こんな平凡な幸せ
家に帰ったらリビングの机の上に婚姻届が置いてあった。
よくよく見れば既に夫側の記入は終わっていて、裏の保証人の欄も見知った名前が書かれていた。
私は一体これをどうすればいいのだろうと悩んでいたところ、寝室から彼が出てきた。
「ただいま」
「…おかえり」
そこで不自然に途切れた会話。
これは部長が愛妻弁当ひっくり返して号泣事件でもして場を和ませるべきかと悩んでいたら、唐突にボールペンを差し出された。
勿論この家には私と彼しかいないのだから彼から差し出された訳だけれど、突然文房具を貰っても反応に困る。
「……書けよ」
「え?」
「だから!…それにお前の名前書けよ」
机の上の婚姻届を指さされ、そこで初めてこれはプロポーズなのだと思い至る。
理解して、瞬間婚姻届を掴んでビリビリに破いた。
絶句する彼を尻目に、もう修復不可能ってくらい細かく割く。
唖然としていた彼の瞳が段々潤んできたからちょっとやり過ぎたかとも思うが、私の気持ちをわかってもらうためには仕方ない。
「お前…何してんだよ」
床に落ちてしまった残骸を拾い集めていると、ようやっと金縛りがとけたのか、涙目の彼が私の腕を掴んだ。
「そんなに俺と結婚したくないのかよ」
「え、したいよ。私祐ちゃんのこと大好きだもん」
この人は何を言っているのか。
5才のときに出会ってからもう20年。
ずっと隣にいるのは好きだから以外の理由なんてないのに。
「じゃあ「今のってプロポーズでしょ?」
今にも零れそうな彼の涙をそっと指で拭う。
「将来子供が出来て、プロポーズの話を聞かれた時に命令口調で婚姻届を書かされたなんて言いたくないの。
それに一生に一度のことなんだからもっと演出凝ってくれてもいいと思う。
私は感動の涙を流しながらはいって言いたい」
流石にあのやり方は自分でもどうかと思っていたらしく、私の言葉に気まずげに視線を逸らした。
そういえばお腹がすいた。
今日は久々に早く彼が帰ってくると知っていたので、コンビニにも寄らず真っ直ぐ帰ってきたのだった。
「私、ごはん食べたい」
「は!?この流れでそれ言うか!」
「だって祐ちゃんとご飯食べれると思って今日は買い食いもしてないんだよ。
もうお腹減りすぎて倒れちゃいそう」
昨日特売で買った鶏肉と、確か卵と玉ねぎもまだ残っていた。
よし、今日は親子丼にしよう。
「私ご飯作ってくるから祐ちゃんそこ片付けといてね。
それから私が感動して泣いちゃうくらいのプロポーズプランも考えといてね」
スーツの上着だけ脱いでエプロンをし、台所へ向かう。
何故か片付けを頼んだはずの彼もついてくるがそんなことより今はご飯だ。
「お前さー」
彼の声は完全に不貞腐れたそれだったが、私は今米を研ぐことに忙しいのだ。
かまってちゃんは後にしてほしい。
生返事を返すのが気に食わなかったのか、小さく舌打ちをすると背後からお腹に両手を回してきた。
動きにくいことこの上ないが、ここで無理に引き剥がすと後で面倒くさい。
しょうがないので本人の気の済むまで好きにさせてあげよう。
「俺と結婚するんだろ?」
「ちゃんとプロポーズされたらね」
また舌打ち。
小さい頃からの癖だけど、子供が真似したらいけないからそろそろ直させなきゃいけない。
「どーせ結婚すんだから、一緒じゃん」
聞き捨てならない台詞だ。
女の子の夢をどーせ一緒とは何事か。
研いだ米をお釜の中にいれて速炊きスイッチを押す。
速炊きはあんまり好きじゃないんだけど、今日はお米が炊けるのを悠長に待ってられないからしょうがないか。
未だへばりつく彼を押しやって背後の冷蔵庫から鶏肉と玉ねぎを取り出す。
本人は決して認めないけれど玉ねぎが苦手な彼の為に気持ち小さめに切ったものをフライパンの中に入れ、軽く炒める。
ほんのり透明になったところでめんつゆを入れ軽く煮立たせる。
めんつゆって万能調味料だよね。
その間に鶏肉をぶつ切りにして煮立ってきたフライパンの中に投入する。
「ね、そろそろ離してほしいんだけど」
後は卵を流し入れるだけだからさして邪魔でもないのだけれど、いい加減鬱陶しい。
「もうすぐご飯炊けるから祐ちゃんにはテーブル綺麗にしてきてほしいな。ね、お願い」
意識して極力優しい声を出せばやっとやる気になってくれたのか、台拭きを持ってリビングへ行ってくれた。
ちょうどピーという軽快な音を炊飯器がたてたので、さっくり中をかき混ぜて蒸らす。
