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ナラティブ・ヴェリタス  作者: 永眠しました
【ナラティブ・ヴェリタス/NARRATIVE VERITAS】
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●第2話:私を助けた日(2)

地獄のような野戦病院を去ったナラは、当てもなくスラムの奥深くへと歩を進めていた。

心は、空っぽだった。

正義も、文脈も、論理も、この泥の中では何の意味も持たないことを、嫌というほど思い知らされたからだ。

ふと、視界の端に、奇妙な光景が映った。

崩れかけたレンガ壁の陰。腐った木箱の上に、一人の女が座り込んでいた。

女は、若かった。おそらく20代前半。


女の足元には、ボロ布の塊が転がっていた。

いや、違う。

それは「赤子」だった。

生まれてまだ1年経つかどうかの、小さな命。

ナラは足を止めた。

なぜか、目が離せなかった。

その光景に、強烈な既視感と、胸を掻きむしられるような不快感を覚えたからだ。

女は、片手に安酒の瓶を持っていた。

彼女は瓶を煽り、喉を鳴らして飲むと、口元を汚い袖で拭った。

そして、足元の赤子を見下ろした。

その目には、慈愛など欠片もなかった。あるのは、底知れぬ嫌悪と、鬱屈した加虐心だけ。


「……あーあ。まだ生きてんのかい、お前」


女は、酔った手つきで瓶を傾けた。

琥珀色の液体が、赤子の顔にかかる。

酒だ。

アルコールの刺激が、赤子の目や鼻に入る。


「けふっ、げふっ……!」


赤子がむせ返り、苦しそうに身をよじる。小さな手足をバタつかせるが、逃げる力などない。


「あはは! 変な顔!」


女は、それを見てケラケラと笑った。

虐待。

暇つぶし。

壊れかけの玩具をいじるような、無邪気で残酷な遊び。

女は、今度は足先で赤子の腹を突いた。

ゴロッと赤子が転がる。泥水の中に顔が埋まる。

赤子が必死に首を上げて息をしようとすると、女はまた足で転がす。


見ていられない。けれど、目を逸らせない。

ナラは、吸い寄せられるように、女に近づいた。

女が、ナラの気配に気づいて顔を上げた。

濁った瞳。焦点が定まらない、麻薬中毒者のような目。

彼女は、ナラを見ても驚かなかった。むしろ、同志を見つけたかのように、ニタリと唇を歪めた。


「……うらやましいかい?」


「……?」


ナラは、意味がわからずに立ち尽くす。


「あんたも、溜まってるんだろ?」


女は、手招きをした。


「いいよ。貸してやるよ。……こいつ、泣かないんだ。いくらいたぶっても、ただ、ジッとこっちを見てるだけ。殺しちまっても、誰も文句言わない。だから、ゴミだよ」


女は、楽しそうに言った。


「やるかい?一緒に」


一緒。

その言葉が、ナラの神経を逆撫でした。

違う。私は、お前とは違う。

私は弱者を守る探偵だ。文脈を重んじる人間だ。

こんな、吐き気を催すような虐待を見て、「やりたい」なんて思うはずがない。

ナラの胸の奥で、ドス黒い炎が燃え上がった。

激昂。

それは、正義感から来るものではなかった。

「子供が可哀想だ」という同情でもなかった。

この光景を見ているだけで、自分の身体が記憶している「痛み」が蘇ってくる。

酒の臭い。泥の冷たさ。見下ろす女の嘲笑。

全部、知っている気がする。

全部、味わったことがある気がする。

だからこそ、許せなかった。

この女の存在が。

自分の中にある「見たくないもの」を、無理やりこじ開けられるような感覚。


「……ふざけるなよ」


ナラは、震える声で絞り出した。


「あんた……自分が何をしてるか……」


「説教かい?つまらないねぇ」


女は、欠伸をした。

そして、やおら、立ち上がった。

ふらつく足取りで、ナラに近づく……のではなく、赤子の上に覆いかぶさるように立った。


「見てな。……こうやると、もっと面白い音が出るんだ」


嫌な、予感がした。

ナラの心臓が、早鐘を打つ。

やめろ。それ以上は、見せるな。


「この子はね、私の不幸の塊なんだ」


女は、ナイフを逆手に持った。

女の目に、狂気が宿る。


「だから、罰を与えなきゃいけないんだよ。生まれてきた罪の、罰をね」


女が、ナイフを振り上げた。


