草原の香り
翌朝、出社するとフロア全体が華やかな香りに包まれていた。
嗅ぎ慣れないその匂いは、甘い花の香りのような、あるいは香水であるかのような強い匂いでもあったのだ。
デスクに近づくにつれ、その匂いは濃くなっていく。
嫌な記憶にまさかと思い近づけば、やはりその発生源は、ヤンであった。
ヤンはもともと、草原のような香りを身にまとっていた。
しかし今は、満開の花畑のような強い匂いがその毛から漂っていたのだ。
「おはよう、ヤン」
「おはよう。シズル」
皆が鼻をつまむ中、ヤンだけは誇らしげな顔をしてシズルに向けてわずかに口角を上げていた。
「風呂に、入ったぞ」
シズルは無言でヤンの腕を引き、思うよりも先に誰もいない会議室へとその身を連れ込む。
「正直に、言ってもいい?」
「……ああ」
「くさい」
ヤンは目を丸くして、耳をしゅんと垂らしてしまう。
「……やはりそうか。シャンプーを、使いすぎたんだ」
しかし、シズルは肩を叩いて褒めてみせる。
「でも、風呂に入ったのはえらいな。ほんと、すごいよ!ヤン」
その言葉に、ヤンは目を細めて喜んだ。
***
その日を境に、ヤンの匂いは少しずつ落ち着いていくこととなる。
仕事終わりや休日に、シズルは掃除の進捗確認としてしばしばヤンの家へと呼ばれていた。
その部屋は次第に生まれ変わり、やがてさっぱりと整った空間に変わっていく。
「そもそも、どうしてこうなったんだ?」
そう尋ねると、ヤンはぽつりと語りはじめた。
「……昔、付き合っていた彼女がいたんだ」
その彼女は、とても綺麗好きであったのだと。
埃ひとつ許さず、ヤンの毛も常に手入れをしていたそうだ。ヤンも気を遣い、彼女のために清潔な家であろうと努力をしていた。
しかし別れてしまった途端に、部屋は少しずつ汚くなっていく。
思い出の品も捨てることができず、これまで気を遣っていた反動がきたのか風呂に入ることさえも億劫になってしまう。
ついには全てを諦め、あの惨状が生まれてしまったとのことであった。
シズルは静かに話を聞きながらも、かつてのヤンの彼女に対してわずかな嫉妬心を抱えていた。
「俺だって、ヤンの毛の手入れくらいしてあげるけど?」
そっと指を伸ばし、ふわふわと白いヤンの毛に触れた。
しかしヤンは驚き、距離をとる。
「えっ……」
その反応に、シズルは大切なことを思い出す。
連日の訪問で忘れていたが、シズルはヤンの告白を保留にしていたのだと。
「ごめんごめん。……俺だって、ヤンのことが好きなんだよ?」
そう笑いながら、ヤンの毛に手を埋める。
「えっ、待って……本当に?」
「本当だよ。じゃなきゃ、部屋まで行かない」
静かに抱きしめ、ヤンの胸元に顔を埋めればほんのりと草原の匂いがした。
それはあたたかく、優しく、ヤンの性格を表したかのような香りでもあったのだ。
ヤンもまた、おずおずとシズルの背に腕を回してみる。
その感触に顔を見上げたシズルは、にこやかな笑みを浮かべた。
普段はどのような状況においても決して顔色を変えないヤンが、今はかすかな笑みを浮かべていたからだ。
長く整えられた睫毛が震え、黒曜石のような瞳が揺れていた。
「……本当に、俺でいいのか?」
「ああ、そうだよ」
シズルは顔を近づけ、額をこつりと合わせてみた。
「ヤンだから、いいんだよ」
しばらく、沈黙が落ちる。
ヤンの胸の鼓動が、規則正しくシズルの胸へと伝わるようでもあった。
やがて、ヤンはかすかに息を吸う。
「……嬉しい、すごく」
その声は、ひどく小さく弱いものであった。
その弱さに、シズルの中の何かがくすぐられてしまう。
「ヤン……!」
しかし抱きしめた腕に力を込めようとしたそのとき、ヤンは急に体を離してしまう。
「待ってくれ。今はまだ、近づかない方がいいんだった」
「えっ?」
「俺……。まだ、完全に綺麗じゃないと思う」
その言葉に、シズルは思わず噴き出した。
「ははっ、なんだよそれ!いまさら?」
「いまさらとかじゃない。毛に、匂いが残りやすいんだ」
「そうかな?俺、ヤンの匂い好きだけど?」
「……っ、」
すんとシズルが匂いを嗅ぐ真似をすれば、ヤンの耳はぴんと立ち、みるみる真っ赤に染まっていく。
感情が顔に出ないと言われていた男は、実はとてもわかりやすいところがあったのだ。
そのことに笑みを浮かべながら、シズルは胸いっぱいにヤンの匂いを吸い込んだ。
「ヤンみたいに、あったかくて優しい匂いがするんだ」
そう笑うシズルに向けて、ヤンは正直に打ち明ける。
「最後に風呂入ったの、二日前」
「えっ、」
その言葉に、シズルは一瞬固まってしまう。
しかし獣人は毎日風呂に入ることが稀であるという情報を思い出し、再び強くその身を抱き寄せた。
「おい、」
「それでも、いいよ。前よりも入るようになったじゃないか、えらいえらい!」
「シズル……」
「ヤン、大好き!」
実際はただの怠惰なだけであったのだが、シズルの大いなる優しさに免じてヤンはそれ以上何も言うことはなかった。
明日こそは風呂に入るのだと、静かに心の中で誓って。