ボウルに卵を割り入れ軽くかき混ぜると-あまり混ぜ過ぎないのが密かなこだわりだ-そっとフライパンの中に流し入れる。
5秒ほど煮立たせたら、私も祐ちゃんもトロトロ卵が好きなので、火を止めて後は余熱で温める。
食器棚からお揃いの丼を出して炊きたてご飯を盛ると、いい感じに余熱で固まった具をその上に乗せる。
贅沢をいえば最後に小口ネギか大葉をちらしたいところだけど、家庭の親子丼にそこまで求めるのも酷なのでこれで完成だ。
汁物はお湯を注ぐだけの手抜き味噌汁を用意してリビング兼ダイニングに持っていけば、テーブルをすっかり拭き終わった祐ちゃんが所在なさげにつっ立っていた。
「拭いてくれてありがとー。ついでにお箸も出してくれる?」
今度は文句も言わずキッチンに向かってくれた。
やっぱり旦那に家事を手伝わせるコツはこまめに褒めることっていうのは間違ってないみたいだ。
お箸を持ってきてくれた祐ちゃんの左手には私愛用のコップが握られていて、思わず笑みがこぼれる。
祐ちゃんは汁物があるときはお茶を飲まないのだけど、私は汁物があろうとなかろうとお茶がないとご飯が食べれない。
そうゆうことを覚えててくれて、当たり前のように持ってきてくれることにキュンとする。
「それじゃ、いただきます」
2人で向かい合わせに座って手を合わせる。
食事時はテレビを消すのが我が家のルールなので、基本食事中は無音だ。
食器のカチャカチャいう音だけが響く空間は他の誰でもない祐ちゃんとだから全く苦痛ではなくて、私は密かに気に入っている。
黙々と丼を食べ進める祐ちゃんは美味しいって顔全体で表現してくれていて、そんな顔を見ながらする食事は1人でするものより何倍も美味しい。
洗い物は彼の仕事と決まっているので、ごちそうさまをするといつものように食器をキッチンに持って行ってくれる。
その後ろからついていって、洗い物を始める彼の背中に抱きつく。
「邪魔なんだけど」
「さっきのお返しー。いいじゃんラブラブしよーよ」
大きな背中に頭をグリグリとこすりつけたら、チッて舌打ちされたけど拒否はされなかったのでそのままぎゅっと抱きしめる。
「祐ちゃん」
「何だよ」
「さっきは婚姻届破いてごめんね」
ガシャンと音がしてシンクの中をのぞき込めば、私のコップが泡まみれのまま転がっていた。
ぱっと見た限りじゃ割れてはいないようだけど、欠けていたら嫌だなぁ。
「祐ちゃん危ないよ」
「っ…お前がっ!せっかく俺が気にしないようにしてたのにっ!蒸し返すからだろ!」
地味に引きずっていたらしい祐ちゃんは泡だらけの手をさっと洗い流してから私の方に向き直る。
「俺さ……さっきの結構ショックだったんだからな」
「うん。だからごめんね」
「今更お前以外と結婚なんて考えられねぇし、お前が他の奴と結婚すんのも許せねぇし」
すっかり冷たくなった彼の手が私の頬を優しく包み込む。
「ちゃんとちさが泣くようなプラン考えるからさ、そん時はお前も照れてないではいって言えよ」
どうやらさっきの婚姻届ビリビリ事件が私の照れ隠しだと祐ちゃんにはバレていたようだ。
本音を言ってしまえばプロポーズのシュチュエーションなんてものは祐ちゃんからされるってこと以外あまり重要じゃない。
それをわざわざやり直させたのは祐ちゃんから結婚を申し込まれたという事実に舞い上がって恥ずかしくて軽くパニックになってしまっていたから。
流石に婚姻届破くのはやりすぎたけど、あの場ではそうする他に思いつかなかったんだ。
「……善処致しまする」
わざと茶化した言い方をしたのに、しょうがないななんて顔で笑って許された。
え、こんなときこそ舌打ちしてよ。
そんなお前が恥ずかしがってんのは全部お見通し、みたいな態度とらないでよ。
「くそぅ。祐ちゃんなんか普段はそこそこヘタレのくせに」
真っ赤になっているであろう顔を隠す為に彼の胸板に顔を押し付けて思いっきり抱きしめた。
「知佐子」
「……何」
「お前のそうゆうとこ、すげー好き」
「………」
あぁ、駄目だ。
今の祐ちゃんは稀に現れる押せ押せ祐ちゃんだ。
普段は照れちゃって甘い言葉1つ言ってくれないってのに、スイッチ入ると急に言ってくるから困る。
ここで少しでも反抗しようもんなら100倍の甘い言葉で返ってきてあっという間に私の羞恥メーターが振り切れるから、大人しく言われるがままだ。
まぁでもこんな日常がこれからも続いていくのってとっても幸せだよねぇ。