「やめろッ!」


ナラが叫び、飛び出そうとした。

だが、遅かった。

ナイフが、赤子の太ももに深々と突き刺さった。


「……ッ!」


赤子が、音のない悲鳴を上げた。

口を大きく開け、空気を吸い込むが、痛みで声が出ない。

身体が弓なりに反り返る。

傷口から、鮮血が噴き出した。

赤い血が、泥水を染め、女の足を濡らす。


「あはは!見たかい!?ビクッてしたよ!」


女は、狂ったように笑った。

ナラの足が、止まった。

噴き出す血。錆びたナイフ。笑う女。

そして、ナラの脳裏に、閃光のような衝撃が走った。

封印していた記憶の扉が、物理的な痛みと共に蹴破られた。


――ああ、知っている。


この痛みを、私は知っている。

ナラは、震える手で、自分のドレスのスカートをまくり上げた。

右足の内太もも。

そこには、白くケロイド化した、古い傷跡があった。

刃物でえぐられたような、醜い傷跡。

物心ついた時からあった傷。いつ、誰につけられたのかも覚えていなかった傷。

ナラは、視線を上げた。

赤子の足に突き刺さっているナイフの位置。傷の形状。

……完全に、一致していた。


「う……嘘……」


ナラは、呻いた。

視線が、笑っている女の顔に吸い寄せられる。

泥と垢にまみれた、やつれた顔。

だが、よく見れば――

その骨格。目の形。唇のライン。

それは、鏡で毎日見ている「自分自身の顔」に、酷似していた。

もし、私が別の人生を歩んでいたら。

もし、エラーラに拾われず、知識も教養も与えられず、このスラムで腐り果てていたら。

きっと、こんな顔になっていただろうという、成れの果ての姿。

ナラの中で、全てのパズルが嵌まった。

恐怖の、完成。


私は、「未来」から来た。

私は、時を超えてこの時代に来た。

この「傷」の一致は、偶然ではありえない。

目の前にいる女。

それは、過去という現在における、私の実の母親だ。

そして、足元で血を流している、名もなき赤子。

それは、過去の、「私自身」だ。


「……あ……あぁ……」


理解してしまった。

私が、なぜこの赤子に生理的な嫌悪と愛を感じたのか。

それは、自分自身の最も惨めで、最も見たくない「原点」だったからだ。

誰にも愛されず、母親にすら疎まれ、ゴミのように扱われていた自分。

そして、今まさにナイフを突き立てられているのは、他人ではない。私だ。

私が、私を殺そうとしている母親を、目の前で見ている……?

ナラは、自分の太ももを押さえた。

古傷が、焼けるように痛む。

記憶が奔流となって押し寄せる。

酒の臭い。暴力。寒さ。飢え。

『お前なんか産まなきゃよかった』という呪いの言葉。

ナラティブ・ヴェリタスという、気高い探偵の『仮面』が、剥がれ落ちる。

その下にあったのは、ただの、傷ついた子供だった。


「……やめて」


ナラの目から、涙が溢れ出した。

止まらない。

怒り、悲しみ、絶望、やりきれなさ。全ての感情が決壊した。


「やめろぉぉぉぉぉッ!!」


ナラは絶叫した。

獣のような咆哮。

ナラは、地面を蹴った。

鉄扇も、魔力もない。

ただの暴力的な衝動で、女に体当たりをした。


「ぐえっ!?」


女が吹き飛び、泥水の中に転がる。

手からナイフが離れる。

ナラは、赤子に駆け寄った。

血まみれの小さな体。

ナラは、それを泥の中からひったくるように抱き上げた。


「……ごめんね。ごめんね……」


赤子は、ナラの腕の中で、まだ声を出せずに痙攣していた。

その体温が、ナラの肌に伝わる。

温かい。そして、ひどく汚い。

自分の臭い。自分の血。

ナラは、赤子を強く抱きしめた。

ドレスが血と泥で汚れることなど、どうでもよかった。

転がった女が、起き上がりながら怒鳴った。


「何しやがる!返せ!それは私のゴミだ!」


「……黙れッ!!」


ナラは、女を睨みつけた。

その瞳は、殺意で赤く充血していた。


「『私』に触るな!」


その気迫に、女がひるむ。


「はぁ?…私?……なんだてめえ……?」


ナラは、女に背を向けた。


「……行こう」


ナラは、赤子に囁いた。

自分自身に、囁いた。

ナラは、走り出した。

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