悪役令嬢は白馬の王子様の夢を見ない
「アルテナ様。お伝えしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「エデュアルトと呼んでくれて構わないよ。何だろう?」
婚約者となった公爵家の令息エデュアルト・アルテナとの初対面の日。
今日という日のために、アンシェラ・レイケンは、どう振る舞うべきなのかを色々と考えていた。貴族令嬢らしく黙ってほほえむべきか。婚約者なのだから、好意を示すべきか。それとも、父親同士が決めた政略的な婚約なのだから、余計な感情など見せずにいるべきか。
考えた末に、アンシェラは正直であろうと決めた。
「ありがとうございます、エデュアルト様」
アンシェラは一度だけ息を吸った。
「私には、他に好きな男性がいます」
「――は?」
薔薇が見頃を迎えたアルテナ公爵家の庭園。エデュアルトが案内をしてくれるというので、アンシェラは彼と一緒に歩いた。従者たちは少し離れた場所で待機している。つまり、今は実質二人きりだ。
エデュアルトはその美しいアイスブルーの瞳を小さく見開いていた。次の瞬間、穏やかに笑みを浮かべていた頬が、ほんの少しだけ強張った。頬から笑みが消えたわけではない。けれど、そこに鋭いものが混じったのが分かった。
どうやら、アンシェラは失敗してしまったらしい。色々と考えた末の発言だったのに、それがかえって裏目に出てしまった。
「……どういうことかな」
表面上は、エデュアルトは笑みを保っている。でも先ほどまでと違って、目が笑っていない。王立学院でも屈指の人気を誇る貴公子(と、専属護衛であるリーンから聞いた)は、こんな風に怒るのかと、アンシェラはどこか他人事のように彼を観察していた。
エデュアルトの陽光のような金色の髪はサラサラで、顔立ちは端正だ。あまりに綺麗な人が感情を殺すと、ここまで威圧感が生まれるのだとアンシェラは初めて知った。
今更、嘘をつくこともできない。聞いてくれるつもりがあることに感謝しなくては。アンシェラは迷いを捨てて言葉を続けた。
「この婚約は、アルテナ公爵家とレイケン伯爵家、双方の利害が一致した取引ですよね」
「……レイケン伯爵からの融資を、父が必要としているのは事実だね」
アルテナ公爵家は、長い歴史を持つ王党派の名家だ。だがアルテナ公爵家が現在、決して安泰ではないこともアンシェラは知っている。先代公爵が手掛けた鉱山開発が大きな損失を出した。名門であるがゆえに家格を落とすこともできず、表向きは華やかであっても、財政は決して余裕があるとは言えない。そこでアンシェラの父へ融資を願い出た。
「私の父は、歴史あるアルテナ公爵家と親族になるという名誉を手に入れたがっています」
「貴族同士の婚約としては、珍しい話ではないよね」
「はい。ですので私は、エデュアルト様の妻として必要な社会的役割を果たすように努めます。エデュアルト様には、それ以上を望みません。私のことは、愛していただかなくても大丈夫です」
その瞬間、エデュアルトの口元から笑みが完全に消えた。わずかに眉根を寄せたその表情は、怒りというよりも、困惑とショックの色を帯びているように見えた。そんな表情をされるとは思っていなかったアンシェラは、ほんの少しだけ動揺した。
「きみに、好きな男がいるから?」
「それもあります。ですがそうでなくても、エデュアルト様の愛を求めたりしません」
「僕の気持ちは?」
「……その方が、エデュアルト様にとっても重荷にならなくて済むと考えました」
「どうしてそうなるんだい?」
「愛されるとも思っていなかったので。私は、レイケン伯爵の娘ですから」
「…………」
父は、この国で忌み嫌われている。レイケン伯爵家は代々続く、王国でも屈指の金融家だ。しかし近年、父が手を広げている事業の中には、依存性の高い魔法薬の販売も含まれている。法の網の目を潜り抜け、規制がかかれば新しい薬を生み出す。父は、そうやって更に大きな財を築いた。人々は侮蔑と恐怖を込めて父を「悪魔伯爵」と呼ぶ。
そしてアンシェラ自身も、その事業に深く関わっている。アンシェラには、生まれつき特殊な魔法適性があった。あらゆる物質の成分を解明し、抽出し、精製する能力。父はアンシェラの力を存分に利用し、いま流通している魔法薬の多くにアンシェラは関わっている。拒絶する術などなかった。だとしてもアンシェラにはもう、誰かに愛される資格などないだろう。
