第二話「あなた、名前はなんですか」
知らない女が、畑の縁に立っていた。
ショートヘアに、飾り気のない服。こちらをまっすぐ見ている。物怖じというものが存在しないような目だ。
(ゲームに出てきたキャラクターか?)
記憶を照合しようとした。しかし1周しかしていないゲームの記憶は、細部があやふやだ。攻略対象4人の顔はなんとなく覚えている。でもそれ以外の登場人物となると、正直なところほとんど覚えていない。
(この人、覚えていない)
(覚えていないということは……重要なキャラクターではない、か? それとも俺が覚えていないだけか?)
判断できなかった。
判断できないまま、女はまだこちらを見ている。
「……あなた、名前はなんですか」
聞いた。まず相手を特定するのが先だ。
女は少し目を丸くした。それから、あっさりと答えた。
「フィオナ。フィオナ・エルストです」
(フィオナ・エルスト)
(……記憶にない)
照合、失敗。
ゲームのキャラクターかどうかわからないまま、初対面の女と向き合う羽目になった。
「で」とフィオナは言った。「あなたは?」
「……ランベルト・ヴェルツだ」
「ふうん」
フィオナは興味があるのかないのかわからない相槌を打った。それから、誰に許可を得るでもなく、畑の縁の石に腰を下ろした。
(なぜ座るんだ)
「ここ、あなたの土地ですか」
「そうだ。別荘がある」
「なんでこんな辺鄙なところに」
「こちらの台詞だ」
フィオナは少し考えるような顔をしてから、「旅してます」と言った。
「学園が長い休みで。魔力の鍛錬をしながら辺境を回ってて、この村で一泊することにしたんです。朝、散歩してたらここに来た」
「それだけか」
「それだけです」
(それだけで他人の畑に入るな)
とは言えなかった。フィオナの目に悪意がないことくらいは、営業マンとして読める。ただ純粋に、何も考えずに入ってきた、そういう目だ。
(……関わりすぎないようにしよう。でも追い返すほどのことでもない)
俺は大根の世話に戻った。
フィオナはそのまま石の上に座っていた。
昼になった。
屋敷に戻って飯を作ることにした。大根が大量にある。昨日埋めた種はまだ芽も出ていないが、前の当主が育てたらしい大根がいくつか残っていた。
薄く切って、現地で手に入る調味料で炒める。ランベルトの記憶にはこういう調理法はないが、前世の感覚がある。シンプルでいい。
(大根を炒めている。これが今の俺の仕事だ。物語とは無関係だ)
台所は静かだった。包丁の音と、火の音だけがある。
昼飯を作っているとき、俺の内心はいつも穏やかになる。フラグのことも当て馬のことも、一時的に遠くなる。これは前世からそうだった。
「……いい匂い」
振り返ると、台所の入口にフィオナが立っていた。
(なぜここにいるんだ)
「帰っていなかったのか」
「村に戻ろうとしたんですけど、匂いがして」
「それは他人の家の台所に入る理由にならない」
「でも美味しそう」
フィオナは反省していなかった。ただ鍋を覗き込もうとしている。
(……営業スマイルを維持しろ、健司)
結果として、2人分作ることになった。
大根の炒め物と、スープ。フィオナは出されたものを一口食べて、少し黙った。
「……なんですか、これ」
「大根だ」
「知ってますけど。こんな味になるんですね」
褒めているのか疑っているのかわからない言い方だったが、フィオナはその後もきれいに食べた。
(……まあ、悪くない昼飯だった)
食後、フィオナは「ごちそうさまでした」と言ってから、少し間を置いた。
「……また来ていいですか」
(来ていいわけがない)
(俺は退場するかもしれないキャラで、今はできるだけ人と関わらないようにしている)
(特に素性のわからない人間とは)
(だからここは断る。「遠慮してほしい」か「用はない」か、そういう言葉を選ぶ)
「どうぞ」
(……俺は今、何と言った)
フィオナは少し目を丸くした。それからすぐに表情を戻して、「じゃあまた」とだけ言って出ていった。
あっさりしていた。
感謝も、遠慮も、気まずさもなかった。まるで当たり前のことが起きたみたいに、フィオナは去った。
(……なぜ俺はそう言ったんだ)
自分でもわからなかった。
ただ、言ってしまった言葉は戻らない。
夕方、一人になってから、俺は大根に話しかけた。
(お前はどう思う)
大根は答えない。
当たり前だ。大根に聞いてどうする。
(あれはフラグだったか?)
(わからない。1周しかしていないゲームの記憶では判断できない)
(ただ、素性のわからない人間と昼飯を食べた。それは事実だ)
(今後は気をつけよう。関わりすぎない。それだけだ)
翌朝。
俺が畑に出ると、フィオナがもう来ていた。
昨日と同じ石の上に座って、昨日と同じようにまっすぐこちらを見ている。
「おはようございます」
「……おはよう」
(関わりすぎない、と昨日決めた)
(しかし既に来ている)
大根は、今日も黙っていた。




