第六話「布団、もう一組あるんですけど」
フィオナが農村に残ると決まった翌朝のことだ。
畑に出ると、フィオナがいつもの石に座っていた。ここまではいい。いつも通りだ。
問題は、石の隣に荷物が置いてあることだった。
旅行鞄が2つ。着替えらしきものが詰まった布袋。それから、何に使うのかわからない木箱が1つ。
(……引っ越しか?)
「おはようございます」
「おはよう。その荷物は何だ」
「宿から持ってきました。しばらくいるなら手元に置いておきたくて」
(「しばらく」の定義を聞きたい)
「宿はどうした」
「まだ取ってますけど、荷物が多いと行き来が面倒なので。ここに置いていいですか」
(置いていいですか、と聞くときには既に置いている)
(この人のコミュニケーション方法は、事後報告が基本らしい)
断る理由を探したが、見つからなかった。荷物を置くだけだ。別に住むわけではない。
「……好きにしろ」
「はい」
フィオナは満足そうに頷いて、木箱を日陰に移動させ始めた。
中身を聞く気力は、もうなかった。
*
午前中、エマが俺のところに来た。
「坊ちゃま、ひとつご相談が」
「なんだ」
「フィオナ様が毎日宿からいらっしゃるのは、お体に障るのではないかと」
(エマさん、「フィオナ様」になっている。いつの間に格が上がったんだ)
「それはフィオナの問題だ。俺が口を出すことじゃない」
「はい。ただ、離れに布団がもう一組ございまして」
エマは穏やかに微笑んでいた。
しかしその目は、完全に「言質を取りに来ている」目だった。営業時代に何度も見た。上司が「提案」の形で「命令」を出すときの目だ。
「……何が言いたい」
「いえ、ただの事実のご報告です。離れに布団がもう一組ございます。それだけでございます」
(それだけではないだろう)
エマは俺の横あたりを見た。それから少し上の方を見た。そしていつもの、あの満足そうな顔をした。
(エマさん。あなたは一体何を見ているのか)
(いつか必ず聞く。今日ではないが、いつか)
「……フィオナに聞いてみろ。俺が決めることじゃない」
「承知いたしました」
エマは一礼して去っていった。足取りが軽かった。
明らかに、この返答を待っていた足取りだった。
*
昼飯は根菜と干し肉の炒め煮を作った。最近はフィオナが「甘い味付け」に慣れてきて、文句の言い方が変わった。
「今日も甘いですね」
「嫌か」
「嫌じゃないです。慣れました」
(慣れた、か)
10日前は「なんで甘いんですか」と不審そうに聞いていた人間が、「慣れました」と言っている。人間の順応力は大したものだ。
食後、フィオナが例の木箱を開けた。
中身は、光る石だった。拳大の、薄く青白い光を帯びた石が、布に包まれて3つ入っている。
「魔力を溜める練習用の石です。修行に使うんです」
「光っているが」
「少しだけ魔力を入れてるので。空にしてからまた溜める、の繰り返しで制御力が上がるんです」
フィオナは石を一つ手に取って、指先に意識を集中させた。石の光が少し強くなった。それからゆっくりと消えた。
「……こうやって、出し入れする感覚を掴むのが修行です」
その説明をしているフィオナの目は、畑でも台所でもない、別の場所を見ていた。真剣だった。普段の遠慮のなさとは違う、静かな集中力があった。
(この人は旅人だった)
(料理を食べに来ているだけの人間ではなかった。当たり前だが)
ほんの少しだけ、自分が何かを見落としていた気がした。
*
午後、エマがフィオナに話を持ちかけたらしい。
畑にいた俺のところにフィオナが来た。いつもの顔だが、ほんの少しだけ気まずそうだった。フィオナが気まずそうにしているのは珍しかった。
「エマさんが、離れに泊まっていいって言うんですけど」
「聞いた」
「あなたは、いいんですか」
(いいのか、と聞かれると困る)
「いい」とも「ダメ」とも即答できなかった。
宿から毎日通うより合理的なのは確かだ。修行をするなら、道具を持ち運ぶ手間が省ける。離れは母屋から離れている。生活空間が重なるわけではない。
(合理的に考えれば、断る理由がない)
(合理的に考えれば)
「……エマが良いと言うなら、良いんだろう」
「あなたの家なのに、エマさんの許可で決まるんですか」
「この屋敷のことはエマが一番わかっている」
フィオナは少し笑った。声を出して笑ったのは、これが初めてだった。
「変な人」
「……よく言われる」
言われたことはない。しかし、なぜかそう答えた。
*
夕方、エマが手際よく離れの布団を整えた。
フィオナが荷物を離れに運び込むのを、俺は窓から見ていた。
旅行鞄を2つ抱えて歩くフィオナの背中は、小さかった。18歳の女が一人で辺境を旅している。それが当たり前のように振る舞っているが、当たり前ではない。
(……まあ、屋根があるほうがいい)
(修行するなら、なおさら)
夜になった。
母屋は静かだった。いつもと変わらない。フィオナがいようがいまいが、夜の静けさは同じだ。
ただ、窓の向こうに、離れの明かりが一つ灯っていた。
いつもはなかった光だ。
消灯する気配を確認してから、俺は自分の明かりを消した。
(確認する必要はなかった)
(ただ、目に入っただけだ)
翌朝、畑に出た。
フィオナは石の上にいなかった。
代わりに、離れの前で魔力石を手に、修行をしていた。石が薄く光って、消えて、また光る。朝の空気の中で、その光は思いのほかきれいだった。
俺が来たことに気づいて、フィオナが顔を上げた。
「おはようございます」
「……おはよう」
いつもと同じ挨拶だった。
ただ、距離が少し近くなっていた。宿から畑までの道のりが、離れから畑までの数歩になっていた。
その差が何を意味するのか、俺はまだ考えないことにした。




