忘れ物の傘
駅の忘れ物取扱所には、十年前から一本の傘が残っている。
藍色の、骨が少し曲がった男物の傘だ。保管期間はとうに過ぎている。規則どおりなら、とっくに処分されているはずだった。それでも誰も捨てようとしないのは、取扱所の主である老人、野村さんがそれを許さなかったからだ。
「あれはね、持ち主が取りに来るんだよ」
新しく入ったアルバイトの美咲は、初日にそう言われた。冗談かと思って笑ったら、野村さんは笑わなかった。ただ、カウンターの端に立てかけられた傘を、遠い人を見るような目で眺めていた。
十一月の終わり、雨の夜だった。
終電の一本前が出たあと、構内はがらんとして、蛍光灯の音だけがやけに大きく聞こえた。美咲が帳簿を閉じようとしたとき、取扱所の窓口に影が差した。
スーツ姿の男が立っていた。四十代くらいだろうか。濡れた髪から水が落ちているのに、本人はそれに気づいていないようだった。
「あの……藍色の傘、ありませんか。柄に、小さく名前が彫ってあるんですが」
美咲は息をのんだ。振り返ると、傘はいつもの場所にある。取り上げて柄を見ると、確かに細い文字で「佐伯」と彫られていた。
「こちら、ですか」
男は両手で受け取って、しばらく黙っていた。それから、ひどく不思議そうに言った。
「十年前、ここで人を待っていたんです。雨が降っていて、彼女が傘を持っていなかったから、貸すつもりで。でも約束の時間になっても来なくて、僕は腹を立てて、傘を置いたまま帰ってしまった」
「……それで、ずっと?」
「次の日に謝ろうと思ったんです。でも、気まずくて連絡できなかった。そのうち、何年も経ってしまって」
男は照れたように笑った。その笑い方が、美咲にはなぜか、とても悲しく見えた。
奥から野村さんが出てきた。老人は男の顔を見ても、少しも驚かなかった。ただ静かに、こう言った。
「お待ちしておりました、佐伯さん。彼女さんは、あの日ちゃんと来ましたよ」
男の顔から笑みが消えた。
「約束の時間に、少し遅れて。あなたがもう帰ったあとでした。彼女さんはしばらくここに立って、傘が置いてあるのを見つけて、それから言ったんです。『ちゃんと待っててくれたんだ』って」
野村さんは、カウンターの引き出しから、折りたたまれた小さなメモを取り出した。
「彼女さんが置いていきました。あなたが取りに来たら渡してほしい、と。……十年かかりましたが」
男はメモを開いた。何が書いてあったのか、美咲には見えなかった。ただ、男の肩が小さく震え、濡れた髪の先から、また水がひとつ落ちた。
男が帰ったあと、雨は上がっていた。
「あのメモ、何て書いてあったんでしょうね」
美咲が言うと、野村さんは窓の外の濡れた線路を見ながら、ゆっくり首を振った。
「さあね。私も読んでない」
「十年も、読まずに預かってたんですか」
「預かりものは、読まないものだよ」
野村さんは少しだけ笑って、空になったカウンターの端を、布巾でそっと拭いた。
翌朝、美咲が出勤すると、そこにはもう傘の跡も残っていなかった。かわりに、窓際の机の上に、小さな缶コーヒーがひとつ置かれていた。ラベルの上に、不器用な字で一言だけ書かれたメモが貼ってある。
「ありがとう」
誰からなのかは、聞かなくてもわかった。美咲はそれを、野村さんには黙って、自分の鞄にしまった。
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