第2話:英傑主婦の午後(2)
ナラの懐にある通信機が、ノイズを発した。
『――ナラ!アリア!聞こえるか?今すぐそこから離脱しろ!!』
エラーラの切迫した声だった。いつもの冷静な口調は微塵もない。
「どうしたの、お母様。今、アリアさんと無限マカロンを楽しんで……」
『馬鹿者!悠長にしてる場合か!君たちがいる空間は、「自己増殖型バクテリア」の胃袋の中だ!』
「……はあ?」
ナラの思考が停止する。
バクテリア? 胃袋?
『変異種だ!周囲の物質と高速で同化し、複製している!そのマカロンが増えているのではない!それは、バクテリアが君たちを太らせて食うために作り出した「餌」だ!』
エラーラの解説が脳に届いた瞬間。
ナラとアリアにかかっていた「認識阻害」が、ガラスのように砕け散った。
「……え?」
ナラは、自分が手に持っている「マカロン」を見た。
可愛らしいピンクのマカロンに見えていたもの。
それは、「ピンク色の臓器」だった。
千切れた血管がピクピクと動き、切断面から新たな肉の泡がボコボコと膨れ上がってくる。ドロリとしたジャムは、腐食性の消化液だ。
「う、うわぁぁぁぁっ!?」
ナラは反射的に臓器を投げ捨てた。
世界が一変する。
3つの太陽に見えていたのは、空間がねじれ、光が重力レンズ効果で乱反射しているブラックホールの縁。そこから逃げ場のない吸引力が働いている。
アクロバティックなウェイターは、「消化液で半ば溶けかけた人間の死体」が、バクテリアによる神経系の電気信号だけで操られている、哀れなマリオネット。
カフェの壁が、床が、優雅なテラス席が。
すべてがドロドロと溶け出し、無数の「口」となって二人を咀嚼しようと迫ってくる。
シュールな楽園は、一瞬にして有機的な地獄へと変貌した。
『逃げろ!攻撃は無意味だ!』
ナラは立ち上がろうとした。
だが、地面から伸びた無数の触手が、ナラとアリアの足首を掴んだ。
「しまっ……!離せ!」
ナラは足掻くが、鉄扇がない。素手だ。
仮にあったとしても、切れば増える相手にどう戦えばいい?
周囲の風景が迫ってくる。天井が垂れ下がり、酸の唾液を滴らせる巨大な口腔となる。
死体のウェイターが、溶けた顔でニタリと笑いながら近づいてくる。
ナラの背筋に、冷たい死の予感が走った。
これまで、マフィアも、怪物も、異常犯罪者も倒してきた。
けれど、これは違う。
「消化」という、抗いようのない物理現象。
圧倒的な質量と、論理的な捕食の前では、個人の武術など無力だ。
消化液が迫る。
ナラはアリアを庇うように抱き寄せ、目を閉じた。
ああ、死ぬ。
こんな、わけのわからない肉の塊の中で、溶けて、あのウェイターのように操り人形になって死ぬのだ。
一滴の消化液が跳ねた。
それはナラではなく、アリアのハンカチに落ちた。
ケンジが誕生日にプレゼントしてくれた、限定品の純白のハンカチに、醜い茶色のシミを作った。
「……あ?」
アリアの声が、地獄の底で響いた。
アリアは、自身の足が触手に絡め取られていることにも、周囲が肉壁に変わったことにも動じていなかった。
彼女はただ一点。
自身のハンカチについた、茶色いシミだけを見つめていた。
「……落ちませんわ、これ」
アリアが指でシミを擦る。落ちない。
その瞬間、彼女の纏う空気が変わった。
おっとりとした主婦の雰囲気は消え失せ、かつて王都最強と謳われた「騎士団長」の覇気が立ち昇る。
「ア、アリアさん……?」
ナラが震える声で呼ぶ。
アリアは、テーブルの上に残されていた一本の食器に手を伸ばした。
さっき床に落として、テーブルを生やした元凶。
「銀のバターナイフ」。
魔力伝導率も低い、ただのなまくらの食器だ。先端は丸く、バターを塗ることしかできない。
だが、アリアがその柄を握った瞬間。
