●第3話:Ruined Country Awakening Catharsis
主題歌:.hack//Roots/亡國覚醒カタルシス
https://youtu.be/QRg_H2DRNAU?si=W0YWFD9TyrGnMosL
雨が降り始めた。
ナラは、スラムの迷路を走った。
息が切れる。足がもつれる。
腕の中の赤子は、驚くほど軽かった。
けれど、ナラにとっては、世界で一番重い荷物だった。
それは、彼女自身の「存在の重み」だったから。
(……どうすればいい?)
走りながら、ナラは自問した。
この子をどうする?
育てるのか? 私が私を?
歴史が変わってしまうかもしれない。タイムパラドックスが起きるかもしれない。
本来の歴史では、私はこの後、どうやって生き延びたのだろうか?エラーラに拾われるまで、どうやって命を繋いだのか?
わからない。記憶が欠落している。
けれど、確かなことが一つある。
あのまま母親の元にいたら、この子は死んでいた。
あるいは、心が死んで、ただの肉塊になっていた。
ナラは、廃ビルの軒下に逃げ込んだ。
雨を避けるためだ。
ナラは、濡れた自分のコートを脱ぎ、赤子を包んだ。
そして、傷口を見た。
太ももの刺し傷。血は止まらない。
「……痛いね。ごめんね」
ナラは、自分のドレスの裾を裂き、包帯代わりにして傷を縛った。
かつて、自分が受けた痛み。
それを今、大人の自分が手当てしている。
「……あ……」
初めて、赤子が声を出した。
それは、泣き声ではなかった。
安堵の吐息のような、微かな音。
ナラは、こらえきれずに泣いた。
赤子の額に、自分の額を押し付けて。
「大丈夫……大丈夫よ。私がついてる」
それは、かつての自分が、誰かに言って欲しかった言葉。
孤独な夜に、泥の中で震えながら、誰かが来てくれることを祈り続けた、あの日の自分への答え。
「あんたは……あんたは、生きてていいのよ」
ナラの涙が、赤子の頬を濡らす。
赤子の小さな手が、ナラの頬に触れた。
冷たくて、汚れた手。
でも、それは確かに、世界のすべてが敵になったとしても、最期まで自分を肯定してくれる「自分自身」の温もりだった。
雨音だけが響く廃墟。
未来の自分と、過去の自分が、互いを抱きしめ合って震えている。
そこには、ただ、傷ついた魂が、自分自身を救済しようとする、切実で静かな祈りだけがあった。
ナラは、赤子を抱いたまま、立ち上がった。
ナラは、雨の中へと踏み出した。
世界中の色が灰色に塗り潰され、叩きつける雨粒が、ナラティブ・ヴェリタスの肌を打つ。
彼女は泥濘の中を歩いていた。
足元は汚水と排泄物、そして誰かの死骸が混ざり合ったヘドロだ。一歩進むたびに、粘着質な泥が足首を掴み、「行くな」と引き留めるように絡みつく。
ナラの腕の中には、薄汚れたボロ布に包まれた赤子がいた。
つい先刻、狂った母親から奪い取った、1歳にも満たない小さな「私」の命。
そして、過去の「私」自身。
赤子は、ナラの体温を感じて、微かに震えていた。
(……どこへ行く?)
ナラは、自問した。
このまま王都へ連れて帰るか?
いや、それはできない。
未来の因果が変わってしまう。
それに、ここは国境を越えた紛争地帯。王都までは数千キロ。移動手段もない。今のナラの体力と魔力では、この子を守りながら国境を越えることは不可能だ。
では、現地の孤児院に預けるか?