「きみのお父上の事業については、噂を耳にしているよ」
何故かエデュアルトの方が、申し訳なさそうな、痛ましいものを見るような目をしている。どうしてそんな顔をするのだろう。
「それでも僕たちは、これから一緒に過ごすんだ。婚約期間は、きみが学院を卒業するまで。その後、正式に結婚することになる」
アンシェラは十七歳。エデュアルトは十八歳。彼は一年先に学院を卒業する。婚約者として学院で一緒に過ごせる時間は、それほど長くない。
「だから、少しずつお互いを知っていくのでは駄目かな?」
「……構いません。エデュアルト様がそれでよろしいのなら」
「よかった」
その言葉とともに、エデュアルトの表情が柔らかくなる。
「でも、無理はなさらないでください」
「無理は――そうだね。僕だって、きみには無理をしてほしくない。でも、きみの好きな男については、知っておきたいかな。誰だい? 護衛の彼?」
エデュアルトの視線が、少し離れたところで待機しているリーンへ向けられた。リーンはアンシェラとは同じ年で、学院にも通っている。護衛という立場上、いつもアンシェラの近くにいる。でも、そんなことは考えたことがなかったので、アンシェラは驚いた。
「違います。リーンは護衛で、友人でもありますが、それだけです。彼の方にもそんな気持ちは微塵もないでしょう」
「では、誰?」
「…………」
正直に言おうと決めたのは自分だ。それなのに、いざ口にするとなると少し恥ずかしい。アンシェラは視線を落とし、ためらいながら答えた。
「学院の図書室でお世話になっている、図書係の方です」
「……図書係?」
「お名前はレクス様です。学年は一学年上だと――エデュアルト様と同じ学年ですね。ご存知ですか?」
視線を上げると、エデュアルトが困惑している様子を見せた。アンシェラははっとする。質問されたからと言って、エデュアルトに彼のことを聞くなど、あまりに失礼だった。
「すみません」
「いや――レクスというのは、あの黒髪の? 髪は整えずにボサボサで、大きな眼鏡をかけた?」
「ご存知だったのですね」
「……そうだね、同じ学年だから」
レクスは、アンシェラにとって大切な人だ。図書室へ行けば、いつも穏やかに迎えてくれた。本を探しているときには手伝ってくれる。長時間過ごしていても嫌な顔ひとつせず、目が合えばにこりと優しく笑ってくれる。レクスは、アンシェラを一人の学院生として扱ってくれた。それが嬉しかった。そんな風に扱われることは、今までなかった。学院ではいつも「悪魔伯爵」の娘である「悪役令嬢」だと、囁かれていたから。
「レクス様は図書係として親切にしてくれているだけですし、私も気持ちを打ち明けるつもりはありません。もしご不快でしたら、図書室へはもう行きません。もうすぐ、レクス様も卒業ですし、もう会うことはないでしょうから……」
想像して、つらくなった。アンシェラは今度こそ完全にうつむいた。
そんな様子を、哀れに思ってくれたのだろうか。エデュアルトは戸惑いながらも優しい声色で言ってくれた。
「きみの行動を制限するようなことはしないよ」
アンシェラは再び顔を上げる。
「今まで通り、図書室へ行ってもいいのですか?」
「学院の生徒に、図書室へ行くなとは言えないからね」
アンシェラは内心で驚いていた。何て心の広い人なんだろう。なるほど、屈指の人気を誇るというのにも納得だ。
「ありがとうございます。立場は、きちんと弁えます。不適切なことは決してしません。エデュアルト様も、どうぞお好きな女性がいらっしゃるのであれば、おっしゃってください。エデュアルト様の邪魔になるようなことはしません」
アンシェラの言葉に、エデュアルトはなんとも言えない微妙な引きつった笑みを返すだけだった。
婚約者との顔合わせはそれで終わった。ひとまず無事に終わったことに、アンシェラはほっとしていた。
◆――◇――◆
王子ディートヘルムに呼び出された時、エデュアルトは不機嫌さを隠そうともしなかった。
「お前くらいだ。この俺にそんな顔をするのは」
「呼び出しの用件は何ですか。僕は忙しいのですが」
「アンシェラ嬢との対面は上手くいったのか? 婚約してもう一週間になるが、報告が何もないのはどういうことだ」
