第9話:希望の疾走と、愚者の毒針!
深夜の王都国立競技場。
昼間は歓声に包まれるその場所も、夜の帳が下りれば、静寂と闇に支配される巨大な墓標のようだった。
だが、最近の夜は違った。
トラックを叩く、不規則な足音が響くのだ。
『……ハシラナキャ……。モット……ハヤク……』
「……趣味の悪い足音ですこと!」
競技場の観客席最上段。
漆黒のドレススーツに身を包んだナラティブ・ヴェリタスは、眼下のトラックを見下ろして冷ややかに呟いた。
その手には、優雅なレースの扇子――ではなく、鋼鉄製の護身用鉄扇が握られている。
「リズムが狂っていますわ。あんな走り方では、三流どころか、ただの徘徊老人ですわよ?」
「ふむ。だが、あの速度は異常だ。時速80キロは出ているね」
隣で双眼鏡を覗いているのは、白衣のマッドサイエンティスト、エラーラ・ヴェリタスだ。
「ナラ君。あれが見えるかい? 彼の足首を」
「ええ。……ありませんわね」
トラックを疾走しているのは、半透明の少年の霊だった。
ボロボロのユニフォーム。泥だらけの顔。
そして、足首から先が欠損し、脛の骨が直接地面を削るようにして走っている。
走るたびに、ガリッ、ガリッという、骨とアスファルトが擦れる不快な音が響き渡る。
「……痛々しい。見るに耐えませんわ」
ナラは眉をひそめた。
恐怖ではない。彼女の胸に湧き上がっているのは、もっと熱く、重い感情だ。
何が彼をそこまで駆り立てるのか。
何が彼の足を奪ったのか。
その理不尽に対する、静かなる義憤。
「行きましょう、お母様。……あの可哀想な迷子を、ゴールさせてあげなくては」
ナラは手すりを乗り越え、数十メートルの高さから躊躇なく飛び降りた。
漆黒のドレスが花のように開き、音もなくフィールドに着地する。
「やれやれ。エレベーターを使うという発想はないのかね、私の娘は」
トラックに降り立つと、腐臭と血の匂いが鼻をついた。
亡霊ランナーが、ナラたちに気づく。
『ジャマダ……! ドケェッ!!』
亡霊が方向を変え、ナラに向かって猛スピードで突っ込んでくる。
骨が削れる音が高まり、黒い瘴気が嵐のように吹き荒れる。
「あら、レディの前で暴走だなんて。……交通マナーもなってませんのね!」
ナラは一歩も動かなかった。
亡霊が目の前まで迫った瞬間、彼女は鉄扇を展開し、下から斬り上げるように振るった。
「止まりなさいッ!!」
バチィィン!!
衝撃波が亡霊を弾き飛ばす。
だが、亡霊は霧のように揺らいだだけで、すぐに再構成され、再び走り出した。
『走ルンダ……! オレハ……カケル……!』
「物理無効。……分かってはいましたけれど、腹が立ちますわね」
ナラは舌打ちをした。
彼女は、暴力が好きなのではない。
「通じない相手」がいることが、もどかしいのだ。
特に、今回のような「被害者」が暴走している場合、力でねじ伏せることは何の解決にもならないと、知っているから。
「ナラ君! 確保だ! 原因を特定する!」
エラーラが『因果抽出式・時間逆行注射器』を構えて滑り込んでくる。
「了解ですわ! ……少々手荒く行きますわよ!」
ナラはドレスの裾をまくり上げ、再び突進してくる亡霊の正面に立った。
そして、タックルしてくる亡霊の肩を掴み、その勢いを利用して巴投げを放った。
「地面とお友達になりなさいな!」
実体のないはずの亡霊が、ナラの気迫と魔力によって「地面に縫い付けられる」。
「今だッ!」
エラーラがシリンジを亡霊の胸に突き刺した。
「成分、抽出!」
亡霊が悲鳴を上げ、シリンダーの中にどす黒い液体――無念の記憶が吸い上げられていく。
「……解析完了。……これは……酷い!」
エラーラがモニターを見て、声を震わせた。
珍しく、その表情から科学者としての好奇心が消え、純粋な怒りが浮かんでいる。
「彼の名はカケル。……30年前、この国で最も速かったスラム出身のランナーだ」
