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ナラティブ・ヴェリタス  作者: 道民Xフォローして
【ナラティブ・ヴェリタス/NARRATIVE VERITAS】
97/218

●第3話:Ruined Country Awakening Catharsis

主題歌:.hack//Roots/亡國覚醒カタルシス

https://youtu.be/QRg_H2DRNAU?si=W0YWFD9TyrGnMosL

雨が降り始めた。

ナラは、スラムの迷路を走った。

息が切れる。足がもつれる。

腕の中の赤子は、驚くほど軽かった。

けれど、ナラにとっては、世界で一番重い荷物だった。

それは、彼女自身の「存在の重み」だったから。


(……どうすればいい?)


走りながら、ナラは自問した。

この子をどうする?

育てるのか? 私が私を?

歴史が変わってしまうかもしれない。タイムパラドックスが起きるかもしれない。

本来の歴史では、私はこの後、どうやって生き延びたのだろうか?エラーラに拾われるまで、どうやって命を繋いだのか?

わからない。記憶が欠落している。

けれど、確かなことが一つある。

あのまま母親の元にいたら、この子は死んでいた。

あるいは、心が死んで、ただの肉塊になっていた。

ナラは、廃ビルの軒下に逃げ込んだ。

雨を避けるためだ。

ナラは、濡れた自分のコートを脱ぎ、赤子を包んだ。

そして、傷口を見た。

太ももの刺し傷。血は止まらない。


「……痛いね。ごめんね」


ナラは、自分のドレスの裾を裂き、包帯代わりにして傷を縛った。

かつて、自分が受けた痛み。

それを今、大人の自分が手当てしている。


「……あ……」


初めて、赤子が声を出した。

それは、泣き声ではなかった。

安堵の吐息のような、微かな音。

ナラは、こらえきれずに泣いた。

赤子の額に、自分の額を押し付けて。


「大丈夫……大丈夫よ。私がついてる」


それは、かつての自分が、誰かに言って欲しかった言葉。

孤独な夜に、泥の中で震えながら、誰かが来てくれることを祈り続けた、あの日の自分への答え。


「あんたは……あんたは、生きてていいのよ」


ナラの涙が、赤子の頬を濡らす。

赤子の小さな手が、ナラの頬に触れた。

冷たくて、汚れた手。

でも、それは確かに、世界のすべてが敵になったとしても、最期まで自分を肯定してくれる「自分自身」の温もりだった。

雨音だけが響く廃墟。

未来の自分と、過去の自分が、互いを抱きしめ合って震えている。

そこには、ただ、傷ついた魂が、自分自身を救済しようとする、切実で静かな祈りだけがあった。

ナラは、赤子を抱いたまま、立ち上がった。

ナラは、雨の中へと踏み出した。

世界中の色が灰色に塗り潰され、叩きつける雨粒が、ナラティブ・ヴェリタスの肌を打つ。

彼女は泥濘の中を歩いていた。

足元は汚水と排泄物、そして誰かの死骸が混ざり合ったヘドロだ。一歩進むたびに、粘着質な泥が足首を掴み、「行くな」と引き留めるように絡みつく。

ナラの腕の中には、薄汚れたボロ布に包まれた赤子がいた。

つい先刻、狂った母親から奪い取った、1歳にも満たない小さな「私」の命。

そして、過去の「私」自身。

赤子は、ナラの体温を感じて、微かに震えていた。


(……どこへ行く?)


ナラは、自問した。

このまま王都へ連れて帰るか?

いや、それはできない。

未来の因果が変わってしまう。

それに、ここは国境を越えた紛争地帯。王都までは数千キロ。移動手段もない。今のナラの体力と魔力では、この子を守りながら国境を越えることは不可能だ。

では、現地の孤児院に預けるか?

