らの、深い深い場所に、見いだせないことだった。
彼女は美しいものを描きたかった。それは甘い喩えで吟遊詩人が意図せずに触れる人間の、個人の精華に、必ず届くはずである。彼女はそういう、個人がいたって個人らしい空間を作り出し、追想の影に弄ばれながら、嫌にならず、自分が何者であるか信心深く思い出せるような絵を描きたかった。しかしこの感覚は口にのぼってこない。彼女が一瞬時自身の夢の真髄やいかにと燎原の火をかざそうものなら瞬く間に溶けるほど、まだ軟弱な感覚であったから。




