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赤いスカーフと、疑問

 黒いクマの姿の彼の胸元にいつもあるのは、赤いスカーフ。その下から覗く白い三日月模様の毛並みは柔らかく、アンナはそれを触るのが大好きだった。


 ディオヌスの森へは日が落ちるまでに入れた。黒いクマが人の姿へと転じ、アンナはパッと手を放した。ベルンハルトは少し悲しそうな表情をするが何も言わない。対するアンナはそっぽを向いているが少し頬が赤い。


 もう、以前のように無邪気に、あの白い三日月模様を触る為にぎゅうっと抱き着くことは難しくなってしまった。学院へ行くか行かないか悩んだアンナは、心の奥の小さな恋心の芽に気付いてしまったのだ。それはゆっくりと育ち、小さな花を付けた。


 何故、こんなに美しい人を“クマおじさん”なんて呼んでいたんだろうかと。考えるといつも真っ赤になってしまう。平気な顔をしているが、ベルンハルトが不意に見せる蕩けるような笑顔なんて殺傷能力ばっちりだ。助けて欲しい。


 ガサリ、と低い茂みが揺れて二人の歩みが止まる。出てきたのは立派な銀狼だ。


「ジーク、こんにちは! 素敵な尻尾と素敵なお耳だね」

「…リンゴジャムの匂いをもう嗅ぎつけたのですか」


 ジークはアンナの足元へとすり寄り、アンナは銀狼の耳の根元を優しく掻いてやる。金色の瞳は気持ちよさそうに細められた。


「はあ、癒される…。ところでリンゴジャムがあるのか」

「お疲れですね、ジーク。しかし、貴方に差し上げるリンゴジャムはまだできておりませんよ」


 銀狼はがっくりと頭と尻尾を下げた。来年で学院を卒業すれば王としての教育が本格化される。満月の晩にここにやってくるのは新しい口伝者が現れない限り変わらないが、忙しいことには変わりない。


「ジークも大変だね…リンゴジャムは予備をあげるから…」

「姫様、その予備をジークは前回持って帰っております」

「…あ、そうだった。ええっと、また作ってあげる」


 勝手に持って帰ったジークを責めるわけでもなく、アンナはまた作ることを約束してくれたので銀狼の尻尾は上機嫌にぱたぱたと揺れ、反比例してベルンハルトの眉間には皺が寄った。


「姫様は、ジークに少々甘すぎるかと」

「そうかな。だってジークは王子様でお仕事大変なんでしょう?」

「そうだぞー! 時期王様なんだ。癒しが欲しいんだよアンナ。可愛いおよめさ…」

「さあ、姫様。帰りましょうね」


 ひょい、とアンナの膝裏と背中に手を回して抱き上げて城へとベルンハルトは疾走を始めた。アンナはリンゴ等の入ったカゴを慌てて抱き込み、頬を染めた。


「ベ、ベルンハルト! 私はもう子どもじゃないよ」

「分かっておりますとも。姫様は立派な淑女になられました」

「しゅ、淑女にこんなことしちゃいけないんじゃないの!?」


 アンナの言葉にベルンハルトは知らん顔だ。ジークが何か吠えながら後ろをついて走ってくるが、クマの獣人であるベルンハルトのほうが僅かに早い。


「ささ、可愛らしいお口を閉じてくださいませ。舌を噛んでしまいますよ」


 小さな頃、結構がっつり舌を噛んでしまったことを思い出してアンナは口を閉じた。諦めて抱き上げられていると、ベルンハルトの鼓動が聞こえてきてドキドキする。温かな体温を感じながら、永久の姿を持つこの森の番人の鼓動もちゃんと動いているんだと、ふと思った。



***


 その日の夕食はジークも加えて三人で賑やかなものとなった。今日は満月で訪れるだろうとは思っていたので食材は多く仕入れてきてあった。二人暮らしだが、満月の晩だけは三人になる。これもここ十年の間の習慣だ。


 お腹も満たされ、ジークとお別れをしたアンナは湯あみを済ませた後、ベルンハルトにレモン水を入れてもらってそれを飲み、彼とおやすみの挨拶をしてアンナは自室へと戻っていた。

 

 彼女が幼い頃には広すぎると感じていた部屋は物が増え、持ち主であるアンナの成長により丁度良い広さになっていた。ベッドは相変わらず大きすぎるが寝相があまり良くない彼女にはちょうどいい。成長を見越して整えられた部屋に、見合った成長をした自分が居れて嬉しいとアンナは思う。


 ふかふかのベッドには入らずに、カーテンの閉まっていない窓際へと歩みを進めた。この場所は外に出窓のように大きく突き出していて腰掛けられるようにレンガでできたベンチが向い合せで置いてある。


 そこに一人腰を下ろして窓の外を眺める。今日は満月だから森全体が濃い青色の光で覆われていてとても美しい。大型のクジラのような生き物が森から大きく跳ねるのが見えた。久しぶりに見た高く美しい跳躍にアンナの心臓は高鳴った。


 そういえば、ベルンハルトと昔見たことがあった。その時のアンナはまだ小さくって、こちらに害はないと分かってはいても森を泳ぐ半透明の魚たちが怖かった。そんな時はクマおじさんに抱っこしてもらって、ぎゅうっと抱き着いて赤いスカーフを触るのだ。


 クマおじさんに抱っこしてもらうのは好きだ。ヒゲがチクチクとあたるのが少し痛いけれど、それを差し引いても安心して気持ちいい。


 そこまで考えてアンナは首を傾げた。なんでヒゲが当たったのだろう。確かに、クマの形のベルンハルトにはひげがあるけれど、彼が子どもだったアンナを抱き上げてくれる場所は肩だ。ヒゲが当たったとしても服の上から腹部にだろう。しかし、記憶にあるのは頬に触れるアゴヒゲ。


 人間が顔に生やすヒゲだったように思える。そして、そのヒゲは金髪で、彼は赤いスカーフを巻いていたように思える。彼のことをアンナは確かに“クマおじさん”と呼んでいた。しかし、彼女のよく知っている黒いクマではない。


「…ベルンハルト?」


 なんだか頭が割れるように痛い。アンナは頭を押えてベッドへと戻り仰向けに横たわる。


「私が、赤いスカーフをプレゼントしてあげたベルンハルトは、誰?」


 思い出そうとすると頭痛が増してきてアンナは額に腕を乗せて目を閉じた。


 眠りに落ちる直前にアンナの記憶の奥で、金髪と同じ金の無精ひげを生やしたクマのような体格の騎士が大口を開けて笑う姿が浮かんだ。しかし、誰かを思い出す間もなくアンナの意識はゆっくりと沈んでいった。



▼ ジークはリンゴジャムの約束を取り付けた…!

▼ しかし、そのリンゴをデザートに全て食べてしまった…!


次話、クマおじさんのお話…かもしれない。

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