第二十四話「1人分の飯は、量の調整が難しい」
朝、離れの扉が開いていた。
中は空だった。
布団は畳んであった。窓は開けてあった。空気を入れ替えたのだろう。テーブルの上に、紙が一枚置いてあった。
「お世話になりました。出汁の取り方、忘れません。大根、お願いします。――フィオナ」
短い手紙だった。
フィオナの字は、包丁さばきと同じで不揃いだった。しかし丁寧に書いてあった。
手紙を折って、書斎の引き出しに入れた。
(行ったのか)
畑に出た。
大根が並んでいた。昨日フィオナと一緒に抜いた場所だけ、穴が空いていた。
風が吹いた。
静かだった。
*
朝飯を作った。
1人分。
汁物と漬物。いつも通りだ。
出汁を取った。自分で取った。フィオナに教えた方法と同じだ。
器に注いだ。1つ。
食べた。
美味かった。いつも通りだ。
(……いつも通りだ)
食器を洗った。1枚。
棚に戻した。棚の中に、フィオナがいつも使っていた器があった。洗ってあった。フィオナが出発前に洗ったのだろう。
(……律儀な奴だ)
台所が、少し広く感じた。
*
畑仕事をした。
大根に水をやった。葉の状態を確認した。間引いた跡を整えた。
全て一人でやった。フィオナがここに来る前は、全て一人でやっていた。何も変わっていない。
(何も変わっていない)
昼飯を作った。1人分。
根菜の煮物。昨日の残りの芋を使った。フィオナが煮た芋だ。味が染みていた。
一人で食べた。
(……量の調整が難しい)
2人分を作る手が染みついていた。無意識に根菜を多めに切る。出汁を多めに取る。器を2つ出しかける。
2つ目の器を棚に戻すとき、手が少しだけ止まった。
(……癖になっている)
午後、丘に行った。
行く理由はなかった。フィオナの修行を見守る必要はもうない。しかし足が向いた。
丘は空だった。風が吹いていた。
フィオナが座っていた石の上に、誰もいなかった。草が風で揺れていた。
(……BGMは聞こえない)
フィオナの魔力がないから、聞こえないのだろう。
あの旋律が聞こえなくなったことで、フィオナの不在が確認された。
丘を下りた。
*
夕飯を作った。1人分。
汁物と炒め物。いつも通りだ。
食べ終わって、食器を洗った。1枚。
エマが台所に来た。
「坊ちゃま」
「何だ」
「……お寂しいですか」
「寂しくない」
(また嘘をついた)
「……坊ちゃま」
「何だ」
「糸が、細くなってはおりません」
「……何の話だ」
「フィオナ様との糸です。距離が離れても、太さは変わっておりません。むしろ」
「むしろ?」
「……少し、太くなったかもしれません」
エマはニコニコしていた。しかし今日のニコニコは、坊ちゃまを励ますためのニコニコだった。
「距離と糸の太さは関係ないのか」
「縁の糸は、距離では変わりません。関係の深さで変わります」
エマが「縁の糸」という言葉をはっきり使ったのは、初めてだった。
「……エマさん」
「はい」
「糸のことは、いつか詳しく聞かせてくれ」
「はい。いつでもお話しいたします」
エマは台所を出ていった。
(縁の糸。距離では変わらない。関係の深さで変わる)
(フィオナが王都に行っても、糸は細くならない)
(それは、つまり)
考えるのをやめた。
*
夜。
窓の外を見た。
離れの明かりは灯っていなかった。
当然だ。フィオナはいない。離れは空だ。
昨日まで毎晩見ていた明かりが、消えていた。消えたのではなく、灯る人がいなくなったのだ。
(……暗い)
暗さに気づいた。離れの明かりが灯らない夜は、こんなに暗かったのか。
フィオナが来る前は、毎晩こうだった。離れは空で、明かりは灯らなかった。それが普通だった。
しかし「普通」が変わっていた。明かりが灯っている夜が「普通」になっていた。灯らない夜が「異常」になっていた。
(……いつから変わったんだ)
(いつからフィオナがいることが「普通」になった)
麻衣に手紙を書いた。
「リリア様。フィオナが本日、学園に戻りました。延長申請の結果はまだわかりません」
書いてから、もう一行加えようとした。
何を書くべきかわからなかった。
「寂しい」とは書けなかった。「心配だ」とも。「戻ってきてほしい」とも。
どれも本当のことだったが、どれも手紙には書けなかった。
封をした。
明日も朝飯を作る。1人分を。
離れは暗いままだろう。明後日も。その次の日も。
(フィオナ。延長が認められますように)
「認められますように」と思ったことに、自分で少しだけ驚いた。
祈ったのは、前世を含めて初めてかもしれなかった。




