初恋−5
ある放課後、わたしはたまたまあなたの教室の前を通りました。
そこにはもう誰もいなくて、窓側の席にあなただけが、一人座っていました。
閉じた窓ガラスから夕日が差し込み、あなたをオレンジ色に染めていました。
少しうつむいたあなたの横顔に、わたしは見惚れていました。
あなたの表情を見れば、何かあったのだと、すぐに分かりました。
でも……何も聞けなかった。
あなたに声をかけることすら、あの頃のわたしには無理なことだった。
六月
じめじめとした空気の中、カタツムリが顔を出します。
季節は梅雨に入りました。
あなたに逢ったのは、もう何度目でしょう?
あの日は、雨が降っていました。
たまたま傘を忘れてきたわたしは、昇降口で雨が止むのを待っていました。
何分待っても、何十分待っても、簡単に止んでくれるはずもなく、
あきらめて帰ろうとしたとき、後ろであなたの声がしました。
「あ、君……そこでなにしてるの?今日は雨だし……木の下でお昼寝は無理だと思う。」
あなたは真っ黒い傘を開きながら、わたしの隣で立ち止まりました。
「それくらい、わかってます。先輩こそ、もう下校時刻とっくに過ぎてますよ。」
あなたは苦笑しながら言いました。
「相変わらずだね。……傘、ないの?」
「……あります」
「ふぅ〜ん。じゃ、気を付けて帰ってね」
あなたは傘をさして校門を出てしまいました。
わたしは、しばらくそこから動けませんでした。
雨は酷くなる一方で、止む気配すらない。
しかたなく、そのまま帰ろうとしたとき、校門から誰かが走ってきました。
「…っ。ほらっ…、傘、無いんでしょ?」
黒い傘を差した、あなたでした。
わたしは声もでませんでした。
「どした?……なんか反応してよ…」
あなたは真っ黒い傘をさして、うつむくわたしの顔を覗き込みます。
「……馬鹿じゃないですか。そのまま帰ればよかったのに」
照れ隠しで言った言葉に、あなたの言葉はなく、ただ、笑っていました。
「ほら、帰るんだろ?送ってあげるから、入りな」
「………………ありがとうございます」
小さくつぶやいたわたしの言葉に、あなたはやっぱり笑ってくれました。
帰り道、わたし達は何も話しませんでした。
そして、やっぱり、あなたはわたしの名前を知らないまま、自分の家に帰っていきました。
わたしの胸の中に、なにかが、ちくりと刺さりました。
何も話さなくていい。
何も知らなくていい。
あなたが隣で笑っているなら、それで幸せ。
だけど、……わたしの名前、呼んでください。
あなたが呼んでくれないから。
わたしは『先輩』としか、…呼べないの。
今、あなたの名前を呼んでいるのは誰…?
愛しいと想いながら呼んでいるは、誰ですか……?