姿忘れの森と女の子
表紙が入っています。背後にご注意を。
夕闇が迫った深い森の中。
道と言うにはあまりにも細すぎる山道を、ひとりの女の子が歩いていた。
可愛らしい赤色の毛糸で編まれた長いポンチョ頭巾、フードからは金色のおさげ髪が垂れており、長いポンチョの下からは同じく赤のエプロンドレスが覗く。
道なき道をひたすら歩く女の子の小さな足元を包んでいるのは茶色の可愛らしいがとても頑丈な編み上げ革ブーツだ。夕闇とフードの影で、顔はよく見えない。
派手な色とフリルはまだ少女にもなっていない女の子にはよく似合っているが、残念なことに森とはちっとも馴染んでいない。しかし、女の子にとってはいつもの恰好だ。
その赤色…いや、女の子が、右に左に飛び跳ねるように森の木々の間を縫っていく。本人はスキップのつもりだが、飛び跳ねるたびに手に持ったカゴから少しづつ木の実やキノコが落ちていっている。本人はもちろん気付いていない。
「クマおじさん帰ってきてるかな。お土産なんだろう」
早く帰らなくっちゃ。そんなことを言いながら、女の子はどんどんと森の奥深くへと歩みを進める。
一見すると、いいところのお嬢様が山深くへと迷いこんでいるようにも見えるが、彼女は迷ってなどいない。
それでいいのだ。女の子の住む家はこの森の奥深くにある。
いくら慣れた道とはいえ、今年十一歳になったばかりの女の子の足にはこの森は広すぎる。だんだんと森の中は暗くなり、それに応じて森の木々がうっすらと青白く光り始めた。よく見ると木々だけではない。足元に咲く小さな花も、草も全てぼんやりと青白い光を放ちはじめている。
ひとつひとつはそんなに明るくはないが、森の植物全てが光っているのだからそれなりに明るい。そのぼんやりと明るい道を女の子の足は迷いなく進む。彼女にとってはすべて日常のことだ。
下から立ち上るような光にフードの中の顔がはっきりと見える。金色のおさげ髪に、可愛らしい顔立ちをしている。中でも一番目立つのは深い青色をした瞳だ。
ガサリ、と右の茂みから音がして女の子の前に一頭の銀の狼が飛び出してきて、女の子は足を止めた。
青白く輝く光を受けた銀色の毛並みは、まるでそれ自体が発光しているよう。狼は堂々とした様子で頭と尾を高く上げたまま女の子に近寄ってくる。
満月のような色の瞳を見開いてじいっと女の子を見上げた。よく見ると少し小柄で、まだ大人にはなりきっていない子どものようだ。
「こんにちは、ジーク。今日も素敵な尻尾だね」
女の子は銀狼に怯える様子は欠片ほども見せず、礼儀正しく挨拶をする。
「アンナ、こんにちはじゃない。こんばんは、だろ」
子狼は生意気な口調で訂正をする。しかし、褒められて満更ではなさそうだ。女の子は頬を膨らませた。
「どっちだっていいじゃない。ジークに会うのは今日が初めてなんだから」
「ディオヌスの森のお姫様は、挨拶もできないのかって笑われるぞ」
「私、お姫様なんかじゃないもん。クマおじさんが勝手に言ってるだけだよ」
そうだ。本当はこんなひらひらして派手な服だって着たくない。でも、森の中で遭難でもしたら大変だと養い親は派手な色をした赤色の服を選んだ。そしてお姫様なのだからとひらひらの服を探してきた。そして最後には、頭にロンのイガグリでも落ちてきたら大変だ! と、ポンチョの赤ずきんを持ってきた。
最初にこれくらいなら、と許してしまったからどんどん悪化していってしまってこの有様だ。
「オレのお嫁さんになれば、本当のお姫様だぞ」
ふふん、と偉そうに黒い鼻先を上にあげて子狼が言えば、女の子は笑う。
「別にこのままでいいんだけど。でも…あはは、ジークが王様になったらキノコを食べない法律を作っちゃいそうだね」
「そんなことはないぞ。アンナが食べたいなら…ううう、とっても嫌だけど! オレはちゃんと採ってくる!」
悩ましげな子狼に、この前の珍事件を思い出してアンナは声を出して笑う。
「ふふ、この前、ワライダケをかじった時は大変だったもんね。…あ。日が沈んじゃったみたい」
「お、本当だ」
立ち止まって話しているうちに夕日は完全に沈んでしまったらしい。とは言ってもここは深い森の中だから夕日の沈む様は見えはしない。分かったのは、森の様子が変化したからだ。
先程よりも密な青白い光が辺りを満たす。それはまるで光の中に居るよう、というよりは深い海の底に居るようだ。
そして実際に辺りを魚が泳ぎはじめる。大きな魚は悠々と。小さな魚は群れを作り回遊している。もちろん、森の中なのだから木々の間だったり、海藻のように伸びた草の根本の間をだ。
「この魚、ちゃんと食えたらいいのにな。そうしたら食べ放題なのに」
「ジークは魚キライなくせに。それに、この魚たちには触れないの知ってるでしょ」
宙を気ままに泳ぐ魚は全て半透明だ。青白い光の中をまるで生きているかのようにその辺を泳いでいるが、触れることはできない。もちろん食べることなどもっての他だ。