それも駄目だ。この国の孤児院とは名ばかりの収容所だ。飢餓と病気が蔓延し、子供たちは次々と死んでいくか、少年兵として売り飛ばされる。
ナラには、行くべき場所が分かっていた。
記憶の底。
幼い頃、自分が育った場所。
物心ついた時、最初に天井を見上げた場所。
そこに、行かなければならない。
ナラは、スラム街の最奥、赤い提灯が雨に濡れて揺れる一角へと足を踏み入れた。
そこは、掃き溜めの中の掃き溜め。
人間の尊厳が通貨として流通し、消費される場所。
――売春宿街。
ナラの足が、ある一軒の店の前で止まった。
ボロボロの看板には、塗装の剥げた文字で『黒猫の館』と書かれている。
記憶にある店名と同じだった。
「……ここだ」
ナラは、胸が張り裂けそうになるのを感じた。
入りたくない。
この子を、こんな地獄に入れたくない。
だが、ここ以外に、この子が「明日まで生き延びる」場所はないことを、ナラは知っていた。
ここは地獄だ。だが、屋根がある。粗末だが飯が出る。そして、商品としての価値がある限り、簡単には殺されない。
ナラは、震える手で、重い木製の扉を押し開けた。
店の中は、外の冷気とは対照的に、むっとするような湿気と熱気、そして安っぽい香水と体臭が混ざった饐えた臭いが充満していた。
薄暗いロビー。
奥のカウンターに、一人の太った女が座っていた。
派手な化粧、ジャラジャラとついた偽物の宝石。
女将だ。
「……なんだい、あんた。水浸しじゃないか」
女将は、気怠げに煙管をふかしながらナラを見た。
ナラのドレスはボロボロで、泥と血にまみれている。だが、その生地が上等なものであることと、ナラ自身が放つ異質な気配を、女将は鋭く見抜いた。
「客…じゃあないね?」
ナラは、腕の中の包みを差し出した。
ボロ布の隙間から、赤子の顔が見える。
「……この子を、置いていきたいの」
女将の目が、細められた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、ナラに近づいた。そして、赤子の顔を覗き込み、無造作に布をめくって体を確認した。
「……痩せてるね。栄養失調だ。傷もある」
女将は、赤子の太ももにある刺し傷を指でなぞった。
赤子がビクリと震える。
「でも、顔立ちは悪くない」
「……ええ」
「で? いくらだい?」
女将は、商談の顔になった。
ナラは首を横に振った。
「金はいらない。」
女将は、怪訝そうな顔をした。
通常、ここに来る親は、子供を売って金を得ようとする。無料で置いていくというケースは稀だ。
「訳ありかい。……まあいい」
女将は、赤子をナラの腕からひったくった。
あっけないほど、すんなりと。
赤子がナラから離れる瞬間、小さな手がナラの指を握ろうとして──空を掴んだ。
「……頼むわ」
「ああ。死なせはしないよ。元が取れるまではね」
女将は赤子を抱えて、奥の部屋へと歩き出した。
その背中を見ながら、ナラは立ち尽くしていた。
これでいい。
これで、歴史は繋がった。
この赤子は、この店で下働きとしてこき使われ、泥水を啜り、客の残飯を漁り――未来から来たエラーラ・ヴェリタスに拾われる。
それが、ナラが歩んできた「正史」だ。
ここに入れなければ、エラーラと出会う未来は消滅する。
だが。
ナラの心は、千切れそうに痛かった。
(……私が、憎んでいたのは)
ナラはずっと、自分の母親を憎んでいた。
「私をこんな店に売り飛ばした鬼」として。
物心ついた時、自分はこの店にいた。だから、親が金のために自分を売ったのだと信じていた。
その憎しみが、ナラティブ・ヴェリタスという人間の根底にある「生きるエネルギー」だった。
けれど、真実は違った。
母親は、ナラを売ったのではない。殺そうとしたのだ。
そして、ナラをこの地獄のような売春宿に連れてきたのは――他ならぬ、未来の自分自身だったのだ。
自分が一番憎んでいた相手は、自分だった。
自分で自分を、地獄の底に突き落としたのだ。
この子がこれから味わう苦労。
寒さ、ひもじさ、暴力、屈辱。
その全てを知っていながら、ナラはこの子をここに置いた。
「未来のため」という大義名分で。
ナラは、心の中で過去の自分に謝罪した。
でも、これしかなかった。
この地獄を這い上がらなければ、私は、私になれない。
絶望と希望。
その二つは、メビウスの輪のようにねじれて繋がっていた。
自分を地獄に落とすことが、自分を救う唯一の道だなんて。
「……おい」
奥へ行きかけた女将が、ふと足を止めて振り返った。
「……この子の名前は?」
ナラは顔を上げた。
名前。
そういえば、あの狂った母親は、この子に名前すらつけていなかった。
「ゴミ」「寄生虫」と呼んでいただけだ。
ナラが自分の名前を知ったのは、この店で物心がついた時、名札に書かれていたからだ。
誰がつけたのかもわからない、その名前。
誰がつけたのかも、わからない。
……ナラは、唇を開いた。
その言葉が、歴史の最後のピースを、埋める。
「……ユリカ」
ナラは、はっきりと言った。
「その子の名前は、『ユリカ』よ」
女将は、「ふん」と鼻を鳴らした。
女将は赤子を揺すった。
「聞いたかい、ユリカ。今日からお前はウチの所有物だ。しっかり働くんだよ」
ユリカ。
それが、ナラティブと名乗る前の、本当の名前。
それをつけたのもまた、自分自身だったのだ。
最初から最後まで、私の人生は、私自身の意志によって紡がれていた。
誰のせいでもない。私『が』、私の人生を始めたのだ。
ナラは背を向けた。
振り返らない。
振り返れば、連れて帰りたくなる。
私の未来を、安易な優しさで歪めてしまう。
ナラは店の扉を開けた。
外は、相変わらずの豪雨だった。
世界を洗い流すような、轟音の雨。
私が店を出て、泥濘の中を数歩進んだ時だった。
ゴォォォォォォォォォォン……!
