第十九話「4人目は、来なくていいです」
来なくていい。来なくていい。来なくていい。
来た。
馬はいなかった。馬車もなかった。ファイン・ルーシェは、一人で歩いてきた。
村の入口から屋敷まで、まるで散歩でもするかのような足取りで。外套の裾が風になびいていた。銀の髪が午前の光を反射していた。
(……ファイン・ルーシェ。20歳。天才魔法師。攻略対象③)
(そして、リリアの兄)
(麻衣の、兄だ)
レオンが来たとき、胃が痛かった。シャールが来たとき、疲れた。クロードが来たとき、緊張した。
ファインが来たとき、背筋が凍った。
「ランベルト・ヴェルツ殿ですか」
声は静かだった。低くもなく高くもない。温度がなかった。
「はい」
「ファイン・ルーシェです。リリアの兄です」
(「リリアの兄」と名乗った)
(攻略対象としてでも、天才魔法師としてでもなく、「リリアの兄」として来た)
「リリアがお世話になっているようで」
「いえ……こちらこそ、リリア様には日頃から良い手紙をいただいています」
「ええ。その手紙の件で、少しお話がしたくて」
(手紙の件)
背筋の冷えが、さらに深くなった。
*
居間に通した。お茶を入れた。手が震えないように細心の注意を払った。
ファインは居間を見回さなかった。クロードのように部屋を読むことはしなかった。ただ、真っ直ぐにこちらを見ていた。
目が笑っていなかった。笑おうともしていなかった。
クロードの営業スマイルとは違う。ファインはそもそも笑顔を道具として使う人間ではなかった。必要がないから笑わない。それだけだった。
「リリアが、最近よく手紙を書いています」
「……ご存知でしたか」
「兄ですから。妹が誰に手紙を書いているかくらいは把握しています」
(把握している)
(麻衣が手紙を書いていることだけでなく、宛先まで把握している可能性がある)
「リリア様の手紙は、季節の挨拶と、領地の近況報告が主です」
「ランベルト殿。リリアの手紙が季節の挨拶だけではないことは、兄としてわかっています」
(……見抜かれている)
「リリアの文体が、最近少し変わりました。以前はもっと堅かった。最近は、どこか砕けている。親しい相手に書くときの文体です」
ファインはお茶に口をつけなかった。
「兄として、妹の交友関係には関心があります。ランベルト殿が信頼に足る方かどうか、確認しに来ました」
(確認しに来た)
(これは攻略対象の来訪ではない。兄としての来訪だ)
(レオンは公務で来た。シャールは善意で来た。クロードは商売で来た。ファインは、家族として来た)
一番、断れない理由だった。
*
「ランベルト殿。いくつか質問をしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「リリアとは、どのような話をされていますか」
「……領地の経営について助言をいただいています。リリア様は知識が広い」
「リリアは確かに博識です。しかし、あの子の知識には偏りがある。まるで、何かを事前に知っていたかのような偏りです」
(……)
(ファインは、麻衣の知識の偏りに気づいている)
(ゲームの全ルートをコンプしている人間の知識は、確かに偏る。この世界の人間が持たない情報を持ち、この世界の常識を一部欠いている)
「私には、リリアが時折『別人のように見える』瞬間があります」
ファインの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
それは兄としての不安だった。冷徹な観察者ではなく、妹を心配している兄の目だった。
「ランベルト殿。あなたはリリアに、何か気づいたことはありませんか」
(気づいたことはないか)
(あるに決まっている。麻衣は転生者だ。俺も転生者だ。俺たちは前世の記憶を持っている。リリアが「別人のように見える」のは、別人だからだ)
(しかし、それを言うわけにはいかない)
「……リリア様は、聡明で心優しい方です。私が気づいたことは、それだけです」
ファインは俺を見た。長い沈黙があった。
「……そうですか」
信じていない声だった。しかし、それ以上の追及はなかった。
ファインは、追い詰める人間ではなかった。情報を集めて、自分の中で組み立てる人間だった。クロードと似ているが、動機が違う。クロードは知的好奇心。ファインは、家族への心配。
(……麻衣。お前の推しは、お前のことを心配している)
(攻略対象としてではなく、兄として)
*
フィオナが離れから出てきた。
「……ファイン先輩?」
フィオナの声が、明らかに硬くなった。
レオンのときは「苦手」だった。シャールのときは「諦め」だった。クロードのときは「警戒」だった。
ファインに対しては、「緊張」だった。
「フィオナか。久しぶりだ」
「……お久しぶりです。なぜここに」
「妹の手紙の相手を見に来た」
「手紙?」
「リリアだ。ランベルト殿と文通しているらしい」
フィオナが俺を見た。「文通してたんですか」という目だった。
「……季節の挨拶だ」
「季節の挨拶ですか」
「季節の挨拶だ」
フィオナは信じていない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
ファインがフィオナに目を向けた。
「フィオナ。お前はここで何をしている」
「修行です」
「修行。ランベルト殿の領地で」
「はい」
「なぜここなのだ」
「……静かだからです」
フィオナの答えは端的だった。ファインの前では、普段の口の悪さが鳴りを潜めていた。
(フィオナは、ファインが苦手だ。「毒舌返しができない」相手)
(ファインの言葉には温度がないから、フィオナの直球が通じない。壁に向かって球を投げているような感覚なのだろう)
ファインはフィオナを見て、少しだけ表情が動いた。
「修行か。光の魔力は順調か」
「……まあまあです」
「まあまあか」
それだけ言って、ファインは立ち上がった。
「長居するつもりはありません。確認に来ただけです」
昼飯を勧めるべきか迷った。レオンにもシャールにもクロードにも出した。しかし、ファインの空気は「食事の場に留まる」空気ではなかった。
「……お昼を召し上がっていきますか」
「いえ。結構です」
断られた。攻略対象の中で初めて、飯を断られた。
(……この人は、俺の料理を食べなかった)
(レオンは感動し、シャールは絶賛し、クロードは分析した。ファインは断った)
(それは拒絶ではなく、「目的が食事ではない」ということだ。この人は目的以外のことをしない)
*
ファインが帰り際に、振り返った。
「ランベルト殿」
「はい」
「リリアを頼みます」
それだけだった。
「頼みます」。短い言葉だった。しかし、その三文字に、この男の全てが入っていた。
知識の偏りに気づいている。別人のように見える瞬間がある。不安を抱えている。しかし追い詰めず、妹の選んだ相手を信じようとしている。
(……これが、ファイン・ルーシェか)
(麻衣の推し。攻略対象③。天才魔法師)
(しかし今日見たのは、妹を心配する兄だった)
ファインが歩いていった。来たときと同じように、一人で。
「……帰りましたね」
フィオナが横にいた。
「帰った」
「ファイン先輩、怖かったですね」
「……ああ。一番怖かった」
「ご飯、食べなかったですね」
「断られた」
「初めてじゃないですか。断られたの」
「初めてだ」
フィオナは少し考えて、言った。
「……ちょっと、悔しくないですか」
(悔しい)
(……悔しいのか、これは)
「……少しだけ」
フィオナは小さく笑った。
「あなたの料理、美味しいのにもったいないですよね」
(もったいない)
(フィオナはよく「もったいない」と言う)
(俺の笑顔も、俺の料理も、フィオナにとっては「もったいない」らしい)
台所に戻った。食器は2枚だった。
今日だけは、2枚で安心した。




