表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【5位】異世界探偵ナラティブ・ヴェリタス  作者: り|20↑|札幌
ナラティブ・ヴェリタス短編集
9/73

第9話:希望の疾走と、愚者の毒針!

深夜の王都国立競技場。

昼間は歓声に包まれるその場所も、夜の帳が下りれば、静寂と闇に支配される巨大な墓標のようだった。

だが、最近の夜は違った。

トラックを叩く、不規則な足音が響くのだ。


『……ハシラナキャ……。モット……ハヤク……』


「……趣味の悪い足音ですこと!」


競技場の観客席最上段。

漆黒のドレススーツに身を包んだナラティブ・ヴェリタスは、眼下のトラックを見下ろして冷ややかに呟いた。

その手には、優雅なレースの扇子――ではなく、鋼鉄製の護身用鉄扇が握られている。


「リズムが狂っていますわ。あんな走り方では、三流どころか、ただの徘徊老人ですわよ?」


「ふむ。だが、あの速度は異常だ。時速80キロは出ているね」


隣で双眼鏡を覗いているのは、白衣のマッドサイエンティスト、エラーラ・ヴェリタスだ。


「ナラ君。あれが見えるかい? 彼の足首を」


「ええ。……ありませんわね」


トラックを疾走しているのは、半透明の少年の霊だった。

ボロボロのユニフォーム。泥だらけの顔。

そして、足首から先が欠損し、脛の骨が直接地面を削るようにして走っている。

走るたびに、ガリッ、ガリッという、骨とアスファルトが擦れる不快な音が響き渡る。


「……痛々しい。見るに耐えませんわ」


ナラは眉をひそめた。

恐怖ではない。彼女の胸に湧き上がっているのは、もっと熱く、重い感情だ。

何が彼をそこまで駆り立てるのか。

何が彼の足を奪ったのか。

その理不尽に対する、静かなる義憤。


「行きましょう、お母様。……あの可哀想な迷子を、ゴールさせてあげなくては」


ナラは手すりを乗り越え、数十メートルの高さから躊躇なく飛び降りた。

漆黒のドレスが花のように開き、音もなくフィールドに着地する。


「やれやれ。エレベーターを使うという発想はないのかね、私の娘は」


トラックに降り立つと、腐臭と血の匂いが鼻をついた。

亡霊ランナーが、ナラたちに気づく。


『ジャマダ……! ドケェッ!!』


亡霊が方向を変え、ナラに向かって猛スピードで突っ込んでくる。

骨が削れる音が高まり、黒い瘴気が嵐のように吹き荒れる。


「あら、レディの前で暴走だなんて。……交通マナーもなってませんのね!」


ナラは一歩も動かなかった。

亡霊が目の前まで迫った瞬間、彼女は鉄扇を展開し、下から斬り上げるように振るった。


「止まりなさいッ!!」


バチィィン!!