その質問に、エデュアルトは眉間の皺を深めた。ディートヘルムの前のソファに腰を下ろし、足を組む。ディートヘルムとは双子のように育ってきた。公式の場でないのなら、エデュアルトも遠慮はしない。
「するつもりでした」
「そうは思えないな」
「上手くいったといえばいったでしょう。妻として必要な社会的役割を果たすと言われたので」
「ずいぶんと割り切っているな」
「学院では毎日会っていますし、レイケン伯爵家にも何度か訪問しました」
「それで、どこまで調べた?」
「アンシェラ嬢は被害者です。父親に支配され、伯爵家の地下で魔法薬を開発している。依存を断ち切る魔法薬を、父親に隠れて市井の医院に届けているところまで確認済みです」
レイケン伯爵の依存性の強い魔法薬事業に関して、王家はずっと注視していた。だが法律はいつも後手に回り、まるでイタチごっこだった。そこで王家は考えた。このところ鉱山開発の状況が芳しくないアルテナ公爵家に、レイケン伯爵に融資を依頼させる。そうして縁を結び、レイケン伯爵を探るのがアルテナ公爵家に与えられた役割だった。次男であるエデュアルトは、その駒として最適だ。
だからエデュアルトはアンシェラに接近した。必要であればレイケン伯爵とともに追い詰めるつもりもあった。そうなれば婚約破棄にはなるだろうが、それくらいではエデュアルトに傷はつかない。話を持ち掛けてきた王家からは、働きへの褒賞として、アルテナ公爵家への資金援助が約束されている。
「順調じゃないか。何故そんなに不機嫌なんだ」
「…………」
エデュアルトは苛立った様子でため息をついた。
「……好きな男がいると宣言されました」
「へえ。お前にそんなことを言う女性がいるとは」
ディートヘルムはおもちゃを見つけた子どものように目を輝かせて、前のめりになった。
「なあ、まさか惚れたのか? 調査対象者だぞ」
「うるさい」
明らかに面白がっているディートヘルムにブリザードのような眼差しを送ってから、エデュアルトは顔を逸らした。
「何て態度だ。お前、外ではよく優等生の仮面を被り続けているな。この二重人格」
「殿下に内偵を頼まれることが多いので、必然的にそうなっただけですが」
「お前だって面白がっていたじゃないか」
エデュアルトは自分を偽るのが得意だった。正直、真面目に毎日を過ごすことは退屈で、王家あるいはディートヘルムの内偵として動くのは楽しくもあった。今回だってそうだ。いつもどおり動いただけで、特別な感情があったわけじゃなかった。それなのに、この苛立ちはどうだろう。自分でも自分を持て余している。
「お前がいいのなら、そのまま結婚すればいいじゃないか。アンシェラ嬢をレイケン伯爵の支配から救ってやればいい」
「言ったでしょう。彼女には好きな男がいます」
「誰なんだ? アンシェラ嬢を保護できる男か?」
「あたりまえです」
エデュアルトは長い指で、膝をトンと叩いた。指先から光の魔法陣が現れ、エデュアルトを包む。淡い光が消えた時、ディートヘルムの前にいたのは、乱れた黒髪で、大きな眼鏡をかけた冴えない風貌の男だった。
「アンシェラ嬢が好きな男は、この男らしいです」
◆――◇――◆
王子らしからぬ大笑いをするディートヘルムの前から去ると、エデュアルト――図書係のレクスは転移魔法で図書室へと向かった。レクスの正体を知るのはディートヘルムと学院長だけだ。地味で冴えない図書係など、誰も気にしない。
王立学院の図書室。高い天井まで届く本棚には、学院生たちが学ぶには十分な蔵書が並んでいる。古い紙と革表紙の匂い。窓から差し込む柔らかな午後の日差し。ページをめくる音だけが静かに響く。
窓際の定位置に彼女を見つけると、エデュアルトは取り置いていた本を手に取り、そっと近づいた。
「アンシェラさん」
閲覧机で本を読んでいたアンシェラが顔を上げた。
「レクス様」
アンシェラはふわりと花のようにほほえんだ。エデュアルトの胸が、ぐっと苦しくなる。レクスの姿で会うのは一週間ぶりだ。エデュアルトとして対面した時とはまるで違う。アンシェラの表情は柔らかい。
「少し、お久しぶりですね」
「はい。予約していた本が届く頃かと思って。レクス様は、今日はいらっしゃらないのかと」
表には出さなかったが、エデュアルトは内心でダメージを受けていた。この一週間、エデュアルトとしては毎日彼女に会っている。時折ほほえむこともあるとはいえ、彼女の表情は、緊張しているようにずっと硬かった。この違いはどうだろう。