映像が再生される。
そこには、ボロボロの靴で、しかし誰よりも楽しそうに走る少年の姿があった。
彼は、貧民街の希望だった。
「俺が金メダルを取れば、みんなに勇気を与えられる」
そう信じて、ひたむきに努力していた。
だが、運命の日。全国大会の決勝前夜。
控室に忍び込む一つの影があった。
ゼファー子爵。
カケルのライバルであり、貴族の御曹司。
彼は、実力でカケルに勝てないことを悟り、卑劣な手段に出た。
「カケルのスパイクの内側に……遅効性の麻痺毒を塗った針を仕込んだんだ」
映像の中で、カケルがレース中に転倒する。
足が動かない。激痛。
そして、転倒したカケルに対し、ゼファー子爵は「スラムの薄汚い野郎が、神聖なトラックを汚すな」と嘲笑い、倒れているカケルの足首を――スパイクで踏み砕いた。
「……ッ!」
ナラの拳が、ギリギリと音を立てて握りしめられた。
カケルは選手生命を絶たれ、ドーピングの濡れ衣まで着せられ、失意のうちにこの競技場の裏で首を吊った。
「走りたかった」という無念だけを残して。
「……許さない」
ナラの声は、地獄の底から響くように低く、冷たかった。
「努力を……純粋な情熱を、特権階級の保身のために踏みにじる。……それは、あたしが最も軽蔑する『悪』よ」
ナラは、エラーラの方を向いた。
その瞳には、涙さえ蒸発させるほどの、燃え盛る義憤の炎が宿っていた。
「お母様。……送って」
ナラは首筋を差し出した。
「あの子の足を奪ったクズに……一流の『教育的指導』をして差し上げますわ」
エラーラは、ナラの怒りを受け止め、深く頷いた。
「行ってくれ、ナラ。……才能への冒涜は、万死に値する。彼に、走ることの本当の意味を教えてやるんだ」
黄金の液体が魔導回路へと注入される。
ナラの意識が、30年前の控室へと飛んだ。
30年前。大会前夜のロッカールーム。
湿った空気と、ワックスの匂い。
薄暗い部屋の中で、一人の男がカケルのロッカーをこじ開けていた。
ゼファー子爵だ。
ニヤニヤと卑しい笑みを浮かべ、カケルの使い古されたスパイクを手に取っている。
「ふん、こんな汚い靴で走りおって。……ゴミはゴミらしく、地べたを這っていればいいんだ」
彼は懐から毒塗りの針を取り出し、スパイクの踵部分に仕込もうとした。
(……見つけた)
部屋の隅、影の中から、ナラティブ・ヴェリタスは静かにその光景を見ていた。
怒りで視界が赤く染まるのを、深呼吸で抑え込む。
ただ殴るだけでは足りない。
この男の、腐りきった魂ごと粉砕しなければ、カケルの無念は晴れない。
ゼファーが針を刺そうとした、その瞬間。
「……素敵な手つきですわね?」
凛とした声が、ロッカー室に響いた。
「ひぃッ!?」
ゼファーが驚いてスパイクを取り落とす。
闇の中から、漆黒のドレスの女が、幽鬼のように歩み寄ってきた。
ヒールの音が、死へのカウントダウンのように響く。
「だ、誰だ貴様は!?」
ゼファーが腰を抜かしながら叫ぶ。
「通りすがりの、スポーツマンシップの守護者ですわ!」
ナラは、床に落ちたカケルのスパイクを拾い上げた。
古いが、手入れが行き届いている。
持ち主がどれほど走ることを愛し、この靴を大切にしていたかが伝わってくる重みだ。
ナラは、ゴミを見るような目でゼファーを見下ろした。
「あんた、走るのは好き?」
「は、はぁ? 何を……」
「答えなさいッ!!」
ナラの一喝に、空気が震えた。
「す、好きに決まっている! 私は選ばれたエリートだ! この大会で優勝し、名誉を手に入れるのだ!」
「名誉? ……笑わせないで」
ナラは、拾ったスパイクを丁寧にベンチに置いた。
そして、ゼファーの胸ぐらを掴み、片手で軽々と持ち上げた。
「自分の足で勝てないからって、相手の足を潰す? ……それが、エリートのやること?」
ナラは、ゼファーをロッカーに叩きつけた。
ガンッ!!
