第二十一話《山百合》後編
雨は止んだ。
あの日。エリックの父親の乗って行った船が、訃報と数人の遺体だけになって帰ってきたあの日に、食堂で酒を飲んでいると、パトリシアが言ったように、どこかから楽の音が聞こえてきた。港の隅で、数人が集まって弦楽器や管楽器を持ち出して演奏しだしたのだ。だがあくまでも弔いの曲であって、踊るには似つかわしくなかった。
「浜辺へ行きましょう」とパトリシアが言った。
そうして彼と彼女は浜辺へと足を運び、静かな夜で、そこにも楽の音は届いていた。彼が不思議に思ったことは、すぐそばで聞いていると気が滅入りそうに感じられるだけだった音色も、離れた場所、それも波の音が強いこんな浜辺まで来てしまうと、ほんの少し悲しげな恋歌になっていることだった。この錯覚の一助となったのは陶酔であり、それが現実の岸と夢の岸とのあいだに橋を架けた。彼は戸惑った。夢の岸を見れば無性に踊りたくなったし、現実の岸を見れば、いつから自分は彼女と手を取り合っていたのだろうと訝しむのだったから。
エリックは踊りの誘いを断らなかった。二人は手を合わせ、簡単な踊りをやった。横に踏み出し、後ろに下がったら今度は前へ進むといったふうの、ぎこちない踊りだった。
涙と月あかり、波と楽の音、そこへ人の心が二つある。男性と女性としてではなく、人が人を人として愛するのに、他になにが必要だろう? エリックとパトリシアに言葉はいらなかった。もしこんなときに似合う言葉を彼が知っていても、そんな言葉に信頼は寄せられなかったろう。
楽の音が止んだのに気づいたとき、ふたりは数時間を踊りつづけていた。そろそろ止めようか? もう少しこうしていようか? ふたりが交わす目配せはそんなふうの、いわば熱情の萌芽をうちに秘めていた。
やがて、踊りを止めたのはエリックだった。知らないうちに波打ち際まで進んでいた彼らの足に波がまとわりついてきたのだ。彼らは逃げ出さなかった。なぜといって、気まずさではなく、もう彼らは時間すら知らない場所にいたのだから。
「あなたが花だったら、きっと愛でるだけだった」
「花の方がいくらかマシに思える」エリックは何気なく言った。
「いいえ! いいえ! ねえ、花が私たちになにをしてくれるの? ただ綺麗なだけ。濃い薄いの違いはあっても、決められた色で咲くだけなのよ? 私、あなたが花なら自分の持っているものを少し分けてあげられる。でも、私が愛情を与えて、あなたはなにを私に与えてくれる? ねえエリック、どうか愛を与えるだなんて言わないで。私には愛を返してくれているのだと思い込めるだけなの。話しかけたとしても、喋りかけてくれたように錯覚できるだけなのよ」
彼女は半ば夢中に半ば当惑して言った。うつむいたままで。
エリックはしばらく黙っていた。そしてとうに自分が酔っていること、パトリシアもかなりに酒を飲んでいるのを忘れていたために、どこまでも真剣だった。彼は彼女の手を離すことも、刹那的に適切と思えた言葉も、口には出来なかった。
「私ね、風の声が聞こえるだけ。動物も植物も、気持ちなんて分からない。ましてなにを悩んでいるかなんて……だからあなたが人で良かった。魔法があったって、世界は絵本ほど偉大じゃないし、あなたが花だったらこんなふうに踊れもしないの」
彼女は力なく言って、また足を動かし始めた。エリックは無意識に呼吸を合わせる……なおも黙ったままで。
「私、また旅に出るわ」
そう、たしかに彼女はそう言ったのだ。月あかりをいただいた寂しげな顔をして!
