彼の思いやりと彼女の幸せ
少し長くなってしまいましたが、切れが悪いのでこのまま投稿します。
満月の晩からしばし時が過ぎ、空に月が浮かばない新月の日のこと。
アンナは、とても怒っていた。
***
「学院へ通うの?」
「はい。姫様も外の世界を気にされていらっしゃいましたから」
「森の外に出てもいいの!? 本当に?」
食後の紅茶と共に語られたベルンハルトの提案にアンナは興奮気味に身を乗り出した。
彼女はこの森から出たことが無いのだから、興奮するのも無理のない話だ。
「ふふ、でも近くに学院があったなんて知らなかった。森は深くて広いから、早起きしてがんばらなくっちゃね」
アンナは上機嫌に紅茶のカップに口を付けた。森の外に行くならば、今よりもう少し早く寝たほうがいいかもしれない。
「私ね、たくさん友達が欲しいな。同い年の女の子のお友達!」
「はい。姫様ならば、すぐにご友人がたくさんできますよ」
にこにこと返事をしたベルンハルトが一つ付け足した。
「あと、学院はこの近くには御座いません。とても遠く、ここから馬車で二日程かかる王城のある街にございます」
「え?」
アンナは驚いた。そんなに遠くてどうやって通うというのだろうか。
「なので、姫様は学院の寮へと入って頂くご予定です」
「え、私…このお城から出て行かないといけないの?」
ベルンハルトの言葉に、アンナは不安そうな表情を浮かべる。テーブルを向いていた体をベルンハルトの方へと向けて座り直すと、彼は静かに頷いた。
「姫様。私は森の番人です」
「うん。知ってる」
「夜には必ず、この森に居なければなりません」
「うん、昼間もあんまり離れちゃダメなんだよね」
「はい。ホルンの街が距離的にギリギリですね」
ホルンの街は、この森の一番近くでそこそこ栄えている小さな街だ。ベルンハルトは時々、森で仕入れた薬草やキノコ、木の実やそれらを加工したものを持っていってそこで売る。
姿忘れの森で採れたものは高く売れるし、何より森の番人が加工した品物となるとさらに値がつり上がるのだ。
本来、ベルンハルト一人だけなら必要のない無駄な仕事だ。アンナが来てから、彼女の着るもの・食べる物・教育等に必要だからと始めたのだ。
話は終わってはいない。不安そうなアンナの深い青い瞳を見つめ、ベルンハルトはゆっくりと口を開いた。
「そして、私は…この先もずっと、この姿のままこの森を守り続けます」
「うん、知ってるよ」
今更、何を言うのだろうとアンナは首を傾げる。アンナの記憶がある所からずっとそうだ。
「姫様は、人間です」
「うん。私には素敵な尻尾も牙も何にもないよ」
「…ふふ、姫様のそういう所が私は好ましいと思います」
大真面目に返事をしたアンナにベルンハルトは微笑んだ。なんで褒められたかさっぱり分からないが、少し場が和んだのでアンナはほっとする。
椅子に腰かけたまま横を向いているアンナの前に、ベルンハルトは近寄り、視線を合わせる為に膝をついた。漆黒の瞳がアンナを真っ直ぐに射抜く。なんだか、いつもの甘やかしてくれる優しいクマおじさんではない気がしてアンナは困った様に目を少し逸らした。
「この世界では獣人がほとんどを占めており、姫様のような人間は少ないことをお話しましたよね」
「うん。獣と人に近い姿、それぞれを一人で二つ持っているんだよね」
「そうです。私は番人なので当てはまりませんが、ジークのような姿をしている者はとても少ないです」
そう、ジークのように限りなく人に近い見た目をしている者は少ないのだという。大概は、人の姿を取っても尖がった耳が残っていたり、ふさふさの尾が付いていたり、鋭い牙がむき出しだったりと様々だが、どこかしら獣相が残っているそうだ。
ちなみにジークにも一応は獣相がある。昼間は全く分からないが、夜に瞳を見ると光る。それが狼である彼の獣相だ。
「どこから現れるのか、何故現れるのかはわかりませんが、それでも姫様のような方はいらっしゃいます」
アンナは頷く。だって、彼女は確かにここに存在している。
