第一話 召喚の間
「9900、9901、9902……」
朝霧に煙る、竜の山の山頂。朝日に輝く峻嶮な紅い岩肌の上で、一人の少年が腕立て伏せに励んでいた。その背中には大人が丸くなったほどの大きさの岩が乗せられ、額からは汗が滴り落ちている。いまだ幼さが残る顔は鼻先まで真っ赤に燃えていた。
少年のすぐそばにある粗末な山小屋。その小さな扉がギィと軋み、中から一人の女が出てきた。年のころは20代前半ほどに見えて、細身でかなり上背がある。それでいて出るべきところはこれでもかと言わんばかりに出ていて、雰囲気こそ鋭いがかなりの美女だ。
「リク、1万回できたか」
「い、いえ……あともう少しです……」
「さっさと済ませろ。これから朝の修行があるんだからな」
「は、はい!」
女は素直な返事に満足げな顔をすると、目の前に広がる大山脈へと視線を投げかけた。荒涼とした山並みは朝焼けに燃えていて、ところどころから力強い噴煙が上がっている。竜の山――「内」世界最大の活火山帯にふさわしい、勇壮な景色だ。
女はどこからか盃と徳利を取り出すと、岩に腰かけ、クッと一杯飲みほした。そして堅く眼を閉じると、集中力を高める。柔和だった顔つきが急に険しくなり、雰囲気が刃のごとく鋭さを増した。少年はそのただならぬ気配を察したのか、うつむけていた顔を上げる。
「酒天導師さま、どうかなされましたか?」
「魔が乱れている。あの方向は連合正府本部があるところだな」
「正府のやつら、またろくでもない魔術でも使ったんでしょうか」
「わからん、だが気になるな。リク、山を下りるぞ」
「はい、酒天導師さま」
リクは身体を起こすと、背負っていた大岩を下ろした。そうして身軽になった彼と酒天導師は、山の岩場を飛び跳ねるようにスイスイ下りる。段差を軽々と飛び越えていくその様は、およそ人間離れしたものだった。
気がつくと、目の前に白い石畳が広がっていた。磨き抜かれた大理石のようなそれは、陽の光を反射して艶やかに輝いている。その上にたたずむ一人の少女。豊かな金髪に鳶色の瞳が特徴の、アンティークドールのような美少女だ。白いトーガを纏った彼女はスルスルと衣擦れの音を立てながら、俺たちの方へとやってくる。
「えっと、あなた方が勇者様でしょうか?」
「勇者? なんじゃそりゃ」
ふざけているんだろうか。だが、少女の顔はやけに真剣でそうは思えない。俺は隣で瞼をこすっている琴乃の肩をたたくと、その顔をこちらへと寄せる。自分が元凶の癖に眠たそうにしてるとは、全くいい度胸だ。……後でぶっ飛ばすこと決定。
「おい、琴乃しっかりしろ。今の話聞いたか?」
「勇者様、とか聞こえたな。とても本気で言ってるようには思えんが……」
俺と琴乃は疑わしげな眼で少女の方を見た。すると彼女は眼を閉じて、掌を前に突き出す。すると、魔法陣のような物が現れ、その中心から光の球が現れた。
「うおッ! トリック!」
「よ、妖術か!」
「トリックでも妖術でもありません! これはれっきとした魔術です!」
少女は僅かに頬を膨らませながら、怒ったようにそう言った。俺と琴乃は互いに顔を見合わせると、一瞬、呆けたような表情になる。魔術――現代社会で大真面目にそんなことを言うのは、ちょっと頭の変な人かユーモアのある奴だけだ。
しかし、この少女は酷くまじめなようだった。かといって、頭がおかしくなっているというわけでもないらしい。困惑する俺たちに、彼女はゆっくりと大きな声で告げる。
「いきなりのことで混乱なさっていると思います。ですが、落ちついて聞いてください。この世界はアルテーシア、あなた方の世界とは異なる世界です。そして、あなた方は勇者としてここに召喚されました」
……ああ、理解できた。良くあるあれだ、勇者様お助けくださいという奴だろう。ゲームとかをほとんどやらない琴乃も何となく理解できたのか、納得したような顔をしている。そうして俺たち二人がうなずくと、少女は優雅に礼をした。
「理解していただけたようで幸いです。申し遅れましたが、私の名はシータ・ドレスデン。勇者様のこと全般を取り仕切る巫女です」
「俺は葉月綾人」
「私は風華琴乃」
「綾人様と琴乃様ですね? 承知しました、では話を続けさせていただきます――」
シータの話はかなり長かったが、要はよくあるテンプレだった。
なんでも汚染された魔力が原因で魔族と呼ばれる邪悪な存在が生まれ、かれこれ数百年にもわたり大暴れしているらしい。すでに世界の七割は魔族の支配下におかれ、闇に閉ざされている。シータたち人間は残された大地に強力な結界を張り、正府を頂点にその内側で300年に渡り暮らしてきたそうだ。
しかし、最近になって結界の内側でも魔力の汚染が発生。焦った正府は魔法禁止令を発して魔力の汚染を防ごうとしたが、それが逆に正府への不満を招いた。反正府で結束した魔導師たちは各地でギルドと呼ばれる組織を結成。収拾がつかなくなってしまう。
問題の根本的な解決策として、正府はついに魔王討伐を決定。その切り札として召喚された勇者が今ここにいる俺たち、というわけだ。
俺はシータの話を脳内で反芻すると、どうにか飲み込んだ。そして、長話を終えて一息ついている彼女に声をかける。
「……だいたいわかった。いくつか質問しても良いか?」
「ええ、どうぞ」
「勇者召喚って前にもされたことあるのか?」
「はい、結界が作成される直前に一度だけ。彼が魔王を一時的にとはいえ行動不能にしたため結界を造ることができたんです」
「なるほど。彼、ということはその時勇者は一人だった?」
「そうです、勇者様は一人と文献に残されております」
俺は隣にいる琴乃を一瞥した。間違いない、今回召喚される予定だったのは琴乃一人だったはずだ。それをこいつが俺の服を掴んだせいで俺まで――。
額に皺をよせて渋い顔をすると、琴乃は哀しげに顔を下に向けた。演技だ、間違いなく演技だ――そうは思っても、その悲痛な様子に俺は何も言えなくなってしまう。まったく、美人は得だ! なんとなくくやしい気分になった俺は、シータの方を向きなおした。
「二つ目。勇者が帰る方法は存在するのか?」
「ええ、ありますよ」
予想外にはっきりとした返事だった。俺は思わずオウムよろしく聞き返してしまう。
「ほんとに?」
「魔王が人間より奪った書物の中に、賢者の書と呼ばれるものがあります。それに記されている界渡りの術を使えば、間違いなく」
「おお、これはいいことを聞いたな」
「ふ、わずかだが希望が出てきたようだ」
俺と琴乃の顔に喜色が浮かんだ。シータはそれを見ると、後ろに一歩下がりパンっと手をたたく。すると彼女の奥にある扉が開かれ、向こう側から黒いエプロンドレスを着た少女たちが出てきた。
「お疲れでしょうし、今日はキリがいいのでもうこれぐらいにしましょう。部屋を用意させておりますので、このメイドたちについて行ってください」
俺たち二人はそれぞれ違うメイドに連れられて部屋を出た。そして、言いしれぬ不安と違う世界へ来たというある種の高揚感を感じつつ、それぞれの部屋へと向かった――。
酒天導師の名前の由来は二つあるのですが、二つとも気付く人いますかね……?