婚約破棄された翌朝、元婚約者の父から「復縁しないでくれ」と頼まれました
「どうか、息子とは復縁しないでいただきたい」
婚約破棄された翌朝。
私の屋敷を訪れたグランヴィル公爵閣下は、父と私の前で深々と頭を下げ、そうおっしゃった。
「……はい?」
思わず、貴族令嬢らしからぬ声が出てしまった。
隣に座る父も、驚きを隠せない様子だった。
無理もないと思う。
昨日、私は公爵家の嫡男から婚約を破棄されたばかりなのだ。
そして今日、その父親が訪ねてきた。
当然、謝罪か、あるいは婚約破棄の撤回を求められるものだと思っていた。
ところが。
「息子が何を言おうと、復縁だけは断っていただきたい」
「……閣下。まずは事情をお聞かせ願えますかな」
父が静かに口を開いた。
「娘との婚約を破棄したのは、ご子息のほうです。こちらから復縁を願い出るつもりはございません」
「承知している」
「では、なぜそのようなお話を?」
「それを説明するために参った」
公爵閣下は、ようやく顔を上げた。
「まずは、息子の非礼を詫びよう。ベルフォード伯爵、そしてイザベル嬢。誠に申し訳なかった」
公爵閣下は、再び深々と頭を下げた。
私は父と顔を見合わせた。
……いったい、何が起きているのだろう。
◇
私、イザベル・ベルフォード伯爵令嬢は、十八歳。
昨日まで、グランヴィル公爵家の嫡男、レオン様の婚約者だった。
婚約したのは五年前。
将来の公爵夫人として領地経営や商業を学び、今では公爵閣下の許可をいただいて、一部の事業にも携わっていた。
けれど、肝心の婚約者は、私の仕事にまるで関心がなかった。
「そんな細かい仕事は、使用人に任せればいいだろう」
報告書を渡しても読んでくださらず、会議より狩猟や友人との約束を優先なさる。
それでも私は、いつか変わってくださると思っていた。
少なくとも、昨日までは。
◇
「イザベル。お前との婚約を破棄する」
昨日の夜会で、レオン様は堂々と宣言した。
隣には、可愛らしい令嬢が寄り添っていた。
「俺は真実の愛を見つけた。彼女と結婚する」
「そうですか」
「……それだけか?」
「婚約破棄の理由は理解いたしました。正式なお手続きについては、両家の当主にお任せいたします」
私が答えると、レオン様は不機嫌そうに眉を寄せた。
「お前はいつもそうだ。何でも書類、何でも手続き。俺の気持ちなど考えたこともない!」
「申し訳ございません」
「謝ればいいと思っているのか!」
何を答えても、お気に召さないらしい。
私は少し考えてから、頭を下げた。
「それでは、これまでありがとうございました」
そして、そのまま会場を後にした。
正直に言えば、悲しくなかったわけではない。
五年間、婚約者として努力してきたのだから。
ただ、涙が出るほど愛していたかと問われれば、答えに困る。
私たちは、将来の公爵夫妻になるために婚約した。
けれど、レオン様が私と一緒に何かを成し遂げようとしてくださった記憶は、ほとんどなかった。
そのことが、少し寂しかった。
◇
「私は、あなたの才覚に頼りすぎていた」
公爵閣下は、私をまっすぐに見た。
「イザベル嬢。あなたには、息子を支える役割を期待していた。ベルフォード伯爵にも、その条件で婚約を承諾していただいた」
「ええ。承知しております」
父が頷いた。
「レオン殿は領地経営が不得手。しかし、娘が実務を補佐すれば、公爵家を十分に支えられる。そういうお話でしたな」
「そのとおりだ」
公爵閣下は、苦い表情を浮かべた。
「だが、私は重大なことを見落としていた」
「何でしょうか」
「息子には、補佐を受け入れる器量すらなかったのだ」
私は思わず顔を上げた。
「……どういうことでしょうか」
「あなたがどれほど優れた提案をしても、息子が聞き入れなければ意味がない。私が当主であるうちは、命令して従わせることもできる。だが、息子が公爵位を継いだ後は?」
父の表情が険しくなった。
「……娘の進言を、レオン殿が退ける可能性があると」
「可能性ではない。昨日、息子は自分を支えるはずの婚約者を、独断で切り捨てた」
公爵閣下は静かに首を振った。
「私は、息子に才覚がないことは知っていた。だが、自分の不足を理解し、それを補う者を尊重するくらいの分別はあると思っていた」
「……」
「それすらなかった。あの婚約破棄が、その証拠だ」
父は、しばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐いた。
「なるほど。確かに、それでは婚約の前提が崩れますな」
「そうだ。だから、息子が婚約破棄を撤回したとしても、私は認めぬ」
公爵閣下は、私を見た。
「イザベル嬢。あなたに、息子のために人生を犠牲にしてもらうわけにはいかぬ」
私は、静かに頷いた。
「……ありがとうございます、閣下」
「礼を言われることではない。私は、公爵家の当主として当然の判断をしたまでだ」
公爵閣下は、父へ向き直った。
