第三話《気づけないわたし》
幼いころのわたしは、いわゆる「ただの少女」だった。魔法が使えなければ、学問にもさして興味がなくて、出来ることと言えば家の手伝いをするくらいで、その唯一の事柄でさえ、ひどく単調なものだった。お客さんの注文を受け、お父さんが作る料理を運び、皿を片付けてお会計を済ませて、深々と礼をする。その礼の最中、だれもわたしの顔を見る者のないことに気を緩め、一瞬だけ不服そうに顔を歪めるのだけれど、お母さんにはすぐに見破られた。
「そんな顔しないの。いい?」
厳しくも柔らかく、しかもわたしが、なにゆえそんな風に顔を歪めたのか分かりきっているとでも云った様子で微笑むのだから、わたしは不服を押し込めて、投げ出さないと決めることができた。
当時のわたしは、魔法が使えないから、やりたいことができないのだと信じて疑わなかったし、もしわたしに魔法が使えたのなら、こういう家の手伝いなどの、狭くて堅苦しい、そのうえいちいち臨機応変な行動を求められる環境に、身をおかなくても良かったのではないかと、いささか早い思春期で味付けされた感情を湛えていたりした。
いつかそんな思いを、お母さんに打ち明けたことがある。
ある夏の日の夕暮れ、濃密な海の香りに彩られた浜辺でのことだった。食堂の仕事が始まる前に、お母さんが浜辺を歩こうと言い出したのである。
わたしはお母さんより少し前を歩きながら、恥ずかしげもなく言ってはみたけれど、静けさが積み重なるたびに、どうしても恥ずかしくなりだして、そうしてだんだん怖くなって、お母さんの方を振り返れずにいた。
「リライナ」と呼ばれて、わたしが振りかえると、お母さんは、今まさに地平線の向こうに帰っていく陽のように温かな目でわたしを見ていた。わたしは、これほど落ち着いて、意地のいい、朗らかな、そのくせわずかに子供らしくも見える微笑みなど、ついぞ見たことがなかった。
「お父さんのことだけどね、あの人、昔から料理人になりたかったわけじゃないのよ。大陸を旅するのが夢だったの。いろんな空がみたいって言っていたわ。……でもね――」
恋をしたの。そうお母さんはささやき、その場に立ち止まって、今しがた山から下りてきた風につられたとでも云った風に、青が消えてやや藍色になりかかっている空と、陽に寄り添う大赦色の空が溶けあった、遥かかなたの空を眺めだした。
わたしもお母さんに倣ってそちらを眺めはじめたけれど、わたしには、ただただそれが暮れているようにしか感じられなかった。
「それから、どうなったの?」
「与えられたものを受け入れて、夢を諦めて、そうして私と一緒になって、リライナが生まれたの」
お母さんはわたしの肩に手をおきながら、もたれかかるというよりは、わたしを支えるようにしながら、詩を歌うように、優しく、わたしの耳朶に触れる。
「リライナ? 自分を呪わないで。あなたは魔法に縛られないのだから、あなたのやりたいことができるのよ」
わたしはなにか言おうと口を開いたけれど、なにも言うことはできなかった。無性に信じてみたくなったのだと思う。もしもそうなら、いいなぁって、――でも、そうはいかないのだということをわたしは、わずかではあるが知っていた。同時にそんな知識が、わたしに現実を見つめさせようとするものだから、わたしは急に喪失感よりくる恐怖に襲われて、救いを求めでもするように、まさしく今の一瞬にほんのかすかに感じてしまった希望に満ちた雰囲気を逃がしたくないとでも云った風に、お母さんに抱きついたりした。
「きっと見つかるわ。リライナは良い子だもの。……だから、ね?」
また風が吹いた。強く荒々しい中で、わたしはお母さんの胸に顔をうずめながら耳をすましていた。
「――を――――で」
ふいに耳をかすめていったお母さんの言葉は、まるで世界そのものの声であるかのように感じられたのに、わたしがはっとしてお母さんの顔を覗き込むころには、およそわたしが想像もできないほど遠くに行ってしまったらしかった。
それからお母さんは、また子守歌でも聴かせるような調子で呟いた。
