第一話《画家の卵》
ある日、それはもう春近い日に、丘の上にある師匠のアトリエで、わたしは初めて、自分の描きたいものを描かせてもらえることになった。木組みのアトリエの窓辺には、柔らかな日の匂いと、絵の具の鼻をつく刺激臭が漂っている。
イーゼルに立てかけたキャンバスを前に、わたしはどうしたものかと考え始める。
画家である師匠、ハーケン・ボルステイン先生の指導の下、わたしが画家を志すようになって数か月。スケッチもしたし、絵の具の組み合わせや塗り方、ハイライトの効かせ方。いろいろな技法を師匠から学んできたけれど、どういうわけか、構想は漠としていた。
――私が描きたいものって、なんだろう?
ふと、窓の外を眺める。
パルクト大陸の最西端。ウィールズ地方の小さな港町、イスール・ベル。活きのいい魚が朝を飾り、ほのかに陽の匂いを湛えた潮風が包む。そんな、わたしのゆりかご。
見つめて、目を閉じて、また見つめる。しかし、答えは得られないままだった。
「肩の力を抜くんだ、リライナ。ぼくは絵を描けと言っただけで、名作を描けとは言っていないのだからね」
わたしは椅子に腰かけたまま、隣に立つ師匠を見上げる。師匠はわたしではなく、どこか遠くの方に視線を向けていた。わたしに見えないものが、師匠には見えているらしく、それはどうやら、美しいものであるらしいことも、師匠の顔を見れば、おのずと理解できた。
「師匠、なにを見ているんですか……?」
耐えかねて、恐る恐る訊く。認めざるを得ないのだと思う。今のわたしには、師匠に見えているものは、その一端すら、見えはしないのだと。
「さあね。……リライナ、君にはなにが見える?」
ようやく師匠は、わたしを見る。シルバーグレーの前髪の隙間から、まるで今しがた水平線の向こうに沈もうとしている夕日をはめ込んだような、綺麗な橙色の瞳が二つ、わたしを見る。
「哲学ですか? それとも、気分の問題ですか?」
「そのままの意味だ。見えるものの中、君はなにを思い、感じてしまうのか。魔法の定着しなかった君は、どんな思いで、ここで生きてきた?」
師匠の言葉が、ほんの少し、わたしに突き刺さる。
魔法というものは、ほとんどが遺伝により、使えるか使えないかが決まる。わたしのお父さんとお母さんは、どちらもそれなりに魔法が使えるはずなのだけれど、わたしは、なにも受け継がなかった。いわば、ただの人なのである。
「……魔法の話はやめてください。なんだか不甲斐なく思えてきますから」
わたしは不服を込めて、これでもかと頬を膨らませて師匠を睨むけれど、師匠はまるで、わたしが駄々をこねだしたとでも云った風に、わたしが現実逃避を始めたかのように、優しくも呆れた、静かな笑みを浮かべていた。
☆ ☆ ☆
もうじきに夜になる。今日の勉強は終わった。結局、キャンバスに絵筆を走らせることは一度もなかった。
「んぅ……あぁー……」
アトリエからの帰り道。ゆるやかな坂道を覆うのは、夕日に塗りつぶされた木々のトンネル。雨は降っていないはずなのに、なぜだか湿っぽくて、なめらかな感触が肌を撫でる。いつもなら清々しいそんな帰り道が、この日ばかりは、違っていた。
「んん……わたしが描きたいもの……」
小石を蹴飛ばし、ため息一つ。日暮れの匂いを嗅ぎながら、わたしは思惟にとらわれる。
今の時代、魔法が使えないものが出来ることは少ない。どんな魔法が使えるのか、それで将来の職業が決まると言っていい時代なのだ。それを縛られると考える人もいるけれど、取り柄があって、なれるものがあって、いいなぁって、わたしは思う。
「ようやく出会えたような気がしたのに……こんなものなのかな?」
だから、魔法を必要としない画家という職業は、わたしにとって、目の前に吊るされた大好物と同じように、おもわず飛びつかずにはいられないものだった。後先を考えなかった。なにか、やりがいが欲しかった。
――なにかしていないと、本当に、何者にもなれない気がした。
不意に、どこからともなく風が立った。わたしは足を止めて、風切り羽のついた帽子を押さえようとする。しかし、風の方が一枚上手だったらしく、わたしの帽子を、木々の向こうへと運んでいった。わたしが呆気にとられていると、風になびいたわたしの青い髪が、向かうべき道を示しでもしているように、風の行先を、教えてくれていた。
わたしに、魔法は使えない。でも、魔法のような事象が、時折、風になってわたしを導く。迷ったとき、探し物をしているとき、挫けそうになったとき。風は、いつだってわたしのそばにいる。この事象や、透き通る青を湛えたわたしの髪から、町の人は、潮風に育まれた少女、とわたしを呼んだりするのだけれど……。
「ああ! ちょ、ちょっと待ってー!」
我に返り、わたしは帽子を追いかけて木々の間へと入り込む。ダンスを踊ってでもいるかのように、風が帽子をもてあそぶ。するすると木々をかき分けて、風は奥へと進んでいく。
わたしは草の茂った道を少し歩きにくそうにしながら、未だかつてない冒険に繰り出そうとでもしだしたような、好奇心に満ちた単純な感情で胸をときめかせながら、帽子に、風に、ついていく。
段々と険しくなっていくのを認めていると、とうとう、風が止んだ。
風がたどり着いたのは、泉のほとりだった。
草の上に落ち着いた帽子を拾い上げ、軽くはたいてから被る。それから辺りを見渡して、ようやく、ここがどこであるかを認めた。
「そっか……。ここに連れてきたかったんだね」
そこは、わたしと師匠が出会った場所。画家と出会った場所。夢を見つけたと、心から思えた、初めての場所だった。
シダに囲まれた、ターコイズブルーの泉。周りに生えた木は、その泉を覗き込んでいると云った風に、泉の方へ傾いていた。視線を海がある方に向けてみると、そんな木が開けて、今まさに水平線に陽が沈む姿を特等席から眺めることが出来た。
「わああ! なんて綺麗なんだろう……」
住み慣れた町が、初めて訪れた町みたいに、新鮮で、清々しい景色だった。そんな景色を見れば、この数か月の間に、わたしがわたしでも知らないうちに芽生えていた画家の卵らしい創作意欲が、揺さぶられないはずはなかった。
「描きたい……これ、描きたい!」
逸る気持ちが声に出る。落ち着かせようと深呼吸をしてみると、ほんのりと、潮風の匂いがした。