クマおじさんと、お姫様
「ああ、幼き日の姫様ですね。お懐かしゅうございます」
「え!? なんでびっくりしていないの?」
うっとりと漏らされた言葉にアンナは驚いて振り返る。なんでそんなに落ち着いているのだろうか。
「だって、ここは姫様の夢の中ですよ。幼き日の姫様がいらっしゃっても何ら不思議はございません。ああ、でも。姫様はやはり赤いお洋服の方が似合いますね」
駆け回る女の子は白と青を基調としたドレスを着ている。アンナは赤でも青でもどちらでもいいと思ったが、ベルンハルトは譲れないらしい。
「こら!! アンネロッテ!!」
庭園の奥の方…建物の方から大きな低い声が響いてきて、女の子は足を止めた。恐ろしい怒鳴り声だったが、女の子は嬉しそうに飛び跳ねて駆け出した。アンナも気になって駆け出す。無論、その後ろをベルンハルトも付いて行く。
屋根の付いた長い渡り廊下には、鎧を付けた大柄な男性が腕組みをして仁王立ちをしていた。どうやら騎士のようで、胸元にはたくさんの勲章が飾られている。短く刈られた金髪に、深い青色の瞳。アンナと同じその組み合わせと美貌の持ち主だろうに、残念なことにクマのように生やされたヒゲによって全て台無しになっている。
小さな子どもや女性には少し敬遠されそうな粗野な風貌の騎士は、がっはっはと大きな口を開けて笑った。
「また脱走したのか、アンネロッテ! あんまり侍女たちを困らせるんじゃないぞ!」
「クマおじさーん!! おかえりなさーい!!」
そんな彼を恐れるそぶりは全く見せず、女の子は騎士の胸へと飛び込んでいった。胸当てに鼻が当たって痛かったらしい。少し鼻を擦ってから恥ずかしそうに笑う。
「お土産はー?」
「お前なあ…脱走してお勉強しない、悪いお姫様にはお土産はやらん」
「ええー!!」
大真面目な顔で諭すと、女の子の激しいブーイングが起こり、騎士は片目を瞑って、うるさそうに耳を塞ぐ。しかし、その様子はどことなく楽しげだ。女の子を抱き上げたまま室内へと入っていった。
その二人を、アンナとベルンハルトは黙って見ていた。
先に口を開いたのは、アンナだった。
「私の名前、思い出した」
アンナは愛称だというのは理解していたが、どうしても本当の名前をずっと思い出せなかったのだ。ベルンハルトへ向き直ると、彼はいつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。しかし、どことなく悲しそうな瞳をしていた。穏やかに城で暮らしていたアンナならばどうしたの? とすぐに気付いたであろう。
しかし、興奮した今のアンナでは気付くことはできなかった。
「私の名前は、アンネロッテ・ドゥ・ラカーユ」
なんで今まで忘れていたのだろう。不思議なほどにスラスラと出てきた。
「でも、なんであの騎士をクマおじさんって呼んでいたのかな。確かに、あの騎士ならベルンハルトよりもクマおじさんって感じがするけれど」
「姫様、扉が…」
ベルンハルトの声に、アンナが視線を転じる。先ほどまであった噴水が掻き消え、代わりに何の変哲もない木製の扉が一つ置いてあった。
アンナは近寄ってぐるりと回ってみてみた。本当に、扉が一枚置いてあるだけだ。
「ねえ、ベルンハルト。これは何かしら」
「扉なのだから、くぐる他はないのでしょうね」
ベルンハルトはアンナの白く小さな手をぎゅっと掴んだ。そして優しく笑った。
「どうなさいます、姫様。このまま私が起こして差し上げることもできます。そうすれば、今まで通りあの森にて、私と姫様の生活に戻れますが」
アンナは迷った。しかし、騎士をクマおじさんと呼んでいたことも気になるし、何より何であの森へやってきたのかが知りたかった。
彼女の記憶の始まりは、古城のベッドで一人、目を覚ます所からだ。その次の記憶は優しいベルンハルトが赤い配色の洋服を持ってきたところ。
「ベルンハルト、私は知りたい。私が何者なのか」
きちんと自分のことを知って。失われた記憶を埋めることができたら、どこから来たのか得体の知れない、ただの無力な人間なのだと卑下せずに、胸を張ってベルンハルトにこの気持ちも伝えられるような気がする。
アンナの青い瞳に灯った熱を静かに受け止め、ベルンハルトは頷いた。常と変らず穏やかに微笑んでいるはずのその表情は、やはり寂しそうだ。
「かしこまりました。では、姫様、お手をどうぞ」
ベルンハルトが恭しく右手を差し出す。アンナもそっと手を乗せた。まるでお姫様みたいだと思ったが、本当にお姫様だったと思い至って、アンナは苦笑いを零した。実の所、自分がお姫様だろうが平民だろうがなんだって良かった。ベルンハルト一人だけのお姫様であればそれで良かったのだ。
「では、開けますね」
長年開けていなかったような軋みを立ててドアが押し開かれる。アンナは、しっかりと手を握っていてくれるベルンハルトの熱を感じながら木製の扉をくぐった。
ただ置いてあった扉をくぐっただけなのに、先ほどの和やかな庭園とは一転した。少し、庭園が荒れてしまっていて、アンナは眉をひそめた。荒れたというよりは手入れを怠っているように感じられた。
幼い自分を探そうと思ってふと気づく。確かに繋いでいた左手の温もりが無い。はっとして辺りを見渡してもベルンハルトの姿はどこにも見当たらない。
「ベルンハルト…大丈夫かな」
途端に不安が押し寄せてきたが、扉を開けると決めたのは他ならぬアンナ自身だ。離されてしまった手をぎゅっと握りこみ、庭園を歩き始めた。
進んだ先にあるのは、希望か絶望か。
次話、騎士の決意