艶やかな黒い髪と、目尻がほんの少し上がった赤みを帯びた紫色の瞳が彼女を冷たい印象にもするが、同時に人目を惹きつける華やかさを感じさせた。「悪役令嬢」と囁かれ、彼女自身も人と積極的に関わろうとはしていないように見えたが、図書係のレクスにはいつも丁寧だった。こうして固い表情が崩れると、ひどく愛らしい。これまではそれを、自分への好意からだとは思っていなかったが。
「少し用があって遅れました。これ、予約されていた本です」
エデュアルトは手にしていた分厚い本を差し出した。
「ありがとうございます」
アンシェラは嬉しそうに受け取った。
「中央図書館の書庫にはなかったので、王宮図書館から取り寄せました」
「そこまでしてくださったのですね。すみません」
「いいえ、アンシェラさんが熱心に読んでくださるから、図書係としては嬉しい限りです」
エデュアルトは、眼鏡のフチを指で押し上げながら、目尻を下げた。
調査対象として彼女に接触したのが始まりだった。必要な情報を集めるため、何気ない会話を重ねた。たったそれだけのことで、彼女が好意を持ってくれていただなんて。あまりにも純粋なのではないか。
実のところエデュアルトも、アンシェラの真面目な姿にすぐに好感を持った。周囲にどう言われても、悲観しすぎずに凛としている。いつしかエデュアルトは、アンシェラが図書室へ来る時間を無意識に気にするようになっていた。アンシェラが本を探していると進んで手伝ったし、どんな本を用意すれば彼女が喜ぶだろうかと考えるようになった。
だから婚約者として対面した際、他に好きな男がいるというアンシェラの告白に、思わず仮面が剥がれ落ちそうになった。胸の内を占めるこの感情が何なのか、今はもうはっきりと自覚している。
「私も嬉しかったです。いつも親切にしていただいて」
アンシェラは受け取った本と、今まで読んでいた本も閉じて一緒に胸に抱くと、立ち上がった。
「レクス様、今までありがとうございました。ここに来るのは、今日で最後になります。どうかお元気で」
「え?」
突然の宣言に、またしてもエデュアルトは面食らう。婚約者としてのエデュアルトが、彼女の行動を制限するようなことはしないと話したばかりなのに。
「待ってください。どうしてですか?」
「私、婚約をしたんです」
「ああ――そうですね」
「ご存知だったのですか?」
「それは……はい、聞きました。それで、どうしてですか、図書室へ来なくなるなんて」
「よく考えたのですが、図書室で本を借りるのは、リーンに頼めばよいかと思って」
と、少し離れたところにいた彼女の護衛騎士が、小さく頭を下げる。
「でもアンシェラさんは、ここで過ごす時間が好きだったでしょう? 僕にはそう見えましたが」
「はい。でもこれからは、エデュアルト様の婚約者として学ぶことも多くあって」
「だからって、あなたの自由な時間が奪われるのは――」
言いながら、エデュアルトは内心で頭を抱える。一体自分は、何を焦っているのだろう? レクスとして会えなくなっても、婚約者としては会える。むしろ喜ぶべきことではないか。
けれどあの時、図書室へはもう行かないと言ってうつむいたアンシェラは、ひどく寂しそうだった。その姿が、エデュアルトを理性的ではいられなくさせた。
うろたえるエデュアルトに、アンシェラは儚くほほえんだ。
「いつか本当に自由になれたら、その時は自分の心のままに行動します」
「アンシェラさん……」
「最後にお礼が言えて良かったです。さようなら、レクス様。どうかお元気で」
エデュアルトは、しばらく動けなかった。
◆――◇――◆
アンシェラがレイケン伯爵家に戻ると、いつもの現実が待っていた。
「遅い」
不機嫌そうな父の低い声。アンシェラは丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありません、お父様。エデュアルト様とお会いしてまいりました」
平気な顔をして嘘をつくのも得意になった。アンシェラの言葉に、父は口の端を上げた。
「公爵家か。結局、金に困ればこちらに頭を下げる。お前も、余計なことは考えず、あの若造をこちらに引き込め」
「はい」
「すぐに仕事へ向かえ。注文が溜まっている」
「はい」
アンシェラは深くお辞儀をし、静かに父の前を辞した。
