第1話:陰気な母性を取り戻せ(1)
獣医院の裏口。そこは、ナラティブ・ヴェリタスが日課のゴミ出しを行う、神聖なる廃棄の場である。
「……ふゥ。今日の生ゴミは重いですわね」
漆黒のドレススーツの袖をまくり、ナラは優雅に、しかし力強くゴミ袋を集積所に放り投げた。
その時。
ゴミ袋の山の奥、巨大な木箱の隙間から、じっとりと濡れた、熱っぽい視線を感じた。
「……そこにいるのは分かっていますわよ?」
ナラは眉をひそめ、鉄扇を懐から取り出した。
「出てきなさい!野良犬なら餌をあげますけれど、変質者なら物理的に……排除しますわよ?」
木箱が動き、中から這い出してきたのは、泥と埃と生ゴミの汁にまみれた、巨大な毛玉のような塊だった。
よく見れば、それは伸びきったダルダルの古着を重ね着し、ボサボサの髪で顔を隠した少女だった。
「あ、あう……。ご、ごめんなさい……。ナラさん……」
「……ルル?」
ナラは鉄扇を収め、呆れ果てた声を上げた。
情報屋のルルだ。
「あんた、こんなところで何をしてますの?ここに来るなら玄関から入りなさいと言ったでしょう?」
「い、いえ……。その……ナラさんがゴミを捨てる姿が、あまりにも神々しくて……生活感と気品が同居する奇跡のスペクタクルに……つい、最前列で待機を……」
ルルはモジモジと体をくねらせながら、濁った目でナラを見上げた。その視線は、崇拝と、底知れぬ湿っぽい欲望に満ちている。
「……まったく意味が分かりませんわ。不潔です!」
ナラはルルの襟首を摘まみ上げた。
「臭いますわよ!シャワーを貸してあげますから、さっさと中に入りなさい!」
「ひぃっ!ご、ご褒美ですか!?ナラさんの家のシャワー……排水溝の髪の毛とか……ふ、ふへ……」
「掃除したばかりだからありませんわよ!変なこと言ってないで歩く!」
ナラはズルズルとルルを引きずり、獣医院へと連行した。
数十分後。獣医院の二階、リビング兼事務所。
「ふむ。……興味深い曲線だねぇ」
白衣のマッドサイエンティスト、エラーラ・ヴェリタスが、コーヒーカップ片手に感嘆の声を漏らした。
視線の先には、シャワーを浴びてサッパリしたルルがいる。
彼女は、ナラから借りた少し大きめのシャツを着ているのだが、その姿は異様だった。
猫背で縮こまっているため分かりにくいが、シャツの上からでも分かるほど、ルルの身体つきは豊満だった。
出るところは出て、締まるところは締まっている。
だらしない姿勢と、顔を覆う前髪、そして常に挙動不審な態度のせいで誰も気づかないが、素材としては王都でも一二を争うほどの肉感的な美貌の持ち主なのである。
「な、何を見てるんですかぁ……。エラーラさん……そんな、観察しないでください……」
ルルが胸元を隠すように身をよじる。
「いや、失敬?君の質量保存の法則を無視したようなボディラインに、科学的好奇心が刺激されてね」
「お母様?セクハラまがいの発言は慎んでくださいまし」
ナラが、濡れた髪をタオルで拭きながら入ってきた。
その瞬間、ルルの顔がボッと赤くなり、鼻息が荒くなる。
「ナ、ナラさん……!その、濡れた髪……水滴が鎖骨を伝って……あうぅ……尊いです……」
「あんたも髪を乾かしなさい。風邪を引きますわよ」
ナラは、ルルの熱っぽい視線を「友情」と解釈し、無防備に近づいてドライヤーをかけた。
「ほら、じっとして」
「ひゃうッ!ち、近いです!ナラさんの匂いが……石鹸と、汗と、強者の香りが……!脳が溶けそうですぅ……!」
ルルは白目を剥いて痙攣している。
「……賑やかだねぇ」
そこへ、階下から院長のケンジと妻のアリア、そして遊びに来ていたゴウ少年が上がってきた。
「お茶が入ったわよー。あら、ルルちゃんいらっしゃい」
平和なティータイムが始まる――はずだった。
ガシャァァァン!
