第二十六話《悲しみは青いはずだった》後編
人間の事物に対する愛着や執着は、時として個人から人間性を取りはらうことがある。献身的、狂熱的な情熱は、人を盲目にしてしまう。だが、それによりコルネリアは自己を保つことが出来た。選んだのは停滞だった。後ろ歩きに未来に進むこと、思い出を忘れずにいたいだけの幼い心がする痛ましい行為である。しかし、これには代償が必要だった。彼女が差し出したものはパルクト語、単語や発音を次第に忘れていく代わりに、停滞、つまりは思い出の中に精神を置き去りにすることで、彼女はかろうじて生きることが出来た。なぜパルクト語を差し出したのか? それは両親との思い出がメヌエ語にしか見いだせないからである。
彼女はパルクト語を発しなくなった。ほとんどをメヌエ語で喋ったが、理解できる人はなく、町の同年代の子どもとも壁ができて、遊びに加わることは一度もなかった。だが彼女が怯むことはなく、むしろ他人の理解できない言語をしっかりと理解して口にするのが、また自分を、飢えに耐えられない体であるにしても、崇高な存在に高めると信じさえした。
子どもたちの多くは彼女に向き合おうともしなかったが、ドーア氏だけは違った。彼は、彼女の歳にしては不相応な冷静な態度に興味があり、養女として彼女を迎えた日から数か月、ずっと彼女を見てきた。そうしてある日、彼女が牧場の片隅で座り込んで、なにかそこにある牧草だの牛だの山だのの他に、そこにないはずの神秘的な事物を眺めているのではと思わせる表情をしていたので、核心に至ったような気分になった。そして、納屋の中で保管してあった絵画や彫刻に彼女を触れさせた。
彼の思った通り、コルネリアには芸術を理解する素養があった。コルネリアはそれら芸術の前で恍惚とした表情を見せたのである。ドーア氏にとって、これは喜ばしいことだった。なぜといって、彼女の寂しそうな顔や行為によって、というより、それに触れることで、だんだん彼はこの少女との向き合い方が分からなくなっていたのだったから。
結果として、芸術はドーア氏とコルネリアとのあいだにあった壁を一つだけ取りはらうにとどまって、それ以上の成果はなく、まだコルネリアは、彼を『町長さん』と呼ぶのだった。
そして納屋にある作品は、見慣れた景色のようになってしまった。
そんなある日に、ハーケン・ボルステインという画家が、ドーア氏の牧場で馬を預かってもらえないかと訪ねてきた。そこでドーア氏が彼に絵の依頼を申し出たのはまず当然のことである。だが、画家は絵の依頼を弟子に任せた。ドーア氏はそれでも構わなかった。ようは新しい絵、コルネリアに新鮮なものであれば、なんでもよかったのである。
何日もしないうちに弟子は依頼をこなした。そうして納品のために、弟子はドーア氏の家に訪れて絵を見せた。絵はドーア氏の満足のいくものであったが、それよりも彼は、コルネリアが絵よりも弟子の女の子を見つめているのを見いだし、なんとか二人を仲良くさせようと努め、「よかったら部屋を使ってくれないか」自ら申し出たのだった。
コルネリアには、ドーア氏が彼女に何を言っているのか理解できなかった。というのも、彼女はすっかりパルクト語の発音を忘れてしまっていた……いつもそばでパルクト語を聞いているはずなのに。
幼い体は二つの言語を住まわせるのにはあまりに狭かったし、メヌエ語に対する愛着よりか、あるいは以下の関心しかパルクト語になかった。
自己紹介をするときになって、コルネリアはようやく口を開くことが出来たが、かろうじて覚えていた「コルネリア」の発音はメヌエ語なまりで発せられた。もう、簡単な単語しか覚えていなかった。が、彼女はそれでも構わなかった。なぜなら、喜ばしいことで、他人との繋がりがなくなろうとも、両親との繋がりが言語によって今も生き生きとその印象を深めていくのであれば、これに代わる幸せなどあるはずもないと、漠然と信じてさえいたのだから。
「メリル・ヴォーティエよ」
だが、予想もしていなかったことがすでに起きていた。コルネリアは、異言語を喋る、自分の目の前のメリルという少女に、彼女の肩まで伸びた赤髪や、頼もしい目つき、堂々とした身ごなしを、次第にあこがれるようになった。
親子の繋がりはそう簡単に断ち切ることは出来ない。コルネリアがメリルとの間に感じた壁は、まさに両親との繋がりへの執着によるものであった。彼女は触れ合いのために思い出を犠牲に出来なかった。ましてや、メヌエ語を口ずさまなくなることは、本当の意味での別れを意味するのではないかと危惧していた。ゆえに、彼女はパルクト語を喋らないでいるのだったが。
メリル・ヴォーティエへのあこがれは変わらなかった。くわえて、彼女は自分に優しく接する姉のような振る舞いをしてくれるので、コルネリアにはかえって苦しく心地よい存在だった。
何日も一緒に食事をしたりしているうちに、メリルは彼女の性質をわきまえて、言葉を用いらずとも身振り手振りで伝えるという付き合い方を編み出し、けして、彼女から遠ざかろうとはしなかった。
さて、この冬メリルはコルネリアを絵の題材としてアトリエの椅子に座らせることが出来た。
このような季節にあって、自然が画家と被写体の邪魔をすることはなく、音といっては、暖炉の薪が不規則に鳴るくらいのもので、二人は無言の遊びに集中することができた。
九歳になったばかりのコルネリアは不意に眠気に襲われた。メリルがキャンバスに目をやっているときくらいはと気を緩めたりしたが、彼女がこちらを見ると、すぐさま目に力を入れて、不自然に開いたりした。彼女は咎めなかったが、とうとうコルネリアは限界を迎えて、うとうとと眠ってしまった。
「ふう。まあ、しょうがないか」とメリルは立ち上がって、「座りながら寝ると危ないわよ」と小声で言いながらコルネリアを抱き上げた。
もう深く寝付いていた彼女は簡単に起きそうになく、メリルは彼女をソファへと連れていって、そこに横たわらせた。
「ごめんなさい。あたしに出来るのは、これくらいだから」
メリルは彼女に毛布をかけて、暖炉に新しく薪をくべた。
彼女はそれからコルネリアのそばに行って、ソファの片隅に腰かけ、本を広げた。パルクト語で書かれた妖精の恋物語で、古く、いくつかの言語で書かれたほどの人気作だった。だが始めは有名だとも恋物語とも知らずに買った本で、恋物語はあまり琴線に触れることがなかったので、いつからか疎遠になっていた内容だった。けれど、気づかないうちに、彼女はこれを気に入ってしまった。わけて終盤に書かれている文章は、知ってから以降、自然と口ずさむのを好んだものだった。
「ねえ、教えて? これまで悲しみは青いだけだった。綺麗で、澄んで、心地よくさえあったのに、いつからか黄緑色になって……」
そこまで言って、コルネリアが寝返りを打ったので、メリルはそっと口をつぐんだ。