それも駄目だ。この国の孤児院とは名ばかりの収容所だ。飢餓と病気が蔓延し、子供たちは次々と死んでいくか、少年兵として売り飛ばされる。

ナラには、行くべき場所が分かっていた。

記憶の底。

幼い頃、自分が育った場所。

物心ついた時、最初に天井を見上げた場所。

そこに、行かなければならない。

ナラは、スラム街の最奥、赤い提灯が雨に濡れて揺れる一角へと足を踏み入れた。

そこは、掃き溜めの中の掃き溜め。

人間の尊厳が通貨として流通し、消費される場所。


――売春宿街。


ナラの足が、ある一軒の店の前で止まった。

ボロボロの看板には、塗装の剥げた文字で『黒猫の館』と書かれている。

記憶にある店名と同じだった。


「……ここだ」


ナラは、胸が張り裂けそうになるのを感じた。

入りたくない。

この子を、こんな地獄に入れたくない。

だが、ここ以外に、この子が「明日まで生き延びる」場所はないことを、ナラは知っていた。

ここは地獄だ。だが、屋根がある。粗末だが飯が出る。そして、商品としての価値がある限り、簡単には殺されない。

ナラは、震える手で、重い木製の扉を押し開けた。


店の中は、外の冷気とは対照的に、むっとするような湿気と熱気、そして安っぽい香水と体臭が混ざった饐えた臭いが充満していた。

薄暗いロビー。

奥のカウンターに、一人の太った女が座っていた。

派手な化粧、ジャラジャラとついた偽物の宝石。

女将だ。


「……なんだい、あんた。水浸しじゃないか」


女将は、気怠げに煙管をふかしながらナラを見た。

ナラのドレスはボロボロで、泥と血にまみれている。だが、その生地が上等なものであることと、ナラ自身が放つ異質な気配を、女将は鋭く見抜いた。


「客…じゃあないね?」


ナラは、腕の中の包みを差し出した。

ボロ布の隙間から、赤子の顔が見える。


「……この子を、置いていきたいの」


女将の目が、細められた。

彼女はゆっくりと立ち上がり、ナラに近づいた。そして、赤子の顔を覗き込み、無造作に布をめくって体を確認した。


「……痩せてるね。栄養失調だ。傷もある」


女将は、赤子の太ももにある刺し傷を指でなぞった。

赤子がビクリと震える。


「でも、顔立ちは悪くない」


「……ええ」


「で? いくらだい?」


女将は、商談の顔になった。

ナラは首を横に振った。


「金はいらない。」


女将は、怪訝そうな顔をした。

通常、ここに来る親は、子供を売って金を得ようとする。無料で置いていくというケースは稀だ。


「訳ありかい。……まあいい」


女将は、赤子をナラの腕からひったくった。

あっけないほど、すんなりと。

赤子がナラから離れる瞬間、小さな手がナラの指を握ろうとして──空を掴んだ。


「……頼むわ」


「ああ。死なせはしないよ。元が取れるまではね」


女将は赤子を抱えて、奥の部屋へと歩き出した。

その背中を見ながら、ナラは立ち尽くしていた。


これでいい。

これで、歴史は繋がった。

この赤子は、この店で下働きとしてこき使われ、泥水を啜り、客の残飯を漁り――未来から来たエラーラ・ヴェリタスに拾われる。

それが、ナラが歩んできた「正史」だ。

ここに入れなければ、エラーラと出会う未来は消滅する。

だが。

ナラの心は、千切れそうに痛かった。


(……私が、憎んでいたのは)


ナラはずっと、自分の母親を憎んでいた。

「私をこんな店に売り飛ばした鬼」として。

物心ついた時、自分はこの店にいた。だから、親が金のために自分を売ったのだと信じていた。

その憎しみが、ナラティブ・ヴェリタスという人間の根底にある「生きるエネルギー」だった。

けれど、真実は違った。


母親は、ナラを売ったのではない。殺そうとしたのだ。

そして、ナラをこの地獄のような売春宿に連れてきたのは――他ならぬ、未来の自分自身だったのだ。

自分が一番憎んでいた相手は、自分だった。

自分で自分を、地獄の底に突き落としたのだ。

この子がこれから味わう苦労。

寒さ、ひもじさ、暴力、屈辱。

その全てを知っていながら、ナラはこの子をここに置いた。

「未来のため」という大義名分で。

ナラは、心の中で過去の自分に謝罪した。

でも、これしかなかった。

この地獄を這い上がらなければ、私は、私になれない。

絶望と希望。

その二つは、メビウスの輪のようにねじれて繋がっていた。

自分を地獄に落とすことが、自分を救う唯一の道だなんて。


「……おい」


奥へ行きかけた女将が、ふと足を止めて振り返った。


「……この子の名前は?」


ナラは顔を上げた。

名前。

そういえば、あの狂った母親は、この子に名前すらつけていなかった。

「ゴミ」「寄生虫」と呼んでいただけだ。

ナラが自分の名前を知ったのは、この店で物心がついた時、名札に書かれていたからだ。

誰がつけたのかもわからない、その名前。

誰がつけたのかも、わからない。

……ナラは、唇を開いた。

その言葉が、歴史の最後のピースを、埋める。


「……ユリカ」


ナラは、はっきりと言った。


「その子の名前は、『ユリカ』よ」


女将は、「ふん」と鼻を鳴らした。

女将は赤子を揺すった。


「聞いたかい、ユリカ。今日からお前はウチの所有物だ。しっかり働くんだよ」


ユリカ。

それが、ナラティブと名乗る前の、本当の名前。

それをつけたのもまた、自分自身だったのだ。

最初から最後まで、私の人生は、私自身の意志によって紡がれていた。

誰のせいでもない。私『が』、私の人生(たたかい)を始めたのだ。

ナラは背を向けた。

振り返らない。

振り返れば、連れて帰りたくなる。

(このこ)の未来を、安易な優しさで歪めてしまう。

ナラは店の扉を開けた。

外は、相変わらずの豪雨だった。

世界を洗い流すような、轟音の雨。

私が店を出て、泥濘の中を数歩進んだ時だった。


ゴォォォォォォォォォォン……!