「早く帰らなきゃ。クマおじさんが心配する」
「もう遅いみたいだぜ」
アンナよりずっと鼻が利く子狼は後ろのほう、つまりアンナが先ほどまで帰ろうとしていた道の先を鼻先で指し示した。
「姫様ー!!」
ドスン、ドスンという地響きの音と共に四本足で駆けてきたのは黒いクマだった。首元についた赤色のスカーフが後ろにバタバタとなびいていることから、その速さが伺える。
「あ、クマおじさん。ごめんね、遅くなっちゃった」
怖がる様子もなく、女の子はしゅんと項垂れた。黒いクマは女の子の近くに居るジークを一瞥して後ろの二本足ですっくと立ち上がる。赤いスカーフの下から白い三日月模様の毛並みが覗く。
立ち上がると結構大きく感じるが2メートルは無い位だ。それでも女の子や子狼からしたらかなりの巨体なのだが、一人と一匹にはまったく怖がる様子がない。
「姫様、帰ったら居なくて心配しましたよ。…ジーク。今日もわざわざここまで散歩ですか」
「ああ。今日は月が綺麗だからな」
彼の愛する黄色い月が大きく輝きを放っている。そして、それに呼応するかのように森もいつもより輝きを増している。
「クマおじさん、木の実とキノコを採ってきたの! はい」
元気よく差し出したカゴの中身は、先ほどのとてつもなく下手くそなスキップのせいで半分ほどに減っていた。アンナは首をかしげる。おかしいな。もっとたくさんあった気がしたのに。
落ちた木の実は、心配そうにアンナを見守りつつ隠れて付いてきていた森の獣たちが、おいしく頂いていたのだが、それは彼女の預かり知らない話だ。
「姫様、こんなに採られたのですか。ロンの実など、トゲだらけで取るのが大変だったでしょうに」
「うん。でも、クマおじさんはこれが大好きでしょう」
「ベルンハルト、こんなにって全然少ないじゃん。こいつさっき落としまくってたし」
確かにカゴに残っているロンの実は少なく、ジークの言うことは最もだ。そして見ていたのなら早く教えて欲しかったとアンナは思った。
それを聞くと、今の今までにこにこと相好を崩していた黒いクマは、とんでもない! と銀色の子狼に向き直り、腰を屈める。そして右手の黒い毛に覆われてはいるが、鋭い爪の先端が覗く右手を狼の顔の前にビシッと出した。人間で言う所の人差し指を突きつける動作に似ている。しまった、と思い子狼は顔をしかめて僅かに後ずさったが、後の祭りだ。
「姫様の鋭い爪も何もない、たおやかな手でロンのイガを開けてそこの中からロンの実を取るのがいかに大変なことかっ! もしもトゲが刺さってしまえば血が出るのですよ! 姫様から血がっ…! はっ! 姫様、血は出ておられませんか? 大丈夫でしょうか」
ヒートアップした黒いクマはガバっと立ち上がってアンナの方へと向き直り、柔らかく小さな白い手を隅から隅までしっかりと確認してひっくり返して再度確認した。
「だっ、大丈夫だよ、クマおじさん。それに手じゃなくてちゃんと掴み鋏でやったから」
慌ててはいたが、彼は鋭い爪でアンナの白い手を引き裂くような愚かなことはもちろんしない。ふかふかの肉球の上に乗せられ、隅々まで検分された手のひらをひっくり返してアンナは肉球をふにゅふにゅとした。そんなに柔らかくはないけど、思いの外柔らかいこの肉球が大好きだった。
「そうですか。お怪我が無くて何よりです」
「うん。いつもやってることだもん。クマおじさんは、商談は上手くいったの?」
「はい、つつがなく。お土産もたくさん買ってまいりました。さ、早く城に戻りましょう」
そういって黒いクマこと、ベルンハルトはアンナをひょいと抱き上げて肩の上に乗せた。
「オレも行くー!」
「どうぞ。そろそろお見えになると思っておりましたから、あなたの分のお土産もあります」
「やったー! 何? 何の肉?」
「ジークの頭の中には肉のことしかないのですか…」
子狼がぴょんぴょんと身軽に飛び跳ねながら二本足でのっしのっしと歩く黒いクマの後を付いて歩く。クマの肩に乗せられたアンナはしっかりと黒いクマの頭にぎゅっと捕まり、より森の奥深くへと向かう。
その隣を触れることのできない、半透明の大きな魚がゆっくりと横切っていった。そんな一行を見ていた現実世界の動物たちも、お開きとばかりにそれぞれ動き出し始めた。
ここは、獣人族が人口のほぼを占める世界の一国。レアトリア国にある“ディオヌスの森”だ。もっとも、その正式な名で呼ぶ者はほとんど居ない。ここは国の管理する聖域であり、精霊ディオヌスの森なのだが、人々は時と共に精霊の恩恵を忘れてしまった。そしてこの不可思議な森を“姿忘れの森”と呼んで畏れている。
一話目だったので長くなりました。
次話からは半分くらいの長さでお送りしていきます。
もふもふが大好きです。マロの実はマロンですね…。
次話、お姫様の暮らす場所