屋敷の地下、分厚い扉の先にある調合室。窓のない室内に、魔導ランプの青白い光が揺れていた。棚には整然と並べられたフラスコや薬瓶。そして原料となる鉱物や薬草が所狭しと置かれている。
アンシェラは無言で作業台に向かった。フラスコに紫色の液体を注ぎ、手をかざす。体内から魔力を引き出し、液体の成分へと干渉していく。
アンシェラの手から淡い光が放たれ、薬液に浸透していく。父の命じる通りの薬を作っている――フリをしながら、密かにその成分を書き換えていた。依存性を引き起こす成分を極限まで分解し、代わりに無害な鎮静成分を増やす。これが今のアンシェラにできる、唯一の抵抗だった。
アンシェラが額の汗を拭ったとき、扉から規則的なノック音が響いた。姿を現したのはリーンだった。
「お嬢様。少々、気になる報告が。最近、屋敷の周囲に見慣れない者がうろついています」
「お父様の取引相手ではなく?」
「違います。身のこなしからして、訓練を受けた者です」
アンシェラは作業の手を止めた。
「……司法局?」
「その可能性があります」
胸がわずかに高鳴る。父の悪行がついに暴かれるかもしれない。
それは長年の支配からの解放を意味すると同時に、アンシェラ自身の破滅をも意味していた。アンシェラも同じ罪人として裁かれるのではないか。そんな考えが、胸を締めつけた。
「お嬢様、準備は進めております」
「……ありがとう。これ、持って行って」
アンシェラは今作成した薬とは違う色をした薬瓶が入った籠をリーンに渡す。依存性を引き起こす成分を分解し、無害化する解毒剤だ。リーンは街で、低価格で医院に卸す。その代金をもとにアンシェラはまた解毒剤を作り、同時に逃亡のための資金も貯めていた。
いつか自分の力でこの泥沼から抜け出し、自由になる。誰にも利用されず、遠く離れた土地で自立して生きるのだ。それだけが、アンシェラの願いだった。
◆――◇――◆
ある昼下がり、アンシェラはエデュアルトからの呼び出しを受けた。
新緑が眩しい中庭へ向かうと、彼は一人で大理石の噴水前のベンチに腰かけていた。
陽光を浴びて黄金に輝く髪。周囲の女子生徒たちが、遠巻きにうっとりとした視線を送っている。まさにおとぎ話の王子様そのものの光景だった。
「お待たせいたしました、エデュアルト様」
「アンシェラ嬢」
彼は立ち上がり、自然で優雅な所作でほほえみかけた。
「急な呼び出しですまないね。少し、歩こうか」
「はい」
二人並んで、小道を歩く。周囲の視線が突き刺さるように痛い。その視線の意味を知っている。エデュアルトの隣にはふさわしくないと言いたいのだろう。アンシェラは無表情を保って、彼の隣を歩いた。
「図書室には行かないの?」
不意に尋ねられ、アンシェラは思わず立ち止まった。さすが公爵家の人というべきか、こちらの行動はすべてお見通しなのだろう。別段、不思議なことではない。多少の不快感があるのは確かだが。
そのことを察したのだろうか、エデュアルトは付け加えた。
「監視してたわけじゃないよ。僕も図書室に行ってみたけれど、きみがいなかったから」
「本は、リーンに頼むことにしました」
「どうして?」
「やっぱり、良くないと思いました。婚約者がいる身で、他の男性に会いに行くようなことは」
「……レクスのことは、まだ好き?」
一瞬、言葉に詰まる。エデュアルトがじっとアンシェラを見つめていた。このまっすぐな眼差しに、嘘はつけないと思った。父の前では、あんなにも自然に嘘をつけるのに。
「……好きです。でも、もう会いません」
「だったら、僕を好きになったら?」
「え?」
驚いてアンシェラは目を見開く。そんなことを言われるとは、まったく思っていなかったのだ。
「僕はきみの婚約者で、会いたいときにいつでも会えるよ」
「…………」
「お互いを知っていこうって言ったよね。僕のことを知って、好きになる可能性はない?」
アンシェラは戸惑っていた。
「そんなことは、まったく想像していませんでした」
「……傷つくな」
「違います、そうではなくて。私は――」
「ああ、レイケン伯爵の娘だから?」
「……はい」
「きみと伯爵は別の人間だからね」
「エデュアルト様……」
アンシェラはぎゅっと制服のスカートを握りしめた。エデュアルトは良い人間だ。その優しさが、胸に刺さった。本当のことを言わなくてはいけない。いつか言わなくてはならないなら、早いほうがいい。