「そばにいるわ。ずっとね」
あくる日の朝。わたしが目覚めて部屋を出てみると、お母さんが立っていた。
「もうリライナったら、相変わらずひどいのね」
わたしを自室に連れ込んで、わたしの寝ぐせのついた髪をくしで梳きながら、お母さんは鼻歌を交えたけれど、なにがなんだかさっぱりで、朝に特有のあのまぶたが引かれあうような感覚の中、わたしは幸福の虜になっていた。
「お母さんね。風とお友達なのよ」
うっとりとした調子で、爽やかな熱のこもった声が聞こえる。わたしは絵本の読み聞かせをされているみたいに、好奇心から相槌を打ちながら、先を促した。
「だからリライナも、今日からお友達になるの。わかった?」
「うん。わかった」
どこかうわの空でのように返事をするわたしは、なにか特別なことを言われたわけじゃあないと、このときは思っていた。
お母さんは魔法が使える。風をよみ、風の声を聴く。その程度のもので、資源節約という大陸の大義とは縁のないものだった。だからお母さんは、縫製士なる仕事――政府の許可がいらない仕事――をしているのだけれど、これもまた、風がそうしろと言ったらしい。
「さあ、髪はもういいわね。それにしても綺麗な髪だわ。だれに似たのかしら?」
わざとらしくお母さんが笑う。わたしはお母さんの方へ向き直って、これでもかというくらい笑顔になってやった。
「お母さん!」
「よろしい。じゃあ、可愛いリライナに、なにかあげないとね」
わたしにというよりは、自分に言い聞かせるように呟いて、お母さんはクローゼットの方へ歩を進める。その背中を見つめるわたしは、なにが出てくるのか期待することはなく、また、その傍に歩み寄ろうともしなかった。わたしはその場に突っ立ったままで、不信感を抱いていたのである。お母さんが優しいのはいつものことだけれど、今日は、――いいや、もっと前から、わたしを浜辺に連れ出したあのときから、お母さんの優しさは、あからさまにむき出しになっているように思える。
しばらく、わたしは胡乱な目つきでお母さんを見ていた。けれどどこにも、――潮風を塗ったような青い髪にも、しなやかな姿にも、その緩慢な仕草にも――疑いを向けるべき材料はなかった。
「じゃーん! 新しいお洋服よ」
そう言いながら、お母さんは青い服を取り出した。子供らしい素直な思いで、わたしはそれを風のようだと感じざるを得なかった。自然と口が開いて、感嘆のような、喜びのような感情がついと口に出た。
「わあ……綺麗……」
無意識に胸がたかなった。このときのわたしは、恋心がどういうものか知らなかったのだけれど、思い返してみると、これが、この服と出会ったときにわたしが拵えてしまった甘く鮮やかな感情が、恋というものなのだろう。心が躍り、体が勝手に動きだす。
「リライナの服よ。大事にしてね」
わたしはなんのためか、軽く飛び跳ねてみたり、くるくると回りだして、それでもおさまらない感情を宿しながら、その服を受け取った。
おもわず唾を飲み込んで、それから服を抱きしめて鼻で大きく息を吸い込んだ。わたしが息を吐くころには、お母さんがクローゼットから帽子を取り出していた。
「これもリライナのものよ。嬉しいでしょ?」
落ち着いた青い帽子がわたしの頭に乗せられる。幸福な雰囲気がわたしを包む。
「嬉しい! すごく!」
苦しいくらいになった鼓動。のぼせた感情。世界が輝きだしたように感じた。
ゆったりとした動きでわたしは服を着替えて、帽子を被るなり、また両手を広げてくるくるまわりだした。馴染む感触が、わたしに着られるのを待っていたと言わんばかりだった。
「良いじゃない! とても似合うわよ、リライナ」
わたしは照れくさそうに笑ってみせながら、指で頬を掻いてみたりした。
「さあ、風に挨拶していらっしゃい」
「うん! そうするね、お母さん」
わたしは駆け足でお母さんの部屋を飛び出して、気分はまだ落ち着こうとしていなかった。
だから、部屋を出るときにわずかに聞こえた、重苦しい咳に、気づかなかったのである。