雨音とは違う、重低音が空から響いてきた。
私が空を見上げると、灰色の雲を突き破って、巨大な影が降下してくるのが見えた。
空間が歪む。
風景に溶け込んでいた光学迷彩が解除され、その全貌が露わになる。
流線型のフォルムを持つ、最新鋭の魔導飛行艇。
王都の科学技術の粋を集めた、エラーラ・ヴェリタスの愛機だ。
着陸脚も出さず、飛行艇は泥の上に浮遊状態で静止した。
ハッチが開く。
そこには、白衣を風になびかせたエラーラが立っていた。
エラーラは、私を見た。
そして、ナラが出てきた売春宿――『黒猫の館』を一瞥した。
エラーラは、何も聞かなかった。
彼女の天才的な頭脳は、瞬時に状況の全てを理解したのだ。
ナラが何をしたのか。
それが、どれほどの痛みを伴う決断だったのか。
エラーラは、無言でタラップを降りてきた。
泥水が白衣の裾を汚すが、彼女は気にしない。
彼女は、売春宿の入り口まで歩み寄った。
そして、閉ざされた扉に向かって、杖を掲げた。
「……お母様?」
「印だ。」
エラーラは短く言った。
彼女の杖の先から、複雑怪奇な幾何学模様の魔法陣が展開された。
魔法陣が、売春宿の建物全体を包み込み、そして吸い込まれるように消えた。
「……何をしたの?」
「『必然』の魔法をかけた」
エラーラは、杖を下ろした。
「この場所に、私の魔力の痕跡を刻み込んだ。……未来の私が、必ずこの場所を見つけ出し、必ず君を見つけ出すように」
ナラは、目を見開いた。
未来で、エラーラがスラム街の掃き溜めの中から、ナラ(ユリカ)を見つけ出したこと。
それは偶然ではなかった。
「気まぐれで散歩していたら見つけた」とエラーラは言っていたが、そうではなかったのだ。
過去のエラーラがかけた魔法が、未来のエラーラを呼び寄せた。
ナラが自分をここに置き、エラーラが迎えに来るフラグを立てた。
その二つが合わさって、初めて「ナラティブ・ヴェリタス」という奇跡が完成する。
「……これで、輪は閉じた」
エラーラは、私の方を向いた。
雨に濡れた顔で、優しく微笑んだ。
「……未来の私は、必ずここに来る。そして、必ずあの子を見つける。」
それは、世界で一番確かな約束だった。
「……うん」
ナラは、涙を堪えて頷いた。
「待ってるわ。……未来で、待ってる」
ナラは、店に向かって小さく手を振った。
壁の向こうで泣いているであろう、小さな自分に向かって。
『頑張れ。耐えろ。必ず、迎えが来るから』
「帰ろう、ナラ。」
エラーラが手を差し伸べる。
ナラはその手を取り、飛行艇へと乗り込んだ。
ハッチが閉まる。
外界の雨音と湿気が遮断され、空調の効いた快適な空気が満ちる。
ナラはコックピットの助手席に座り、シートベルトを締めた。
「出すぞ。……加速に耐えろ」
エラーラが操縦桿を引く。
スラスターが火を噴き、機体が急上昇を開始した。
窓の外を、雨と雲が猛スピードで流れ落ちていく。
重力が身体にかかる。
地上が、スラムが、あの売春宿が、急速に遠ざかっていく。
ナラは、窓に額を押し付けて、下界を見下ろした。
灰色の雲に覆われた、絶望の国。
あそこに、私の半分を置いてきた。
痛みと、憎しみと、そして希望の種を。
機体はさらに上昇する。
雨雲の中へ突入する。
暗闇。激しい揺れ。雷光。
それは、ナラがこれから歩む、あるいは歩んできた、苦難の人生そのものだった。
だが。
数秒後。
視界が一気に開けた。
機体が、雲海を突き抜けたのだ。
「……あ」
ナラは息を呑んだ。
そこには、嘘のように澄み渡った、突き抜けるような青空が広がっていた。
太陽が、眩しいほどの光を放っている。
眼下には、どこまでも続く白い雲の絨毯。
地上の嵐が嘘のような、静謐で、美しい世界。
「……綺麗」
ナラは呟いた。
「下はあんなに酷い雨なのに……」
「当然だ。」
エラーラは、計器を確認しながら淡々と言った。
「どんなに激しい嵐でも、その上には必ず太陽がある。」
エラーラは、ナラを見た。
「人生も同じだ。」
ナラは、涙を流しながら笑った。
そうか。
あの子(ユリカ=ナラ)も、いつかこの空を見るのだ。
泥の中から這い上がり、強くなって、この眩しい光の中に立つ日が来る。
私がそうであったように。
「……お母様」
「なんだ」
「お腹、空いた」
ナラは、お腹をさすった。
憑き物が落ちたように、急激な空腹感が襲ってきた。
「……王都に着いたら、何か、食べよう。何がいい?」
「脂っこい肉!あと甘いケーキ!」
ナラは、涙を拭って、背筋を伸ばした。
もう、後ろは振り返らない。
過去は定まった。未来は約束された。
ならば、今はただ、今日を生きるだけだ。
飛行艇は、太陽に向かって一直線に飛んでいく。
その軌跡は、絶望の地平から希望の空へと架かる、一本の白い橋のようだった。