突如、リビングの窓ガラスが粉砕された。
色とりどりの花びらと共に、一人の男が飛び込んでくる。
「ボンジュール!ズドラーストヴィ!」
派手な刺繍入りのロングコートに、羽根付きの帽子。
異様に濃い顔立ちをした長身の男が、土足でテーブルの上に仁王立ちしていた。
「な、何奴ですの!?」
ナラが即座に鉄扇を構える。
「不法侵入だ!通報するぞ!」
ケンジが叫ぶ。
男は、ナラを一瞥もしなかった。
エラーラの知性美も、アリアの母性美も無視した。
彼が一直線に駆け寄ったのは――部屋の隅で縮こまっていた、ルルだった。
「見つけたぞ……!私の女神!」
男は、ルルの前に跪き、その手を取った。
「ひぃぃぃッ!?だ、男性!?無理です死にますぅぅ!」
ルルが泡を吹く。
「このアンニュイな曲線!世界を拒絶し、殻に閉じこもろうとする背中のアーチ!そして隠された豊満なる果実! ……素晴らしい!」
男はルルを抱きしめ、高らかに宣言した。
「我が名はウラジミール・トガッテル! 王都一の服飾デザイナーだ! 君こそが、私の求めていた『究極の素材』だ!」
「……はぁ?」
ナラが、こめかみに青筋を浮かべて割り込んだ。
「ちょっと待ちなさい、不審者。……あんた、眼球が腐ってるんじゃなくて?」
ナラは、自身の完璧なプロポーションと美貌を誇示するようにポーズを取った。
「このナラティブ・ヴェリタスを差し置いて、そのダンゴムシみたいな女を『女神』ですってえ? ……美的センスが壊滅的ですわよ?」
ウラジミールは、ナラをチラリと見て、鼻で笑った。
「フン?……君は『完成』されすぎている。つまらんな!」
「なッ……!?」
「光り輝く宝石など、誰でも愛でることができる。だが! 泥にまみれ、影に潜み、誰にも見つからないように輝く原石こそが、至高の美なのだ、よッ!」
ウラジミールは、ルルのボサボサの髪を掻き上げ、その隠された瞳を露わにした。
「見たまえ!この怯えた瞳!獲物を前にした小動物のような、あるいは世界を呪う魔女のような、この複雑怪奇な湿り気! ああ……ゾクゾクするねぇ!」
「い、いやぁぁ……!見ないでぇぇ……!」
ルルが必死に顔を隠そうとする。
「嫌がる姿もまた芸術!……決定だ!君を、今週末の『王都アングラ・コレクション』のメインモデルにする!」
「ええっ!?む、無理です!人前に出るなんて……爆発四散します!」
「拒否権はない!美は共有されるべき義務なのだよ!」
ウラジミールが指を鳴らすと、空間から無数の「魔法の布」が出現し、ルルを簀巻きにした。
「連れて行け!最高傑作に仕立ててやる!」
布がルルを包み込み、空中に浮遊させる。
「ナラさぁぁぁん!助けてぇぇぇ!」
「お待ちなさいッ!!」
ナラが飛びかかるが、ウラジミールは布を操作し、煙幕を張った。
「ダスヴィダーニャ!『凡人』ども!……彼女のデビューを楽しみにしているがいい!」
煙が晴れると、ウラジミールとルルの姿は消えていた。
割れた窓から、涼しい風が吹き込んでくる。
ナラは、誰もいなくなった空間を睨みつけ、ギリギリと歯噛みした。
「……凡人?」
ナラの手の中で、鉄扇が悲鳴を上げる。
「あたしを……凡人呼ばわりしましたわね、あの三流デザイナー……!」
「そこかね、怒るポイントは……」
エラーラが呆れ顔でツッコミを入れる。
「あ、当たり前ですわ!あたしよりルルの方が魅力的だなんて……眼科に行くべきですわ!」
ナラは憤慨して歩き回るが、すぐに足を止め、真剣な表情になった。
「……でも、あんな不審者にルルを連れて行かせるなんて、保護者として看過できませんわ」
「保護者?……友人じゃないの?」
ゴウが首を傾げる。
「ええ、友人ですわ。……ペットと飼い主のような、深い絆で結ばれた友人ですのよ!」
ナラは、エラーラの方を向いた。
「お母様。追跡しますわよ。……科学の力で、あの変態の居場所を突き止めて!」
「ふむ。……あの布は『空間転移シルク』だね。物理的な痕跡を追うのは不可能だ」
エラーラは、実験台に戻り、怪しげなアンテナがついたヘルメットを取り出した。
「だが、手はある。……これを使おう」
「何ですの、それ?」
「『フェティシズム追跡レーダー』だ」
「はいい?」
エラーラは真顔で説明を始めた。
「ルル君からは、常時、君に対する特殊な波動……すなわち、『湿度の高い愛の電波』が発せられている。これは、通常の魔力とは異なる、極めて特殊な周波数だ」
エラーラは、ヘルメットをナラに被せた。
「君自身をアンテナにすることで、ルル君からの『ナラさん尊いはあはあ』という思念を逆探知できるのだよ!」
「き……気持ち、悪ッ!」
ナラはヘルメットを投げ捨てそうになった。
「我慢したまえ!彼女を助けたいのだろう?」
「くっ……!背に腹は代えられませんわね……!」
ナラは観念してヘルメットを被った。
スイッチオン。
『……ナラさん……ナラさんの二の腕……ぷにぷに……吸いたい……』
『……ナラさんに踏まれたい……ヒールで……グリグリと……』
『……ナラさんの飲み残したコーヒー……間接キスの味……』
ヘルメットのスピーカーから、ルルの心の声が垂れ流される。
「ひぃぃぃッ!なっ、なんですのこれ!?呪いのアイテムですの?」
ナラが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「受信感度は良好だ!……方角、北北西、地下深くだ!」
エラーラが指差す。
「行きましょう」
ナラは、決意の表情で立ち上がった。
その顔は、羞恥と怒りで茹でダコのように赤い。
「ルルを取り返して……。あいつの性根を、徹底的に叩き直してやりますわ!」
「頼もしいねぇ。……では、出動だ!」
一行は、ルルの湿っぽい愛の電波を頼りに、王都の地下へと向かった。