「ごめんなさい」
アンシェラは頭を下げた。そうして顔を上げると、エデュアルトは驚いた表情をしていた。
「私は、エデュアルト様の婚約者としてふさわしくありません。エデュアルト様の妻として必要な役割を果たすと言いましたが――あれは、嘘です」
「……どういうことかな」
「私は、まもなくレイケン伯爵家から出ようと思っています。エデュアルト様の婚約者ではいられません」
「――何だって?」
エデュアルトの表情が固まった。本当は、言うつもりはなかった。だがエデュアルトの優しさに、アンシェラは黙って実行することができなくなった。
「本当にごめんなさい。ですからどうか私のことなどは捨て置いてください」
もう一度大きく頭を下げて、アンシェラは逃げるように走り去った。
◆――◇――◆
「それはもう、フラれたということだ。諦めろ」
嬉々としたディートヘルムを無視して、エデュアルトは黙々と書類を確認していた。貴族院議長と、国王の署名が終わっている。特別法を定める書類だ。従来の個別指定ではなく、高い依存性を有するすべての魔法薬を禁じるものだ。
「書類に不備はありません。司法局へ持ち込めば、これでレイケン伯爵の事業は終わりです。レイケン伯爵家の魔法薬は即時押収。新法に基づく安全審査が終わるまで、レイケン伯爵は拘束されるでしょう」
「お前が言うから、急がせたんだ。感謝しろよ?」
「は? 国を守るのは王家の務めでしょう。むしろ遅かったくらいです。伯爵家を調べた僕に、感謝すべきは殿下の方では?」
「分かった分かった。可愛くない奴だな。で、アンシェラ嬢は逃がしてあげるのか?」
「いいえ」
エデュアルトは立ち上がった。
「何のために急がせたと思いますか? 彼女が市井に逃げる時間を与えないためです」
「そして今度はお前に捕らわれるのか? かわいそうに」
「人聞きの悪いことを言わないでください。闇雲に逃げて危険な目にあったらどうするんです。彼女は保護される。逃げて心証を悪くすることはない。そうではなく、彼女には選択してもらうだけです」
光の魔法をかけると、エデュアルトは姿を変える。眼鏡の位置を指先で直した。
「自由になれたら、心のままに行動すると彼女は言いました。そして彼女が好きなのは、僕です」
「それでお前は、エデュアルトの姿を捨てて生きるとでも?」
「別に姿形なんてどうだっていい」
言い捨てて背中を向けると、ディートヘルムの笑い声が聞こえた。
◆――◇――◆
リーンの力を借りて市井に逃げるつもりだったアンシェラは、予想よりもはるかに早く到着した司法局の騎士たちに、身を竦ませた。
逃げる間のなかったアンシェラは覚悟した。だが与えられたのは鉄格子ではなかった。
司法局の調査を終え、未成年であるアンシェラは、心身ともに父親の支配下に置かれていたことを考慮され、保護対象となった。アンシェラが密かに魔法薬の成分を変え、被害の拡大を防ごうとしていた事実も確認されてのことだ。
レイケン伯爵家の事業は、金融部門を任されていたアンシェラの叔父が引き継ぐことになった。アンシェラは罪に問われることはなかったが、保護のためしばらく司法局の監督下で通常の生活を送ることになった。
それを聞いたときも、アンシェラには現実感がなかった。長年、自分を縛りつけていたものが、あまりにもあっさりと消えてしまったからだ。
しばらく身柄を預けられていた司法局を後にするとき、予想外の人物がアンシェラの目の前に現れていた。
「レクス様……?」
彼はいつもと変わらない、優しい笑みを浮かべてアンシェラを迎えた。
「アンシェラさん、大変だったでしょう。大丈夫ですか?」
事件に触れるでもなく、ゴシップを気にするでもなく、ただアンシェラを労わってくれる言葉に、アンシェラの目頭が熱くなった。
「どうして、こちらに?」
震える声で尋ねると、レクスはゆるやかに笑う。
「あなたが心配でしたので」
「レクス様……」
「お嬢様」
声をかけられてそちらを見る。同じく身柄を解かれたリーンが、アンシェラを迎えに来ていた。リーンもまたレクスの姿に驚いていたが、すぐに表情を戻してアンシェラを馬車へと案内する。
「参りましょう」
「……行くってどこへ? もうレイケン伯爵家に戻るのは嫌」
「分かっております」
リーンのはっきりとした返答にアンシェラは安堵した。それからもう一度レクスに向き合う。
