ケーキ作りとプレゼント(完)
やってきた週末、ヤンはいつになく早起きをしていた。
窓の外はまだ薄く灰色を帯び、街は静まり返っていた。
しかしその胸の内には、小さな炎が灯っていた。
今日はシズルと一緒に、ケーキを作る日でもあったのだ。
それだけのことが、どうしようもなく嬉しくもあり、不安でもあった。
料理が苦手な自らが足を引っ張らないだろうか、迷惑をかけるのではないのかと。
そのような思いが胸の中で渦を巻きつつも、小さな耳はわずかに赤く染まっていた。
昼過ぎ、シズルと合流したヤンは並んでスーパーを歩いていた。
「小麦粉、砂糖、卵。生クリームといちごに……」
シズルがかごに材料を入れていくたびに、ヤンの胸はどきどきと音をたてる。
「ヤン、泡立て器って知ってる?」
「……名前は知ってる」
「じゃあ、大丈夫だな。やりかた教えるから、あとで手伝ってほしいんだ」
シズルはいつもより、楽しげな笑みを浮かべていた。
その笑みだけで、緊張していた心がほどけていくようでもあった。
買い物を終え、シズルの部屋へと戻る。
テーブルの上に材料が並ぶと、まるでそこだけが特別な場所であるかのように明るく見えていた。
「まずは、生地を混ぜようか」
「任せてくれ。力仕事なら得意だ」
「ありがとう。じゃあ俺は、オーブンの準備しておくよ」
張り切るヤンの姿に、シズルは笑みを深めていた。
しかし必死に混ぜるヤンの腕には筋肉が浮かび、真剣そのものの表情が並外れた迫力を醸し出していた。
「ヤン、そんなに力こめなくてもいいって!」
そのギャップに、シズルはとうとう吹き出してしまう。
だがヤンは、何がいけないのかと眉を寄せる。
「笑うな……。俺は、本気でやってるんだ」
「ごめんごめん、でも……。ヤンってほんと、面白いな」
その言葉に、ヤンは耳を真っ赤に染める。
その姿がたまらなく愛おしく思えてしまい、シズルは手を伸ばしてしまう。
「ちょっと、いい?」
背後からそっと手を重ね、ヘラを軽く動かしてみせる。
「こう、空気を含ませるように……そっとでいいんだ」
シズルのあたたかな温度が腕から流れ込み、ヤンの胸はどきりと高鳴る。
やがて手元の混ぜるリズムは、二人の呼吸と重なっていく。
「……そうそう、いいかんじ」
「……シズル、近い」
「えっ、……だめ?」
そうヤンの顔を覗き込むシズルの瞳に、ヤンの指は止まってしまう。
「こうしてヤンと一緒に何かできるのって、すっごく楽しいんだ」
その屈託のない笑みに、胸の奥はひどく熱くなる。
ヤンはぽつりと、呟いた。
「俺も、楽しい」
「それなら、よかった」
仕上げた生地を型に流し込み、余熱をしておいたオーブンに入れる。
焼き上がるまでの時間、二人は床に座り込み、寄りかかるようにして肩を触れ合わせていた。
「いい匂いがしてきたな」
「……そうだな」
「成功してるといいな……」
「失敗したら、俺が全部食べる」
「えっ、ヤンだけずるい!俺も食べるよ」
「シズルの、誕生日ケーキなんだぞ?……綺麗なものを食べさせたい」
「ヤン……」
やがて、タイマーの音が鳴り響く。
ふわりと膨らんだスポンジを取り出すと、二人は思わず目を合わせて笑った。
「成功、だな」
「よかった。ヤンのおかげだよ!」
次は、デコレーションである。
生クリームを泡立てなくてはならないのだが、シズルが最初に手本を見せ、途中からヤンに泡立て器を任せていた。
「こうか?」
「そうそう、上手!ヤン、お菓子作りの才能あるんじゃない?」
「シズルの教え方が、上手いからだ」
出来上がったクリームを塗り、いちごを飾る。