「獣人は相手を選ぶ時には好きか嫌いかも重要ですが…何よりも自分の獣相が子どもに受け継がれるかを考えます」
「え、子どもって…」
アンナはぽっと頬を染めて手で押さえる。まだ早いかとは思っていたが、なるべく早く話をしておかねばならないことだ。
「はい。例えば…そうですね。猫族が馬族と結ばれたとします。そうすると面長な顔にちょこんと猫の耳が付くかもしれませんし、面長な顔の先にちょこんと可愛らしい鼻が付くかもしれません」
アンナは想像してしまって、クスリと笑みを漏らした。なんだかアンバランスで可愛い。
「とってもアンバランスですよね。ですので、獣人たちは子どもをイメージして相手を選びます。だいたいは自分と姿の近いもの、組み合わせてもおかしくならず、かつ自分の獣相が濃く出そうな相手を選ぶのです」
「そうだね。片方は猫の耳でもう片方はネズミの耳だと…ちょっぴり面白いもんね」
そんな獣人が話しかけてきたら、ネズミの獣人さんと呼ぶべきかネコの獣人さんと答えるべきか悩んでしまう。
「何と組み合わせてもおかしくならず、かつ自分の獣相が確実に子どもに出る相手。それが人間です」
「…あ」
いつも「危ないです。すぐに姫様は攫われてしまいます! ささ、お城に戻りましょうね!」と、森から出してくれなかったベルンハルトの言葉を思い出す。彼はこの森にアンナを閉じ込めていたのではなくて、外の世界から守ってくれていたのだ。
「はい。姫様は聡明でらっしゃいますのでもうお分かりですね」
「…人攫いに遭うって、本当だったんだね」
「この森の中では私の監視が行き届くので安心なのですが、出てしまわれては守ることはできません」
ベルンハルトは少し寂しげに微笑んだ。
「しかし、姫様ももうじき大人になります。いつまでも私だけの姫様にしておくわけにはいきません」
「クマおじさん…」
「姫様は成長していかれます。どんどんお美しくなられるでしょう。共に人生を歩んで下さる素敵なお相手を定めなくてはなりません。ここは私と、たまに来るジーク、それに森の生き物たちしかおりませんし」
ベルンハルトの言葉を聞き流しながら、なんだかアンナはとても腹が立っていた。
私のことなのに、なんでクマおじさんが決めてしまっているのだろう。私は、今のままで十分幸せだ。クマおじさんは優しいし、私にお勉強も教えてくれる。一緒に花を植えるのだって、お料理をするのだって大好きだ。なんでそんなことを言うのだろう…。そこまで考えてアンナは思い至った。
「…クマおじさんは、私とずっと一緒に暮らすのは嫌だから、追い出すの?」
アンナはイスから立ち上がり、ベルンハルトを見下ろした。いつもは好奇心旺盛にきらきらと輝く青い瞳は怒りと悲しみに燃え深く輝いている。ベルンハルトは思わずそれに目を奪われたが、慌てて首を横に振った。
「い、いいえ! そのようなことは全くございません。ですが姫様…」
「お姫様扱いなんてしてくれなくていい! 下働きでもなんだってするから、私はここに居たいよ!」
感情が爆発したアンナは、恐らく初めて大きな声で叫んだ。そしてそんな自分に驚いたのだろう、大きな瞳からぽろぽろと涙が零れてしまう。
「ひ、姫様…すいません、もう少しゆっくりとお話すべきでした」
ベルンハルトがポケットからハンカチを取り出し、アンナへと差し出すが受け取られることはなかった。
「…怒って、ごめんね。もう少し、よく考えさせて」
自分の両手の甲で止まらなくなってしまった涙を拭い、アンナは立ち上がった。
「また、明日は元気になるから。またお話ししよう。おやすみなさい……ベルンハルト」
クマおじさんとは呼ばず名前を呼んだアンナは、ハンカチを差し出したまま固まる彼の横を通り過ぎて部屋から出ていってしまった。
ベルンハルトは苦い顔をして、シミ一つない真っ白なハンカチをゆっくりと握りしめるだけだった。
ジークはアンナのことをよく分かっていると思います。ベルンハルトはその立場ゆえ、難しいですね。
次話、アンナ、一生懸命考える。