衝撃波が亡霊を弾き飛ばす。

だが、亡霊は霧のように揺らいだだけで、すぐに再構成され、再び走り出した。


『走ルンダ……! オレハ……カケル……!』


「物理無効。……分かってはいましたけれど、腹が立ちますわね」


ナラは舌打ちをした。

彼女は、暴力が好きなのではない。

「通じない相手」がいることが、もどかしいのだ。

特に、今回のような「被害者」が暴走している場合、力でねじ伏せることは何の解決にもならないと、知っているから。


「ナラ君! 確保だ! 原因を特定する!」


エラーラが『因果抽出式・時間逆行注射器』を構えて滑り込んでくる。


「了解ですわ! ……少々手荒く行きますわよ!」


ナラはドレスの裾をまくり上げ、再び突進してくる亡霊の正面に立った。

そして、タックルしてくる亡霊の肩を掴み、その勢いを利用して巴投げを放った。


「地面とお友達になりなさいな!」


実体のないはずの亡霊が、ナラの気迫と魔力によって「地面に縫い付けられる」。


「今だッ!」


エラーラがシリンジを亡霊の胸に突き刺した。


「成分、抽出!」


亡霊が悲鳴を上げ、シリンダーの中にどす黒い液体――無念の記憶が吸い上げられていく。


「……解析完了。……これは……酷い!」


エラーラがモニターを見て、声を震わせた。

珍しく、その表情から科学者としての好奇心が消え、純粋な怒りが浮かんでいる。


「彼の名はカケル。……30年前、この国で最も速かったスラム出身のランナーだ」


映像が再生される。

そこには、ボロボロの靴で、しかし誰よりも楽しそうに走る少年の姿があった。

彼は、貧民街の希望だった。


「俺が金メダルを取れば、みんなに勇気を与えられる」


そう信じて、ひたむきに努力していた。

だが、運命の日。全国大会の決勝前夜。

控室に忍び込む一つの影があった。

ゼファー子爵。

カケルのライバルであり、貴族の御曹司。

彼は、実力でカケルに勝てないことを悟り、卑劣な手段に出た。


「カケルのスパイクの内側に……遅効性の麻痺毒を塗った針を仕込んだんだ」


映像の中で、カケルがレース中に転倒する。

足が動かない。激痛。

そして、転倒したカケルに対し、ゼファー子爵は「スラムの薄汚い野郎が、神聖なトラックを汚すな」と嘲笑い、倒れているカケルの足首を――スパイクで踏み砕いた。


「……ッ!」


ナラの拳が、ギリギリと音を立てて握りしめられた。

カケルは選手生命を絶たれ、ドーピングの濡れ衣まで着せられ、失意のうちにこの競技場の裏で首を吊った。

「走りたかった」という無念だけを残して。


「……許さない」


ナラの声は、地獄の底から響くように低く、冷たかった。


「努力を……純粋な情熱を、特権階級の保身のために踏みにじる。……それは、あたしが最も軽蔑する『悪』よ」


ナラは、エラーラの方を向いた。

その瞳には、涙さえ蒸発させるほどの、燃え盛る義憤の炎が宿っていた。


「お母様。……送って」


ナラは首筋を差し出した。


「あの子の足を奪ったクズに……一流の『教育的指導』をして差し上げますわ」


エラーラは、ナラの怒りを受け止め、深く頷いた。


「行ってくれ、ナラ。……才能への冒涜は、万死に値する。彼に、走ることの本当の意味を教えてやるんだ」


黄金の液体が魔導回路へと注入される。

ナラの意識が、30年前の控室へと飛んだ。


30年前。大会前夜のロッカールーム。

湿った空気と、ワックスの匂い。

薄暗い部屋の中で、一人の男がカケルのロッカーをこじ開けていた。

ゼファー子爵だ。

ニヤニヤと卑しい笑みを浮かべ、カケルの使い古されたスパイクを手に取っている。


「ふん、こんな汚い靴で走りおって。……ゴミはゴミらしく、地べたを這っていればいいんだ」


彼は懐から毒塗りの針を取り出し、スパイクの踵部分に仕込もうとした。


(……見つけた)


部屋の隅、影の中から、ナラティブ・ヴェリタスは静かにその光景を見ていた。

怒りで視界が赤く染まるのを、深呼吸で抑え込む。

ただ殴るだけでは足りない。

この男の、腐りきった魂ごと粉砕しなければ、カケルの無念は晴れない。

ゼファーが針を刺そうとした、その瞬間。


「……素敵な手つきですわね?」


凛とした声が、ロッカー室に響いた。


「ひぃッ!?」


ゼファーが驚いてスパイクを取り落とす。

闇の中から、漆黒のドレスの女が、幽鬼のように歩み寄ってきた。

ヒールの音が、死へのカウントダウンのように響く。


「だ、誰だ貴様は!?」


ゼファーが腰を抜かしながら叫ぶ。


「通りすがりの、スポーツマンシップの守護者ですわ!」


ナラは、床に落ちたカケルのスパイクを拾い上げた。

古いが、手入れが行き届いている。

持ち主がどれほど走ることを愛し、この靴を大切にしていたかが伝わってくる重みだ。

ナラは、ゴミを見るような目でゼファーを見下ろした。


「あんた、走るのは好き?」


「は、はぁ? 何を……」


「答えなさいッ!!」


ナラの一喝に、空気が震えた。


「す、好きに決まっている! 私は選ばれたエリートだ! この大会で優勝し、名誉を手に入れるのだ!」


「名誉? ……笑わせないで」


ナラは、拾ったスパイクを丁寧にベンチに置いた。

そして、ゼファーの胸ぐらを掴み、片手で軽々と持ち上げた。


「自分の足で勝てないからって、相手の足を潰す? ……それが、エリートのやること?」


ナラは、ゼファーをロッカーに叩きつけた。

ガンッ!!


