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第十四話《彼女の筆》


 メリルには理解のできないものが彼女の興味をそそった。きわめて自然的な所作でリライナの背後の椅子に腰かけるまで、それは息をひそめていたが、メリルがそうして腰を落ち着かせて足を組むと、ふいに、『なぜあたしは彼女にひかれているのか』そんな考えがよぎったのである。一体彼女は人付き合いが苦手だった。そのうえ、他人と一定の関係を築きあげるには、いくつもの段階を踏まえなければならないという感覚が根強くもあった。それがいつのまにか崩れていた事実――これがメリルの心をとらえていた。姉弟子と妹弟子の関係も遠い過去のことであるかのように感じられるほどに弱まっている。なによりリライナの背中をながめているのは、彼女にとって気持ちがよかった。


 やがてメリルはあらゆる思考を手放した。真剣に絵を描いている少女の背後であれやこれやと考えている自分がだんだんいやになりだしたのだ。いざ手放してみると、またメリルは先ほどとおなじように気持ちがよくなった。だが、年相応の好奇心はやんわりと残り香をにおわせて、彼女はときおり『この感覚はなに?』と自分に問いかけなくてはならなかった。この問題とリライナの背中のあたりをメリルの意識は放浪しつづけ、とうとう眠気におそわれたようにぼんやりとなる。


 彼女は肘と膝をくっつけてあごを手に乗せる。すると視線を感じた。それはリライナの肩に乗ったヴラジーミルの視線だったが、メリルは『どこまで自然と親しいのかしら?』と思うくらいのものだった。ようやくメリルは自分が椅子に座るまでになにがあったか思い起こすに至った。


 一枚の葉が落ちてきたのだ。それから天窓をながめたが、メリルは本当に、始めのうちはリライナも天窓を見ていると気づいていなかった。だから天窓越しに目を合わせたときには動揺を禁じられず、直に目を合わせたときには、言葉が口を衝きそうになった。結果として口をつぐむことができたけれど、なにを言おうとしたのか、もう思い出せない。だが、この一連の時間のなかで、メリルは自分の発言をどうすれば撤回できるのだろうと思わないではなかった。


『あたしは家族が嫌いだなんて、メイリークには関係のないことだったのに』こう思いながらメリルはまたリライナの背中へ目をやった。自分の後悔を直視しているかに感じられた。もしこのまま、ひとりごとを呟くことができさえすれば、とメリルは思った。けれど、実行するのに、アトリエの中にただよっている雰囲気はとても最適ではないととどまる。アトリエは静かであるうえ、天窓からは、ときおり吹く風のために届けられる木々の音、部屋の中からは、リライナの座っている椅子がわずかにきしむ音が聴こえ、これらすべてがささやかであればささやかであるほど、そうでないよりもっと――静かな、無音よりも深い、それでいて寂しいなどではない、胸の中で鈴が気味のいい音を立てているような感覚をゆくりなく意識のうえで踊らせてしまいそうになる。そんな雰囲気がただよっていた。


 メリルは声を出そうとつとめたが、ただ口がひらいたりとじたりするだけで、それきりなにも出ていかない。もどかしさの中にあってさえ、奇妙な、心地よい感覚だけが消えない。


「イスール・ベルって、いいところなんだよ」とだしぬけに言いだしたのはリライナだった「ずっとここで育ったから、ほかの町のこととか、あんまり知らないの」


 彼女の口調は、絵本でも朗読しているふうな、なんとも抑揚のない、単調なものだった。感情もなく、もしくは、いま自分が口にしている言葉に似つかわしい感情を無理やり引っ張ってきたような――身の丈にあわない詩を読んででもいるような声であると、メリルには感じられた。


「ここから出たことないの?」とメリルは唖然としながら言った。が、部屋に響いたのよりも、自分の耳にはやけに自分が場に似合わない驚嘆を発したように感じられて、すぐさま平静をよそおって、「ちっとも?」と言った。


「お母さんがいちど隣町に連れて行ってくれたことがあるみたいだけど、わたしがあんまり小さかったから、おぼえてないの」


 以後、メリルは呆然と彼女の肩越しに見えるキャンバスを見つめながら、できるだけ聞こえがいいようにつとめて返事をしていた。


 しばらくして、メリルにはリライナが筆をキャンバスにあてたまま、固まっているのが分かった。そうして気がつくと、リライナが喋りはじめてから、ずっと彼女は固まったままだったのではないかと、メリルは思った。


 とうとうリライナの話が終わり、すると、彼女の息遣いが乱れていることが部屋中に知れ渡った。


 メリルは彼女が今どんな顔をしているのかわからず、また想像もしなかった、というより、知らなかったのである。メリルはリライナが『魔法の使えない青い少女』であるほかに、なにも知らなかった。だから椅子から立ち、彼女のそばに立ってみるまで、泣いているとは思いもしなかった。


「あなた。……どうして」とメリルはいささかためらったあとでたずねた。


「お母さん。もう……もう、いないんだ」


 自然や部屋の広さ、それから二人のあいだにある気まずさまで手伝って、リライナの声が、哀愁を帯びてメリルに届いた。


「ごめんね、メリルには関係のないことなのに」


 これを聞くと、メリルは今だけでも自分の性質を忘れなければと思った。つまりは人付き合いが苦手な性質を――今だけでも。


 彼女はリライナを優しく抱き寄せた。一刻も早く彼女の筆を――今まで母親の目に色を塗ろうと試みていた、彼女の筆をおろさせてやろうと思ったのだ。


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