小さく不格好であるものの、立派なショートケーキが完成したのであった。
「おいしそう、いただきます!」
フォークを入れて、一口。
二人はほぼ同時に、笑みをこぼしていた。
「……うまい」
「とっても美味しいよ。へへ、ヤンと一緒に作ったからかな?」
その言葉に、ヤンは目を伏せて小さく呟いた。
「俺も、そう思う。……シズルとだから、できた」
シズルはそっと、ヤンの手を握った。
「ありがとう。最高の誕生日プレゼントだよ!」
ヤンもゆっくりと、その手を握り返していた。
「シズル、おめでとう。俺も、楽しかったし……。幸せだ」
二人でケーキを食べ終えた後、ヤンは少し落ち着かない様子で小さな黒い箱をテーブルの上に置いていた。
「これ、よかったら。さすがにケーキ作りだけじゃ、俺の気が済まなくて……」
「えっ、プレゼント?」
「開けてみて」
シズルは目を見開きながらも、慎重にリボンを解いていく。
中から現れたのは、丁寧に作られた レザーのパスケースであった。
柔らかな深緑色に、控えめな銀のステッチが走る。
そしてその隣には、同じデザインの黒色のパスケースが入っていた。
「……お揃いってこと?」
思わず、シズルの声は震えていた。
「その……、毎日持ち歩けて、邪魔にならなくて……。シズルと、お揃いにしたいと思ったんだ」
ヤンは真正面から、シズルのことを見つめて言った。
「物が増えるのが嫌なら、使わなくてもいい。でも……、選びたかった。誕生日に、ちゃんと何か渡したかったんだ」
シズルはしばらく言葉を失い、指先で革の手触りを確かめていた。
それは温かく柔らかく、胸の奥まで染み渡るようでもあった。
そして片方の深緑色に、ヤンの草原のような香りと光を受けると銀に輝く毛並みを重ねてしまう。
「ヤン」
シズルは立ち上がり、ゆっくりとヤンの横に座り直した。
そして、がばりと強くその身を抱きしめた。
「すっごく、嬉しいよ。……ありがとう!大事にする!ずっと使う」
ヤンの目がわずかに見開き、すぐに優しい光を宿す。
「本当に?」
「できれば、緑のほうがいい。ヤンだと思って、大事にするから!」
シズルは照れながら、ぐりぐりと顔を胸元に押し付けた。
ヤンもまた、シズルの髪を静かに撫でる。
「ああ、そうだ。黒いほうは……、シズルみたいだと思ったんだ」
さらりと揺れるシズルの黒い髪に、ヤンは目を細めていた。
***
翌日、いつもより早く駅に着き、シズルはあるものを取り出していた。
それは昨日、ヤンから贈られたばかりの深緑のパスケースであったのだ。
革のまだ硬い感触が、指先に確かにその存在を伝えてくる。
思わず、笑みがこぼれた。
満員電車に揺られながらも、気持ちはどこかふわふわと浮いていた。
会社に到着すれば、いつも通りの朝礼と、いつも通りの書類の山が待っていた。
しかしヤンの心も、昨日の温もりをそのまま抱え続けていた。
黒いパスケースは、胸ポケットから少しだけ顔を出していた。
周囲は誰も、それに気づくことはない。
同僚は冗談を言いながら書類を持っていき、上司はいつも通り厳しい表情で指示を出していた。
世界は何も、変わらずに回っている。
しかし、シズルとヤンだけは知っていた。
この小さな革の温度は、確かな愛の印なのだと。
「ヤン、おはよう」
「シズル、おはよう。今日はやけに早いな」
「……その、早く電車に乗っちゃってさ」
そうシズルは、パスケースを取り出してみせる。
ヤンもまた、胸元を叩いて微笑んでみせた。
二人は今日も、幸せであった。
END
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。