雨音とは違う、重低音が空から響いてきた。

私が空を見上げると、灰色の雲を突き破って、巨大な影が降下してくるのが見えた。

空間が歪む。

風景に溶け込んでいた光学迷彩が解除され、その全貌が露わになる。

流線型のフォルムを持つ、最新鋭の魔導飛行艇。

王都の科学技術の粋を集めた、エラーラ・ヴェリタスの愛機だ。

着陸脚も出さず、飛行艇は泥の上に浮遊状態で静止した。

ハッチが開く。

そこには、白衣を風になびかせたエラーラが立っていた。

エラーラは、私を見た。

そして、ナラが出てきた売春宿――『黒猫の館』を一瞥した。

エラーラは、何も聞かなかった。

彼女の天才的な頭脳は、瞬時に状況の全てを理解したのだ。

ナラが何をしたのか。

それが、どれほどの痛みを伴う決断だったのか。

エラーラは、無言でタラップを降りてきた。

泥水が白衣の裾を汚すが、彼女は気にしない。

彼女は、売春宿の入り口まで歩み寄った。

そして、閉ざされた扉に向かって、杖を掲げた。


「……お母様?」


「印だ。」


エラーラは短く言った。

彼女の杖の先から、複雑怪奇な幾何学模様の魔法陣が展開された。

魔法陣が、売春宿の建物全体を包み込み、そして吸い込まれるように消えた。


「……何をしたの?」


「『必然』の魔法をかけた」


エラーラは、杖を下ろした。


「この場所に、私の魔力の痕跡を刻み込んだ。……未来の私が、必ずこの場所を見つけ出し、必ず君を見つけ出すように」


ナラは、目を見開いた。

未来で、エラーラがスラム街の掃き溜めの中から、ナラ(ユリカ)を見つけ出したこと。

それは偶然ではなかった。

「気まぐれで散歩していたら見つけた」とエラーラは言っていたが、そうではなかったのだ。

過去のエラーラがかけた魔法が、未来のエラーラを呼び寄せた。

ナラが自分をここに置き、エラーラが迎えに来るフラグを立てた。

その二つが合わさって、初めて「ナラティブ・ヴェリタス」という奇跡が完成する。


「……これで、輪は閉じた」


エラーラは、私の方を向いた。

雨に濡れた顔で、優しく微笑んだ。


「……未来の私は、必ずここに来る。そして、必ずあの子を見つける。」


それは、世界で一番確かな約束だった。


「……うん」


ナラは、涙を堪えて頷いた。


「待ってるわ。……未来で、待ってる」


ナラは、店に向かって小さく手を振った。

壁の向こうで泣いているであろう、小さな自分に向かって。


『頑張れ。耐えろ。必ず、迎えが来るから』


「帰ろう、ナラ。」


エラーラが手を差し伸べる。

ナラはその手を取り、飛行艇へと乗り込んだ。

ハッチが閉まる。

外界の雨音と湿気が遮断され、空調の効いた快適な空気が満ちる。

ナラはコックピットの助手席に座り、シートベルトを締めた。


「出すぞ。……加速に耐えろ」


エラーラが操縦桿を引く。

スラスターが火を噴き、機体が急上昇を開始した。

窓の外を、雨と雲が猛スピードで流れ落ちていく。

重力が身体にかかる。

地上が、スラムが、あの売春宿が、急速に遠ざかっていく。

ナラは、窓に額を押し付けて、下界を見下ろした。

灰色の雲に覆われた、絶望の国。

あそこに、私の半分を置いてきた。

痛みと、憎しみと、そして希望の種を。

機体はさらに上昇する。

雨雲の中へ突入する。

暗闇。激しい揺れ。雷光。

それは、ナラがこれから歩む、あるいは歩んできた、苦難の人生そのものだった。


だが。

数秒後。

視界が一気に開けた。

機体が、雲海を突き抜けたのだ。


「……あ」


ナラは息を呑んだ。

そこには、嘘のように澄み渡った、突き抜けるような青空が広がっていた。

太陽が、眩しいほどの光を放っている。

眼下には、どこまでも続く白い雲の絨毯。

地上の嵐が嘘のような、静謐で、美しい世界。


「……綺麗」


ナラは呟いた。


「下はあんなに酷い雨なのに……」


「当然だ。」


エラーラは、計器を確認しながら淡々と言った。


「どんなに激しい嵐でも、その上には必ず太陽がある。」


エラーラは、ナラを見た。


「人生も同じだ。」


ナラは、涙を流しながら笑った。

そうか。

あの子(ユリカ=ナラ)も、いつかこの空を見るのだ。

泥の中から這い上がり、強くなって、この眩しい光の中に立つ日が来る。

私がそうであったように。


「……お母様」


「なんだ」


「お腹、空いた」


ナラは、お腹をさすった。

憑き物が落ちたように、急激な空腹感が襲ってきた。


「……王都に着いたら、何か、食べよう。何がいい?」


「脂っこい肉!あと甘いケーキ!」


ナラは、涙を拭って、背筋を伸ばした。

もう、後ろは振り返らない。

過去は定まった。未来は約束された。

ならば、今はただ、今日を生きるだけだ。

飛行艇は、太陽に向かって一直線に飛んでいく。

その軌跡は、絶望の地平から希望の空へと架かる、一本の白い橋のようだった。

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