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俺、当て馬なんで逃げます。――なんでついてくるんですか、ヒロインさん  作者: よるの 余白
アークI「逃亡と日常」

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第一話「俺が転生したのは、たぶん当て馬だった」

 状況を整理しよう。


 目が覚めた。見知らぬ天井だった。石造りのアーチが視界に入った。次に手を確認した。知らない手だ。若くて、指が細くて、俺の手じゃない。


 鏡を探した。部屋の隅に大きな姿見があった。


 映っていたのは、知らない顔だった。


 黒髪。切れ長の目。三十五年間一緒にいた自分の顔とは全然違う、見覚えのない整った顔。


 柴田健司、元メーカー営業、独身。どう考えても、こんな顔の男ではなかった。


 (落ち着け。パニックになっても何も解決しない。営業でも、まず状況を把握してから動くのが鉄則だ)



 深呼吸をした。


 それから、頭の中に自分のものではない記憶があることに気づいた。この体の持ち主の名前。


 (ランベルト・ヴェルツ)


 その名前に、心当たりがあった。


 妹の麻衣に、ゲームを一周させられたことがある。


 確か去年だ。「お兄ちゃんも乙女ゲームってどんなものか知っておきなよ」という、よくわからない理屈で押し切られた。仕方なく一周した。攻略対象が何人かいて、ヒロインがそのうちの誰かと恋愛する、そういうゲームだった。


 ゲームの名前は、確か、『Eternal Crown』。


 そのゲームに、こんな名前のキャラクターがいた。


 (ランベルト・ヴェルツ。そういう名前のキャラが、確かにいた)



 記憶を掘り返そうとした。しかし、ゲームの内容はそんなに覚えていない。攻略に集中していたし、正直なところ途中から流し読みをしていた。



 そこまでは出てきた。しかし、そこから先が出てこない。


 (このキャラ、どういう役割だったか)


 (……思い出せない)



 攻略対象だったか? 違う気がする。ヒロインと恋愛するシーンがあったか? なかった気がする。主要なキャラクターだったか?


 (……覚えていない)



 ここで気づいた。


 何かを覚えていないということは、そのキャラクターがプレイ中に「印象に残らなかった」ということだ。物語において重要だったなら、何かしら記憶しているはずだ。


 覚えていない。


 つまり、重要じゃなかった。


 (……妹が何か言ってたな、このキャラのこと)



 絞り出すように記憶を探った。確か麻衣が、攻略対象でもない男のキャラについて、何か言っていた。


 なんだったか。


 確か……「このキャラ、いる意味あるの?」とか、そういうニュアンスのことを言っていた気がする。あるいは「すぐいなくなるじゃん」とか、そういうことだったかもしれない。正確には覚えていない。


 (すぐいなくなる、か)



 鏡の中の顔を見た。


 端正な顔が、無表情でこちらを見ている。


 (つまり俺は今、ゲームの中の、たぶん退場するキャラに入っている)


 (「たぶん」だが、「たぶん」を覆すだけの記憶がない)


 (サラリーマン的な判断をしよう。不確かな情報でも、決断しなければならないときがある)



 一秒で結論を出した。


 逃げる。


 (詳細がわからないなら、関わらないのが最善だ)



 部屋を出ると、廊下に年配のメイドが立っていた。


 白髪交じりの髪を丁寧に結い上げ、背筋を真っ直ぐに保った、穏やかな女性。ランベルトの記憶に「エマ」という名前が残っている。


 エマは俺を見た瞬間、表情を微かに緩めた。


 そして、俺の少し横あたりをじっと見ながら、ニコニコし始めた。


 (なんだ)



 振り向いた。壁だ。何もない。


 エマはまだニコニコしている。どこを見ているのか正確にはわからないが、非常に満足そうな顔をしている。


 (……まあいい)



「エマさん」と呼んだ。エマは少し目を丸くしてから、「はい、坊ちゃま」と答えた。


「領地の別荘に移る。今日中に準備してほしい」


「……別荘に、でございますか」


「そうだ。しばらくあちらで過ごす」


 エマはまた俺の横あたりをちらりと見た。それからまた微笑んだ。今度の笑みは、さっきより少しだけ深かった気がした。


「……承知いたしました」


 (なぜそんな顔をするんだ、エマさん)



 出発の準備が始まった。


 俺は窓の外を見ながら逃亡計画を立てた。ゲームの舞台となる王都から、できる限り離れた場所。ランベルトの記憶の中に、辺境に小さな農村の別荘があった。そこなら物語は届かない。関わらなければ、退場するキャラは退場しないまま終わるはずだ。


 (野菜でも育てよう。大根とか。大根は裏切らない)



 問題は、出発の直前に起きた。


 玄関で馬車を待っていたとき、廊下の向こうから足音がした。


 顔を向けた。


 銀髪の少女が歩いてきた。


 十六歳くらいだろうか。清楚な貴族令嬢の衣装を着こなして、背筋を伸ばして、口元に淑やかな微笑みを張り付かせている。


 その顔を、俺は知っていた。


 (麻衣)



 妹の顔だ。二十九歳のフリーランスデザイナー、乙女ゲームオタクの、柴田麻衣の顔だ。


 中に入っているのが麻衣だと、理屈ではなくわかった。二十九年間、妹の顔を見続けてきた人間には、わかった。


 少女は俺を見た。


 一歩手前で止まった。笑顔が、コンマ一秒だけ、揺れた。


 声に出してはいけない。


 ここが乙女ゲームの世界なら、元の世界から来たなどと言えるはずがない。誰かに聞かれたら終わりだ。麻衣もそれをわかっているから、あの顔のまま止まっている。


 だから、ただ見た。


 少女も、ただ見た。


 それで十分だった。


「リリア様、お見送りに参られたのですか」


 エマがそう言った。少女はゆっくりと頷いた。


「ええ。ランベルト様の旅路が、穏やかでありますように」


 声まで完璧な令嬢だった。さすが麻衣だと思った。


 俺は頭を下げた。礼儀として。それと、顔を見ていると何か言いたくなりそうだったから。


 馬車に乗り込む直前、振り返った。


 少女はまだそこに立っていた。完璧な微笑みのまま。


 ただその目だけが、静かに言っていた。


 ――頼んだよ、お兄ちゃん。



 農村の別荘は、静かだった。


 王都から馬車で半日。畑と林と、あとはただの空。ゲームのシナリオとやらが届かない距離、だと思う。たぶん。確信はないが、選択肢の中でここが一番マシだと判断した。


 完璧ではないが、最善だ。


 翌朝、畑に出た。


 使用人の話では、前の当主が趣味で耕していた畑が残っているらしい。荒れていたが、手を入れれば使える。大根の種が物置にあった。


 (大根。いい。大根は複雑なことを言わない)



 静かに種を埋めていると、体の力が抜けた。農作業の経験はないが、土を触っていると妙に落ち着く。これがランベルトの記憶にある趣味か、それとも前世の家庭菜園の記憶か、どちらかわからない。どちらでもよかった。


 ここで生きていける。


 大根を育てて、野菜を食べて、物語に関わらず静かに一生を終える。退場するキャラが退場しなければ、それでいい。


 (たぶん、これでいい)



 そのとき、後ろから声がした。


「……あなた、ここに住んでるんですか?」


 振り返った。


 畑の縁に、知らない女が立っていた。


 ショートヘアに飾り気のない服。こちらをまっすぐ見ている。好奇心なのか疑念なのか、よくわからない目をしている。


 ゲームに出てきたキャラクターか、記憶を照合しようとした。


 (……わからない)



 1周しかしていないゲームの記憶は、そんなに頼りにならなかった。


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