「ぐぇッ……!」
「あんたがやろうとしたことはね……。ただの傷害事件じゃないわ。一人の人間の『人生』を殺そうとしたのよ!」
ナラの怒りが爆発した。
彼女には、過去がない。名前もなかった。
だからこそ、「何かになろう」と必死にもがく人間の輝きが、誰よりも尊く見える。
それを、こんな下らない男のプライドのために奪われるなんて、絶対に許せなかった。
「そ、そんなに勝ちたいなら……」
ナラは、床に落ちていた毒針を拾い上げた。
「あんたが使いなさいよ」
「や、やめろ! それは猛毒だ!」
「あら、自分が用意したものでしょう? 毒を盛ってまで勝ちたかったんでしょう? ……なら、骨の髄まで味わいなさい!」
ナラは、ゼファーの口を無理やりこじ開けようとした。
「い、いやだぁぁぁ!」
「はあ……冗談よ。汚らわしい」
ナラは針をへし折り、投げ捨てた。
そして、ゼファーを床に転がした。
「毒なんて使わなくても、あんたはもう死んでいるわ。……心臓が動いているだけの、空っぽの人形よ」
ナラは、ゼファーの顔を踏みつけた。
ヒールの踵が、頬に食い込む。
「痛みを知りなさい。……足を潰される恐怖を。夢を奪われる絶望を」
ナラは体重をかけた。
ゼファーが悲鳴を上げる。
「あんたは明日、走る資格はない。……一生、自分の弱さと向き合って、暗い部屋で震えていなさい」
ナラは足を退けた。
ゼファーは、恐怖と屈辱で失禁し、ガタガタと震えながらうずくまっていた。
もう、彼は二度とトラックには立てないだろう。
肉体的な傷ではなく、ナラによって植え付けられた「敗北者の烙印」が、彼の精神を破壊したからだ。
「……さて」
ナラは、カケルのスパイクの汚れをハンカチで拭った。
そして、ロッカーに戻した。
「走りなさい、少年。……邪魔者は消したわ」
ナラは、ロッカーに向かって囁いた。
「あんたの足は、誰よりも速い。……風になりなさい」
その時、ドアが開く音がした。
カケルが戻ってきたのだ。
ナラは物陰に隠れる。
カケルは、床にうずくまるゼファーを見て驚いたが、すぐに自分のスパイクが無事なことを確認し、安堵の表情を浮かべた。
そして、スパイクを抱きしめ、祈るように呟いた。
「……走れる。明日も、走れるんだ」
その純粋な声を聞いて、ナラの目から一筋の涙がこぼれた。
守れた。
この小さな、しかし偉大な「物語」を。
ナラの体が光に包まれる。
タイムリミットだ。
「……いい走りを見せてね」
・・・・・・・・・・・
「……ッ!」
ナラが目を開けると、現代の競技場だった。
雨は上がっていた。
雲間から月が覗き、トラックを銀色に照らしている。
「おかえり、ナラ君」
エラーラが、温かいココアを持って立っていた。
ナラはそれを受け取り、震える手で口に運んだ。
甘い。
過去で感じた怒りの味が、甘さに溶けていく。
「……彼は?」
「あそこを見たまえ」
エラーラが指差した先。
競技場の入り口に、かつてはなかったはずの、立派なブロンズ像が建っていた。
それは、ゴールテープを切る瞬間のランナーの像だった。
台座には、こう刻まれている。
『伝説のランナー、カケル。スラムから世界へ羽ばたいた彼の走りは、貧しき子供たちに夢を与え、この国のスポーツマンシップを変えた』
そして、像の足元には、たくさんの花束と、子供たちが供えた手作りの金メダルが置かれていた。
「……ふふ。やったわね」
ナラは、像を見上げて微笑んだ。
あの夜、カケルは走りきったのだ。
毒も、妨害もなく。自分の力で、正々堂々と。
そして、その姿が多くの人々の心を動かし、未来を変えた。
「亡霊は消えたよ」
エラーラが言った。
「彼はもう、怨念として走る必要はない。……伝説として、人々の心の中で走り続けているからね」
ナラは、自分の足を見た。
ヒールの高い靴。
走るのには適さない靴だ。
でも、彼女もまた、自分自身の人生というトラックを、必死に走っているランナーなのだ。
「あたしも、いつか……あんな風に走れるかしら」
「君は、もう走っているよ」
エラーラは、ナラの肩を抱いた。
「君の走りは、誰よりも力強く、そして美しい。……私は、君というランナーの、一番のファンだよ」
ナラは顔を赤らめ、エラーラの胸に顔を埋めた。
エラーラの白衣からは、いつもの薬品と珈琲の匂いがした。
それは、ナラにとっての「給水所」の匂いだ。
「……足、痛くなっちゃった」
ナラが甘えるように言う。
「そうだ!お母様! 帰りは背負ってくださいな! 一流のレディは、疲れたら歩かないものですのよ!」
「ええっ!? 私の腰が砕ける未来が見えるのだが!?」
「文句言わない! ……ほら、早く!」
月光の下、母の背中におんぶされた娘の影が、トラックの上に長く伸びていた。
それは、どんな金メダルよりも輝く、愛と絆のシルエットだった。