彼は大きく息を飲んだ。
「おれは」と彼はついに口を開いた。「おれは、なにも知らないんだ。遊び相手もいなくて、まだ本が友だちで、空想こそが生きられる世界だった頃――そう、例えば夢の中だ。夢の中なら、自由に息ができたし、好きな場所へ行ける。だから、現実で生きるすべなんて知らなかった。でも……でも、最近はそんな夢で心が躍らなくなった」
踊りは続いている。言わずもがな、彼らのあいだになんら取り交わされたことはなかった。もっとも、ふたりは踊りのような動きをしているにすぎず、始めはなにか意味ありげな雰囲気の上でのことだったが、今はもう、片方が歩み寄れば片方が後ずさるといったふうの駆け引きに他ならなかった。
「どうして?」と、彼女は不安そうに言った。「あんなに綺麗なのよ? 私だってそれくらい知っているのに」
「ようやく現実が綺麗になった。パトリシアが生きている世界なら、もっと好きになりたい」彼は彼女の目を見つめている。もう彼女の顔に寂しげな色はなかった。
「旅に出ないでほしい。君にお別れを言って、もう君を思い出の中で生かすことしか出来ないなんて、そんなの嫌だよ」
「風をつかまえることなんてできないの」
これを聞くと、彼女は彼女でも驚くほど当惑しているのだとエリックには思われた。
「君が本当に風だったら、こんなふうに踊れやしないんだ。君が人で、おれは嬉しいよ」
エリック――父親がこの日リライナに聞かせた話はこれだけであったが、本当はもっと長く話すこともできた。なぜといって、自分たちの思い出をこうして娘の眼前にありありと浮かべようと努める行いは楽しく、娘の知らない母親の一面を話すことで、今日がより良い誕生日になるだろうと信じていたから。だが彼は続きを話さなかった。恥ずかしさではなかった。懐かしさに打ちひしがれたのでもなかった。
彼はそうして一語一語を思い出すたびに、徐々に徐々に、なぜ自分はパトリシアをもういない者のように扱っているのだろうと、思い始めたのである。パトリシアの死後、彼の中でパトリシアの存在は強くなった。皮肉なことに、それは彼女の声や手に触れていた日々よりも色濃い気配であった。彼はまもなく気がついた。人が花なら、死ぬときになってようやく咲くのだということ、死は散華ではないのだと。本はある程度まで彼の詩的性格を高めたが、駆け出しの詩人が常にそう感じるように、死は彼にとって陰鬱な印象しか与えなかった。ではなぜ今頃になって? 愛がなにかしてくれたわけではない。ましてや、自然が助力をしたわけでもない。といって、直接的でないだけで愛や自然は彼の周りに満ちていたので、間接的な効果はあった。彼の孤独は、その中で強められた。広い部屋の中で、一人立っているようなあの孤独。無力感を触媒としない孤独は何物にも代えがたいものだ。わけて自分の海底へ沈むことを望むのであれば。
彼は詩人だった。だが彼は意識などしなかったし、それを大事にしようとも思わなかったのに、詩は彼を求める。なぜといって、詩の好物はいつも寂寥の念であるのだから。
「お父さんが、お母さんを呼び止めてくれたんだ」と、しばらくして娘が言った。
孤独はいま去ろうとしていた。彼は戸惑わなかったし、むしろ喜んでそれを差し出そうとしている。もう彼に詩は必要なかった。
「父さんには、それが正しかったのか、よく分からない。パティはもういないし、リリはいるけれど……もっと、もっと! パティがいたら、今日がもっと楽しい日になっただろうな!」
娘は黙って、うつむいて喋る彼を見ていた。
「でも……父さんはちっとも惨めじゃない。正しいかどうか迷うだけで、間違いだったとは思えない。それに正しいかどうか迷うのも……だって父さん、いますごく寂しくて、それと引き換えにしても申し分のない幸福が目の前にあるのに、どうしても手を伸ばせないでいるんだ。人が自分の寂しさに気づくのは、いつも目の前に幸福がちらついた時なんだ。どうして、どうして……」
パトリシアが生きているあいだ、彼は自分の中に寂しさを見いだしはしなかった。惰性的な幸福はどこまでも人の精神を鈍感にし、その果てに盲目が待っている。ゆえに、これまでも確かにあった寂寥に気づいたところで、もう遅いのだ。パトリシアがリライナの世話をして、食事をするときもリライナのそばに座ることが多くて――思い出せば限りないような日々の中にあって見えなかった寂しさ……夜になって星が輝きを増すように、彼の寂しさはあらゆる場所で光りはじめた。強い弱いの違いはあるにしても、一つを見つめて、それからまた一つと見いだしていく感覚は、まさしく星と同じ甘やかな味がした。だが、どれだけ見つけようともう手遅れだった。もう彼の隣に、あの人はいないのだから。……
「やっぱり、白い水だね」
言ったのは娘であるはずだった。そう、たしかに言ったのは娘だったが、直前に吹いた風が、彼女の落ち着いてはいるけれどやや高い声を実際よりも低く感じさせたので、彼はこれまでに何度もそうしてきたように、娘にパトリシアの面影を感じるのであった。
娘は彼の手をそっと両手で包みながら、じっと黙っていた。
「お母さんほどわたしはお父さんのことを知らないけど、お母さんが白い水だって言ったの、少しわかる気がする。わたしは魔法のない自分が嫌いだったし、自分を卑下してちょっと心が落ち着くのが癖になって、次第にそうやって自分を嫌うのが好きになっていた。生きてたって、魔法も使えなくて、ただ家の手伝いしかできないなら、生まれなかった方が、お父さんたちの負担が減ったのにって、思うこともあった。わたしだって知ってるんだよ。お父さんとお母さん、わたしのために、ろくに寝もしないで働いて、何不自由ない生活をさせてくれてたことくらい……だから、わたしがいない方がって思うこと、何度もあった」
彼は不思議に思いながら、娘の顔を見ていた。なぜといって、聞いているだけで彼は辛くなっているのに、娘は幸せそうな顔をしているのである。
「意固地になっていた。自分がもっといい子にしていたらなんて、馬鹿げたことも考えた。……でももう飽きたんだ、悩むのに。だってわたし、お父さんとお母さんは、なにがあってもずっと、ずっと大好きなままだったから。夢に出会ったからかもしれないけれど、わたし、前より自分が好きになった。好きになろうとすることも、ぜんぶ」
エリックはずっと、黙っていた。
「わたしは、お母さんの体と、お父さんの心で出来ている。あんまりたくましくないけど、ちょっとしたことで苦しくなるけど、わたし、自分が大好きだよ」
風は強く、波は荒く、日差しは激しく、時間は空虚で、美しかった。