「ぐぇッ……!」


「あんたがやろうとしたことはね……。ただの傷害事件じゃないわ。一人の人間の『人生』を殺そうとしたのよ!」


ナラの怒りが爆発した。

彼女には、過去がない。名前もなかった。

だからこそ、「何かになろう」と必死にもがく人間の輝きが、誰よりも尊く見える。

それを、こんな下らない男のプライドのために奪われるなんて、絶対に許せなかった。


「そ、そんなに勝ちたいなら……」


ナラは、床に落ちていた毒針を拾い上げた。


「あんたが使いなさいよ」


「や、やめろ! それは猛毒だ!」


「あら、自分が用意したものでしょう? 毒を盛ってまで勝ちたかったんでしょう? ……なら、骨の髄まで味わいなさい!」


ナラは、ゼファーの口を無理やりこじ開けようとした。


「い、いやだぁぁぁ!」


「はあ……冗談よ。汚らわしい」


ナラは針をへし折り、投げ捨てた。

そして、ゼファーを床に転がした。


「毒なんて使わなくても、あんたはもう死んでいるわ。……心臓が動いているだけの、空っぽの人形よ」


ナラは、ゼファーの顔を踏みつけた。

ヒールの踵が、頬に食い込む。


「痛みを知りなさい。……足を潰される恐怖を。夢を奪われる絶望を」


ナラは体重をかけた。

ゼファーが悲鳴を上げる。


「あんたは明日、走る資格はない。……一生、自分の弱さと向き合って、暗い部屋で震えていなさい」


ナラは足を退けた。

ゼファーは、恐怖と屈辱で失禁し、ガタガタと震えながらうずくまっていた。

もう、彼は二度とトラックには立てないだろう。

肉体的な傷ではなく、ナラによって植え付けられた「敗北者の烙印」が、彼の精神を破壊したからだ。


「……さて」


ナラは、カケルのスパイクの汚れをハンカチで拭った。

そして、ロッカーに戻した。


「走りなさい、少年。……邪魔者は消したわ」


ナラは、ロッカーに向かって囁いた。


「あんたの足は、誰よりも速い。……風になりなさい」


その時、ドアが開く音がした。

カケルが戻ってきたのだ。

ナラは物陰に隠れる。

カケルは、床にうずくまるゼファーを見て驚いたが、すぐに自分のスパイクが無事なことを確認し、安堵の表情を浮かべた。

そして、スパイクを抱きしめ、祈るように呟いた。


「……走れる。明日も、走れるんだ」


その純粋な声を聞いて、ナラの目から一筋の涙がこぼれた。

守れた。

この小さな、しかし偉大な「物語」を。

ナラの体が光に包まれる。

タイムリミットだ。


「……いい走りを見せてね」


・・・・・・・・・・・


「……ッ!」


ナラが目を開けると、現代の競技場だった。

雨は上がっていた。

雲間から月が覗き、トラックを銀色に照らしている。


「おかえり、ナラ君」


エラーラが、温かいココアを持って立っていた。

ナラはそれを受け取り、震える手で口に運んだ。

甘い。

過去で感じた怒りの味が、甘さに溶けていく。


「……彼は?」


「あそこを見たまえ」


エラーラが指差した先。

競技場の入り口に、かつてはなかったはずの、立派なブロンズ像が建っていた。

それは、ゴールテープを切る瞬間のランナーの像だった。

台座には、こう刻まれている。


『伝説のランナー、カケル。スラムから世界へ羽ばたいた彼の走りは、貧しき子供たちに夢を与え、この国のスポーツマンシップを変えた』


そして、像の足元には、たくさんの花束と、子供たちが供えた手作りの金メダルが置かれていた。


「……ふふ。やったわね」


ナラは、像を見上げて微笑んだ。

あの夜、カケルは走りきったのだ。

毒も、妨害もなく。自分の力で、正々堂々と。

そして、その姿が多くの人々の心を動かし、未来を変えた。


「亡霊は消えたよ」


エラーラが言った。


「彼はもう、怨念として走る必要はない。……伝説として、人々の心の中で走り続けているからね」


ナラは、自分の足を見た。

ヒールの高い靴。

走るのには適さない靴だ。

でも、彼女もまた、自分自身の人生というトラックを、必死に走っているランナーなのだ。


「あたしも、いつか……あんな風に走れるかしら」


「君は、もう走っているよ」


エラーラは、ナラの肩を抱いた。


「君の走りは、誰よりも力強く、そして美しい。……私は、君というランナーの、一番のファンだよ」


ナラは顔を赤らめ、エラーラの胸に顔を埋めた。

エラーラの白衣からは、いつもの薬品と珈琲の匂いがした。

それは、ナラにとっての「給水所」の匂いだ。


「……足、痛くなっちゃった」


ナラが甘えるように言う。


「そうだ!お母様! 帰りは背負ってくださいな! 一流のレディは、疲れたら歩かないものですのよ!」


「ええっ!? 私の腰が砕ける未来が見えるのだが!?」


「文句言わない! ……ほら、早く!」


月光の下、母の背中におんぶされた娘の影が、トラックの上に長く伸びていた。

それは、どんな金メダルよりも輝く、愛と絆のシルエットだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