第十七話「最近変ですよ、あなた」
朝、台所に立った。
フィオナが入ってきた。いつも通り、腕まくりをして、「手伝います」と言った。
「……ああ」
「今日は何作るんですか」
「根菜の汁物と、葉物の塩和えだ」
「じゃあ私、出汁やります」
「……ああ」
フィオナが鍋に水を入れて、干し肉を裂き始めた。手つきは安定していた。
俺は葉物を洗っていた。洗いながら、フィオナの背中を見ていた。
ヒロインの背中だ。
ゲームの、ヒロインの背中だ。
(……やめろ。そういう目で見るな)
フィオナが振り返った。
「あなた、また固くなってますよ」
「……何が」
「顔です。クロード先輩が来たときみたいに硬い」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないです。ここ数日ずっとです」
フィオナはまな板の前に立ったまま、こちらを真っ直ぐ見た。
「最近変ですよ、あなた」
(……変、か)
「何が変だ」
「料理のとき、私と目を合わせなくなりました」
(……気づかれている)
「畑にいるときも、前は普通に話しかけてきたのに、今は少し間があります」
(……全部気づかれている)
「それと、丘に行くとき、前は自分から来てくれてたのに、最近は私が誘わないと来ません」
フィオナの指摘は、全て正確だった。
距離を取る計画は失敗した。しかし無意識に、距離感が変わっていたらしい。完全に離れることはできなかったが、近づき方が変わった。フィオナはその微細な変化を、全て拾っていた。
「……何かあったんですか」
「何もない」
「嘘ですよね」
「嘘ではない」
「じゃあ、なんで目を逸らすんですか」
(……逸らしたのか。今)
「逸らしていない」
「逸らしました。今も」
フィオナの声は怒っていなかった。責めてもいなかった。ただ、不思議そうだった。そして、少しだけ不安そうだった。
「……私、何かしましたか」
その問いが、一番痛かった。
フィオナは何もしていない。何も変わっていない。変わったのは俺だ。フィオナがヒロインだと知った俺が、勝手に変わった。
「……お前は何もしていない」
「じゃあ、何が」
「……俺の問題だ。お前には関係ない」
フィオナは少し黙った。
それから、鍋のほうに向き直った。
「……わかりました。聞きません」
声のトーンが、少し低かった。
怒っているのではなかった。諦めでもなかった。「聞かない」と決めた、という声だった。
「でも、一つだけ言います」
「何だ」
「私は変わってないです。あなたが何を考えてるかわからないですけど、私は変わってないので」
フィオナは鍋に火をつけた。背中を向けたまま、それ以上何も言わなかった。
(……「私は変わってない」)
(その通りだ。フィオナは最初から同じだ。初めて来たときと同じように、畑を見て、飯を食べて、修行をして、帰っていく)
(変わったのは俺だけだ)
(ヒロインだと知っただけで、こうなる。自分が情けなかった)
*
昼前、屋根の上から声がした。
「おーい、ランベルト殿!」
シャールだった。
屋根に上がっていた。工具を担いでいた。
「約束通り、井戸の滑車を直しに来た!」
「……いつ来たんだ」
「朝一で来て、先に屋根の点検をしていた。前に直したところ、問題なかったぞ」
(朝一で来て、声もかけずに屋根に上がっていたのか)
フィオナが台所から出てきた。
「シャール先輩、また来たんですか」
「おう。滑車を直す。前に見たとき、錆びていてな」
「誰も頼んでないですよね」
「頼まれなくても直すのが騎士だ」
「それ騎士の仕事じゃないと思います」
シャールは屋根の上で笑った。豪快な笑い声が空に響いた。
フィオナが俺を見た。さっきまでの緊張が、少し緩んでいた。
「……シャール先輩が来ると、空気が変わりますね」
「ああ」
「良い意味で」
(……良い意味で、か)
シャールの存在は、空気を強制的に明るくする。善意と体力の塊が屋根の上で鼻歌を歌っていれば、深刻な空気は維持できない。
さっきのフィオナとの重い会話が、シャールの登場で中和された。
(……助かった、のか。助けられた、のか)
どちらでもいい。とにかく、空気が戻った。
*
昼飯を作った。4人分だ。俺、フィオナ、シャール、エマ。
エマが久しぶりに食卓に加わった。シャールが「エマ殿も一緒にいかがか」と誘ったのだ。エマは「まあ、よろしいのですか」と言いながら嬉しそうに座った。
シャールが汁物を飲んで、また感動していた。
「何度食べても美味い。ランベルト殿、お主は騎士ではなく料理人になるべきだった」
「騎士になるつもりもないが」
「フィオナの腕も上がったな。この出汁、前よりしっかりしている」
フィオナは「ありがとうございます」と素直に答えた。シャールに対しては、構えずに話せるらしい。
エマがニコニコしていた。
いつものニコニコだったが、今日はいつもより深い気がした。4人で食卓を囲んでいることが、エマにとって特別に映っているのかもしれなかった。
「エマさん、何が見えるんだ」
「……坊ちゃま。今日は、とてもきれいでございます」
「何がだ」
「食卓が」
エマは食卓を見ていた。正確には、食卓の上のどこかを見ていた。俺たちには見えない何かを。
「色が増えました。金色と、青と、赤と。それから、少し緑も」
(色が増えた)
(金色。青。赤。緑)
(縁の糸の、色か)
エマは「あら」と小さく言って、口元を手で覆った。
「申し訳ございません。また口が滑りました」
「……いや。ありがとう」
エマは少し驚いた顔をした。俺が「ありがとう」と言ったことに。
(エマが見ているのは、たぶん縁の糸だ。色は人によって違う。太さも違う。それが今日、食卓の上で増えている)
(4人の縁が、ここに集まっている)
シャールは何の話かわからない顔をしていたが、エマの笑顔を見て「良い食事だな」と言った。
フィオナは俺を見た。俺はフィオナを見た。
目が合った。さっきまで合わせられなかった目が、自然に合った。
フィオナは何も言わなかった。ただ、少しだけ、表情が柔らかくなった。
*
午後、シャールが井戸の滑車を直した。
錆びた金具を外して、新しいものに替えた。ロープも張り直した。
「これで当分は大丈夫だ」
「ありがとう」
「また何かあれば言ってくれ。……言わなくても来るが」
「知ってる」
シャールは笑って、手を振って帰っていった。
フィオナが横に立っていた。
「……あなた、シャール先輩と話してるとき、少し楽そうですよね」
「そうか」
「うん。クロード先輩のときは固くなるのに、シャール先輩のときはちょっと肩の力が抜けてる」
(……シャールは観察しない。分析しない。ただ壁を直して、飯を食べて、笑って帰る。だから楽なのだろう)
「シャールは裏表がないからだろう」
「……あなたは裏表があるんですか」
「……ある」
フィオナは少し驚いた顔をした。
「正直ですね」
「聞かれたから答えただけだ」
「それが正直なんですよ」
フィオナは少し笑った。
朝のぎこちなさが、嘘のようだった。
「……さっきの話ですけど」
「何だ」
「目を合わせてくれなかった件。さっき、合いましたよね」
「……ああ」
「もう大丈夫ですか」
「……わからない。でも、努力する」
「努力するって、目を合わせるのに努力が要るんですか」
「……要る」
フィオナは「はあ?」と言った。呆れた声だった。でも、怒っていなかった。
「変な人ですね」
「前から言われている」
「前から言ってます」
フィオナは離れに帰っていった。
離れの明かりが灯った。
今日は、確認するつもりで見た。