「それに伴い、レオンを後継者から外すことにした」
「……廃嫡なさるのですか」
「ああ。次男に家督を継がせる」
父は静かに頷いた。
「公爵家のご判断に、私から申し上げることはございません」
「承知している。だが、婚約破棄の責任を息子だけに負わせるつもりもない。ベルフォード家には、正式に賠償を行う」
「その件は、改めて書面で協議いたしましょう」
「無論だ」
公爵閣下は頷くと、一通の書類を取り出した。
「そして、ベルフォード伯爵。もう一つ、相談がある」
「何でしょうか」
「イザベル嬢が担当していた商業事業についてだ」
私は思わず背筋を伸ばした。
公爵家との婚約が解消されれば、当然、これまでの仕事からも離れることになる。
その引き継ぎについてだろうか。
「公爵家の事業として継続することはできる。だが、彼女が築いた商人たちとの関係や、進めていた計画を、そのまま手放すのは惜しい」
「……と、おっしゃいますと?」
「ベルフォード伯爵家との共同事業にできないだろうか」
父が目を細めた。
「共同事業、ですか」
「そうだ。公爵家は土地と資金を提供する。ベルフォード家には運営を担ってもらいたい。利益は双方の出資と役割に応じて配分する」
公爵閣下は、私を見た。
「もちろん、イザベル嬢が引き続き携わることを望むなら、という話だ」
父も私に視線を向けた。
「イザベル。お前はどう思う?」
私は、少しだけ考えた。
婚約者としてではなく、伯爵家の事業として公爵家と仕事をする。
それなら、私がこれまで学んできたことも、積み重ねてきた経験も、無駄にはならない。
何より、まだ実現できていない計画がいくつもある。
「ぜひ、やらせていただきたいです」
父が微笑んだ。
「そう言うと思ったよ」
公爵閣下も、わずかに表情を和らげた。
「では、具体的な条件を詰めるとしよう」
そこからは、父と公爵閣下を中心に、共同事業の話し合いが始まった。
出資額、利益配分、事業の責任範囲。
私は実務を担当する立場から、必要な人員や今後の計画について意見を述べた。
公爵閣下は一つひとつ耳を傾け、父も必要な条件を確認していく。
婚約者として公爵家に通っていた頃とは、少し違う。
今度は、私たちの伯爵家が、公爵家と対等な立場で仕事をするのだ。
「イザベル嬢」
話し合いの終わりに、公爵閣下が私を呼んだ。
「これまでは、あなたの力を借りるばかりだった。だが、これからは違う」
公爵閣下は、父と私を順に見た。
「これからは、あなた方と共に歩んでいきたい」
私は笑顔で頷いた。
「はい。今度は、ベルフォード家の一員として、精一杯務めさせていただきます」
◇
それから二か月後。
公爵家との共同事業は、順調に進んでいた。
以前から準備していた商人との契約もまとまり、最初の収益報告は予想を上回る結果となった。
「イザベル。グランヴィル公爵から、事業拡大の提案が届いているぞ」
父が書類を差し出した。
「まあ。もう次の段階へ進めるのですね」
「うむ。お前の計画を高く評価してくださっているようだ」
私は嬉しくなった。
婚約者だった頃と、仕事内容が大きく変わったわけではない。
けれど、今はベルフォード伯爵家の事業として、自分の責任で仕事を進めている。
提案が採用されれば嬉しいし、問題が起これば解決策を考える。
忙しい毎日だったけれど、とても充実していた。
「それでは、お父様。次の契約についてですが――」
そのときだった。
執務室の扉が、慌ただしく叩かれた。
「旦那様! 王都から緊急の知らせです!」
父が眉をひそめた。
「入れ。何事だ」
執事が駆け込んできた。
「グランヴィル公爵家の元嫡男、レオン様が……反乱を起こしたとのことです!」
「……反乱?」
私は思わず聞き返した。
父も、しばらく言葉を失っていた。
「待て。レオン殿が反乱だと? 何に対する反乱だ」
「王家にございます!」
「……王家?」
父が、ゆっくりと私を見た。
私も父を見返した。
二人とも、同じことを考えていたと思う。
婚約を破棄して、公爵家の後継者から外された。
そこまでは分かる。
けれど。
「……どうして、そこから王家への反乱になるのでしょう?」
私の問いに、答えられる者は誰もいなかった。
◇
事情が分かったのは、その日の夕方だった。
廃嫡されたレオン様に、王国の現体制に不満を持つ貴族たちが近づいたらしい。
グランヴィル公爵家には、数代前に王家から嫁いだ姫君がいる。つまり、レオン様にもわずかながら王家の血が流れている。
反乱を企てる貴族たちは、そこに目をつけた。
彼らが欲しかったのは、王家の血を引き、自分たちの言いなりになる旗印だった。
「あなたこそ、この国を導くべきお方です」
そんな言葉を真に受けたレオン様は、自分こそ王位にふさわしいと思い込み、反乱軍の先頭に立ってしまったのだ。
「……公爵家を継げなくなったから、王位を狙ったのですか?」
「そういうことになるな」