バターナイフから、黄金の光が噴出した。
「……問答無用」
アリアが低く呟く。
バクテリアの触手が、本能的な恐怖を感じたのか、ピタリと止まる。ウェイターの死体たちが、畏怖するように後ずさる。
「私の……ささやかな幸せを汚すとは……万死に値します」
アリアはバターナイフを、聖剣のごとく頭上へ掲げた。
黄金の光が天を突き、3つの太陽すら霞ませるほどの輝きを放つ。
『な、なんだそのエネルギー量は!?』
通信機からエラーラの絶叫が聞こえる。
『質量保存の法則を無視している!エネルギー吸収限界を超え……計測、不能!?魔法ではない?純粋な「概念」の暴力だ!』
アリアは、迫りくる肉壁と、事象の地平線を見据えた。
そして、慈悲なく、容赦なく、主婦の怒りを振り下ろした。
アリアがバターナイフを一閃させた。
放たれたのは、斬撃ではない。
「極太の黄金ビーム」だった。
それは「切る」のでもなく、「焼く」のでもない。
「浄化」という概念を、物理的な破壊力として叩きつける光の奔流。
増殖する細胞も、歪んだ重力場も、事象の地平線も。
光に触れたすべての不浄が、悲鳴を上げる間もなく原子レベルで分解され、漂白され、消滅していく。
ナラは見た。
無限に増殖するはずのバクテリアが、「増える速度」を遥かに凌駕する「消滅速度」で、この世から拭い去られていく様を。
論理など関係ない。
物理法則など通用しない。
ただ、「主婦がシミを抜きたい」という情熱と殺意が、宇宙の理をねじ伏せたのだ。
「消えなさい!」
光が収束する。
世界が白く染まり、そして――
静寂が戻った。
ナラが恐る恐る目を開けると、そこは青空の下だった。
カフェはない。
バクテリアもいない。
テーブルも、椅子も、スプーン一本残っていない。
あるのは、綺麗に整地された更地と、王都の片隅にぽっかりと空いた巨大なクレーターだけ。
「……お母様の理論が、バターナイフに負けた……」
ナラは煤一つついていない体で、呆然と呟いた。
絶体絶命の危機は、物理的に「消去」されたのだ。ナラは助かった。アリアという理不尽な英雄によって。
「ふぅ」
隣で、アリアが額の汗を拭った。
手には、ボロボロに溶けて変形したバターナイフと、奇跡的に汚れが落ちて真っ白になったハンカチ。
彼女の顔は、いつものおっとりとした主婦に戻っていた。
「良かった、綺麗になりましたわ。……あら?」
アリアはキョトンとして周囲を見回した。
「カフェがなくなってしまいましたね」
「……ええ、アリアさんが消し飛ばしたからね……」
「残念ですわ。ケンジさんにお土産のケーキを買って帰りたかったのに」
彼女には、自分が「英雄的な一撃」を放った自覚がないのか、それとも「頑固な汚れを落とすにはこれくらい必要」と思っているのか。
アリアは微笑み、買い物かごを持ち直した。
「スーパーで特売のプリンでも買いますわ。ナラさんもご一緒にいかが?」
何事もなかったかのように歩き出すアリア。
その背中には、伝説の騎士の威厳など微塵もなく、ただ「今日の夕飯を考える幸せな妻」のオーラだけが漂っていた。
ナラは震える手で、通信機のスイッチを切った。
エラーラの『おい!何が起きたんだ! 観測データが壊れたぞ!ブラックホールはどうなった!?』という混乱した声を遮断する。
「……一番の怪異は、あの人よ」
ナラは深いため息をつき、そして少しだけ笑った。
論理も、恐怖も、この人の「日常」の前では無意味だ。
そう思うと、あれほどの死の恐怖が、ただの笑い話のように思えてくる。
「待ってアリアさん! あたしもプリン買う! カスタード濃いめのやつ!」
ナラは駆け出した。
巨大なクレーターを背に、二人は夕飯の買い出しへと向かう。
王都の平和は、一人の主婦のハンカチによって、今日も守られたのであった。