「レクス様、ありがとうございます」
ずっと気を張り詰めていた。その緊張がゆるんだせいもあったのだろう。アンシェラの目からぽろりと涙がこぼれた。
「嬉しかったです。心配してもらえるだなんて、思っていませんでした」
「アンシェラさん」
レクスがそっと手を伸ばしたのを、アンシェラはすっと身を後ろに引いて避けた。レクスの手が虚空で止まる。
傷ついた顔をしたレクスに、アンシェラは自分の指先で涙を拭って謝る。
「ごめんなさい。私はまだ、エデュアルト様の婚約者です。こうなっては婚約も何もありませんが」
「……彼が婚約破棄を望まなかったら?」
「ありえません。父がこうなって、アルテナ公爵家への融資は途絶えるでしょう」
「アンシェラさんは自由になる?」
「はい。そうありたいと思います」
「いつか自由になれたら、その時は心のままに行動すると言いましたよね。もしそうならば、僕を選んでくれますか?」
「……レクス様」
密かに心を寄せていた人に、そんな風に言われて、動揺しないわけがなかった。だが今のアンシェラは疲れすぎていて、正しい答えが何なのか分からない。少なくともまだエデュアルトの婚約者だということは、忘れてはいけない。
「失礼ですが、お嬢様は大変お疲れです。一旦、答えは保留にして、お嬢様に休んでいただく時間をください」
アンシェラの内心を察したかのようなリーンの助け舟だった。アンシェラも目を閉じて言葉を選ぶ。
「レクス様、ごめんなさい」
「……分かりました。連絡は、もらえますか?」
素直にうなずいてからレクスと別れると、アンシェラは馬車に乗り込む。
座席に背中を預ける。その瞬間、張り詰めていたものが切れたように、どっと眠気が押し寄せてきた。アンシェラはそのまま、気を失うように眠りへ落ちていった。
◆――◇――◆
アンシェラは亡き母の生家であるベイル伯爵家に身を寄せていた。自立するつもりだったアンシェラは、祖父であるベイル伯爵に保護されることになった。
「心配せずに、大人を頼りなさい」
ほとんど話したことのなかった祖父にそう言われ、アンシェラは涙ぐんで頷いた。
それから、数日が過ぎた。
すぐにでも届くと思っていた婚約破棄の連絡は、一向にこなかった。そんな状況でどうかとも思ったが、レクスへは連絡すると約束をしたので、アンシェラは自分の居場所と、無事であることだけを書いた短い手紙を、リーンに学院の図書室へ届けてもらった。
同時に、エデュアルトへは丁寧なお詫びの手紙を書いた。こんなことになってしまって申し訳ないと、どうか婚約を破棄して、エデュアルトにとって最善の道を選んでほしいとお願いした。
先に返事がきたのは、アルテナ公爵家からだった。
「アルテナ公爵家の令息が、こちらに来られるそうだ」
祖父からそう言われて、アンシェラは驚いた。婚約破棄のために、わざわざ来るのだろうか。
それほど日数が空いたわけではなかったが、ひどく久しぶりのような気がした。エデュアルトの申し出で、応接室にはアンシェラとエデュアルトの二人きりだった。
「あの、エデュアルト様――」
「どうしても、婚約破棄がしたい?」
先に問われて、アンシェラは一瞬、言葉に詰まった。
「……したい、したくないではなく、もうアルテナ公爵家にとって、私は価値がありません」
「価値とかそんなことはどうでもいいよ。僕はきみの気持ちが知りたい。自由になって、レクスと一緒になりたい?」
「それは――」
胸が痛む。隠しても、もう意味がない気がした。アンシェラは正直に打ち明ける。
「もしもレクス様が私を選んでくれるのなら」
「…………」
「ごめんなさい、エデュアルト様」
「分かったよ。僕もきみには謝らなければならないことがある」
エデュアルトは立ち上がり、指先を動かして光の魔法陣を出した。エデュアルトを包んだ淡い光が消えた時、現れた人の姿に、アンシェラは息が止まりそうになっていた。
「――レ……クス様?」
「最初は、任務だった」
レクスの姿をしたエデュアルトは、悔いるように唇を噛みながら言った。
「レイケン伯爵を探るために、娘であるきみに接触した。そのために公爵家の窮地を利用して婚約を交わした。婚約するより前から、僕は学院で正体を隠し、図書係としてきみを調べていた。卑怯なやり方だったと思う。黙っていて、すまなかった」