父は額に手を当てた。
私も、それ以上は何も言えなかった。
◇
反乱は、わずか十日で鎮圧された。
グランヴィル公爵閣下は、息子の反乱を知ると直ちに王家へ報告し、鎮圧に全面協力した。
王国軍は反乱軍の進路と補給路を封鎖。公爵家も領内の兵を動かし、反乱勢力への協力を一切拒んだ。
反乱軍は王都へ到達することすらできず、レオン様は捕らえられた。
王家に対する反逆。
その罪は、あまりにも重かった。
◇
レオン様の処刑が決まった。
王家は、グランヴィル公爵閣下とベルフォード伯爵家に、処刑への参列を命じた。
反乱首謀者の父親と、その元婚約者。
両家が反乱と無関係であり、王家への忠誠を保っていることを、貴族社会に示すためだった。
処刑当日。
私と父は、公爵閣下とともに、処刑場の最前列に立っていた。
周囲には王国の貴族たちが並び、その向こうには大勢の民衆が集まっていた。
やがて、両手を拘束されたレオン様が、兵士に連れられて処刑台へ上がった。
かつての華やかな衣装はなく、粗末な囚人服を着せられている。
それでも、レオン様は堂々と顔を上げていた。
そして、私たちを見つけた瞬間。
「父上!」
大きな声が響いた。
「父上! なぜ助けてくださらないのです! 俺はあなたの息子でしょう!」
公爵閣下は、静かに答えた。
「そうだ。お前は私の息子だ」
「だったら! 今すぐ陛下に処刑を取り消すよう申し上げてください!」
「それはできぬ」
「なぜです! 俺はグランヴィル公爵家の正当な後継者なのですよ!」
「お前は、すでに後継者ではない」
「そんなもの、父上が勝手に決めただけでしょう!」
周囲の貴族たちから、低いざわめきが起こった。
レオン様は、それにも気づかず叫び続けた。
「俺には王家の血が流れている! 王になる資格があるんだ! それなのに、なぜ俺が処刑されなければならない!」
私は思わず、公爵閣下を見た。
閣下は、まっすぐ息子を見つめていた。
「レオン。お前は最後まで、自分の行いを省みなかったのだな」
「俺が何をしたと言うのです!」
「王家に刃を向けた」
「俺は王になるべき人間だ! 俺が王位に就けば、何も問題はなかった!」
その言葉に、周囲のざわめきが大きくなった。
王家に反逆した罪で処刑されるというのに、レオン様は今なお、自分が王になるべきだったと主張している。
公爵閣下は、ゆっくりと首を振った。
「私はお前の父だ。だからこそ、今日ここに立っている」
その声は、静かだった。
「お前が王国に向けた刃の責任から、グランヴィル公爵家は逃げぬ」
「父上……!」
レオン様の顔が歪んだ。
そして、今度は私を見た。
「イザベル!」
私は、まっすぐに見返した。
「お前が悪いんだ! お前がもっと俺を理解していれば、こんなことにはならなかった!」
「……レオン様」
「お前が俺を支えなかったから、父上は俺を後継者から外したんだ! お前がちゃんとしていれば!」
私は、静かに答えた。
「婚約を破棄したのは、あなたです」
「だから、もっと俺を理解していればよかったんだ!」
「そして、反乱を起こしたのも、あなたです」
レオン様は口を開いた。
けれど、言葉が出なかった。
「あなたが選んだ道です。その責任を、私に押しつけないでください」
「……っ!」
レオン様は、しばらく私を睨みつけていた。
やがて、再び叫び始めた。
「俺は悪くない! 俺を王にすると言ったのは、あいつらだ! 俺は騙されたんだ!」
けれど、誰も答えなかった。
やがて、王国の役人が判決を読み上げた。
王家に対する反逆。
王都への進軍を企て、王国の秩序を乱した罪。
そして、死刑。
レオン様は最後まで、自分の無実を叫び続けた。
私は、隣に立つ父が、そっと私の肩に手を置くのを感じた。
公爵閣下は、最後まで目を逸らさなかった。
そして、刑は執行された。
◇
処刑場を後にしたとき、公爵閣下が静かに口を開いた。
「……息子には、別の道を歩んでほしかった」
父は、何も言わずに頷いた。
「公爵にはなれずとも、自分の力で生きていく道は残していたのだがな」
閣下は一度だけ目を閉じ、それから私たちに向き直った。
「ベルフォード伯爵。イザベル嬢。これからも、よろしく頼む」
「こちらこそ、閣下」
父が答え、私も深く頭を下げた。
◇
半年後。
公爵家と伯爵家の共同事業は、大きな成功を収めていた。
新たに後継者となった公爵家の次男も、積極的に事業へ参加している。
今日も私は、父とともに公爵家を訪れていた。
「イザベル嬢。次の計画について、意見を聞かせてほしい」
公爵閣下が、新しい事業計画書を差し出した。
私は笑顔で受け取った。
「はい。喜んで」
五年前、私は公爵家を支えるために勉強を始めた。
そして今、私は伯爵家の一員として、公爵家と共に未来を築いている。
誰かの不足を埋めるためではなく、互いの力を生かすために。
私たちの新しい一歩は、確かな成果へと変わり始めていた。