苦しそうに目を伏せていたエデュアルトは視線を上げ、何も言えないでいるアンシェラの目をじっと見ていた。その瞳の奥には、確かに情熱が宿っていた。
「図書室で話すうちに、きみから目が離せなくなった。きみが図書室に来るのを楽しみにしていたし、きみが来ない日は、寂しかった。だからエデュアルトとしてきみに会ったとき、他に好きな男がいると言われてショックだったよ」
「……私が好きなのは、レクス様です」
「うん。だからきみが望むなら、僕はずっとこの姿でもいい。僕はきみを選ぶよ。きみも僕を選んで」
アンシェラは言葉を失って、片手を額にあてて目を閉じた。あまりに突然のことで、考えが追い付かなかった。
「レクス様――いえ、エデュアルト様……」
「どちらでもいいよ」
「いいわけがありません」
顔を上げてアンシェラは、非難するような眼差しになる。
「ずっとレクス様のままでいいだなんて。そんなことになっては、アルテナ公爵家に申し訳が立ちません」
「もともと自由にさせてもらってる。今さら誰も気にしないよ」
「私が気にします」
アンシェラは動揺もあって、自然に涙目になっていた。そんなアンシェラを見て、エデュアルトは慌てた。
「泣かないで。僕はきみが望む生き方をしてほしいんだ」
「私は――」
自由を願っていた。アンシェラの作った魔法薬で苦しんでいる人がいるのなら、助けるべきだと思っている。きちんとした魔法薬を扱う仕事をしながら、叶うならまたレクスと穏やかに会話をする日常を夢見ていた。
「……少し考えさせてください」
アンシェラは涙を拭った。
「色々、想像とは違ってしまって……」
「分かった」
「それからエデュアルト様は、元の姿に戻ってください」
「……エデュアルトでいるのなら、婚約破棄はしたくない」
「それは――アルテナ公爵家がお許しになるとは思えません」
「僕はもう十分に家と王家の役に立った。今回のことで、王家からの資金援助も決まっているし。好きにさせてもらう。僕の生き方について、口は出させないよ」
エデュアルトがあまりに堂々と言うので、アンシェラはそれ以上言うことがなくなってしまった。
「……分かりました。それなら」
するとエデュアルトは、ぱっと子どものように顔を輝かせた。そのあまりに素直な反応に、アンシェラは思わず小さく笑ってしまった。
「どうか魔法を解いてください。本当の姿で、エデュアルト様のことを教えてください。少しずつ、お互いを知っていくというお話でしたから」
エデュアルトは頷き、それから魔法を解いて本来の姿に戻った。金色の髪と、アイスブルーの瞳を持つ美しい貴公子がそこにいた。
「……図書係のレクス様には、もう会えなくなりますね」
「卒業までは、ちゃんと図書室にいるよ」
「エデュアルト様の姿でですか?」
「うん」
そうすると、目立ってしまって図書室が落ち着かない空間になりそうだ。そんなことを想像して、アンシェラはまた笑った。そんなアンシェラを優しい目で見ながら、エデュアルトが言う。
「以前、僕が図書室できみに一冊の小説をすすめたのを覚えてる? 白馬に乗った王子様が、魔女に捕らえられたお姫様を救い出す物語だ」
「はい。覚えています」
「返却の時、きみは微妙な顔をしていた。つまらなかったんだろうって一目で分かるくらいに」
「……そんなに表情に出ていましたか?」
「まあね」
エデュアルトは楽しそうに笑う。
「つまらなかったわけでないんです。ただ、あんな夢みたいな話は、ないと思っていましたから」
白馬の王子様が現れてお姫様を救い出し、最後は幸せに暮らしました。そんな物語は、自分には関係のないものだと思っていた。アンシェラは誰かに救われるような、綺麗なお姫様ではない。そんな夢を見てはいけないと思っていた。
「僕はきみの王子様になりたいと思ってた」
アンシェラは目を見開いた。それから、はにかむようにして笑う。
「もう一度、読んでみます」
エデュアルトがほほえんだ。レクスの優しい笑顔と重なってひとつになる。
そしてエデュアルトは、アンシェラに恭しく手を差し出す。
「お手をどうぞ。お姫様」
これはアンシェラの物語だ。夢を見たっていいのかもしれない。
アンシェラは頬を染めながら、差し出されたエデュアルトの手に、そっと自分の手を重ねた。
(THE END)
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