第1話:破滅を呼ぶ無知(1)
王都の裏路地、地下へと続く階段の先にある薄暗いバー。
紫煙が燻り、安酒の臭いが充満するその店で、ナラティブ・ヴェリタスは、一人の男の熱弁に聞き入っていた。
「いいかい、ナラちゃん。世の中の専門家ってのは、簡単なことを難しく言ってるだけなんだよ。俺みたいに『地頭』が良い人間からすれば、世界の真理なんてパズルのピースみたいにシンプルさ」
男の名はバルゴ。自称・フリーのコンサルタント兼。
その瞳は自信に満ち溢れ、まるで、この世の全てを見通しているかのように輝いていた。彼はジョッキを傾け、語り続ける。
「魔法? 魔導工学?あんなの利権まみれの学者が作った迷路だ。俺は学校なんて行ってないが、学者の言うことより、俺の勘の方が正しいことは、これまでの歴史が証明してるッ──。」
ナラは目を輝かせていた。
彼女は物語を愛する。この男の語る「権威に縛られない、隠された知性を持つアウトロー」という文脈は、彼女にとって極上の好物だった。
王都の学術院にいるような堅苦しい魔導師たちとは違う。この男には、泥臭い「生きた知恵」がある……ように見えた。
「すごいわバルゴさん!確かに、専門家って視野が狭いところがあるわよね。あたしのお母様なんて、いつも数式だの論文だのってうるさくて!」
「そりゃいけない。論理なんてのは、直感の後付け説明にすぎないんだ」
バルゴはテーブルにこぼれた酒を指でなぞり、適当な図を描いた。
「つまり、シンプル・イズ・ベストさ」
「天才だわ……!バルゴさん、貴方こそが今の時代に必要な人材よ!」
ナラは確信した。この男をエラーラに会わせれば、頭の固い母親もきっと目を覚ますはずだ、と。
「行きましょう、バルゴさん! うちの事務所へ! お母様にその『本物の知性』を見せつけてやって!」
獣病院の二階、ヴェリタス家の事務所。
部屋の空気は張り詰めていた。
最強の魔導師エラーラは、机の上に広げられた複雑怪奇な魔法陣の解析に没頭していた。それは王都の地下を流れる魔力水脈の制御術式であり、ひとつの計算ミスが都市崩壊に繋がる、極めて繊細な代物だった。
「お母様! 紹介するわ、バルゴさんよ。彼は天才なの!」
ナラが勢いよくドアを開ける。
エラーラは眉根を寄せ、顔を上げた。
「……ナラ。今は忙しい。素人の相手をしている暇はないんだ」
「素人じゃないわ!彼は『地頭』がいいの!専門知識に頼らず、直感だけで真理に到達できる人よ!」
「……はあ。どおも。もんにちわ。」
エラーラは気のない返事をして、再び魔法陣に目を落とした。
バルゴは「やれやれ」といった風情で肩をすくめ、ニヤニヤと笑いながらエラーラの手元を覗き込んだ。
「へえ、難しそうな図面だねぇ。でも先生……」
バルゴは、魔法陣の核となる制御術式――何重にもプロテクトが掛けられた安全弁の部分を、脂っこい指で差した。
「この線、複雑すぎるよ。行ったり来たりして、エネルギーが詰まってるじゃないか。もっとこう、ここからここへ、ガッとバイパスを繋げちゃえばいいんだよ。専門家は頭が硬いんだ。素人だからこそ分かる真理もある。」
ナラが得意げに胸を張る。
「ほら、お母様! どう? 目から鱗でしょう?」
エラーラの手が止まった。
部屋に沈黙が落ちる。時計の針の音だけが響く。
やがて、エラーラはゆっくりと顔を上げた。
ナラは期待した。母親が「参りました」と言うのを。あるいは、バルゴの指摘に怒り出すのを。
だが、エラーラの瞳にあったのは、そのどちらでもなかった。
それは、深淵を覗き込んだような、底なしの「哀れみ」だった。
「……君は、この線が何のためにあるか、理解しているのかね?」
「ああ、わかるさ。『無駄』だろ? 臆病な学者が作った保険さ。リスクばかり恐れて、可能性を殺してる。俺ならここを解放して、効率を最大化するね」
バルゴは自信満々に言い放った。
エラーラは、静かに眼鏡を外した。
その目から、ツー……と一筋の涙がこぼれ落ちた。
「お、お母様!? 感動したの!?」
ナラが驚く。
エラーラは目頭を押さえ、小刻みに震え出した。
「ああ……感動したよ……」
エラーラの声は震えていた。
「無知な人間が、自分の無知を自覚できないまま、全能感に浸っている。専門家が百年かけて積み上げた安全対策を、『無駄』と断じるその浅はかさ。自分が何を理解していないのかさえ理解できていない、その認知の歪みが……あまりにも、あまりにも救いようがなくて、涙が出る」
認知バイアス。
能力の低い人間が、自分の未熟さを認識できず、逆に自分を高く評価してしまう認知バイアス。
彼らは「自分は平均より優れている」と信じ込み、専門家の意見を「頭の固い古い考え」として却下する。彼らにとって、世界は単純に見える。なぜなら、彼らは世界の複雑さを理解するための解像度を持っていないからだ。
エラーラの涙は、人類の愚かさに対する絶望の涙だった。
だが、バルゴという男は、その涙すらも自分の都合の良いように解釈した。
「ハハハ!泣くほど感動したならよかったよ先生!」
バルゴはナラの肩を抱き、親指を立てた。
「気にすんなよ先生!俺が手本を見せてやるからさ。ちょうど外の中央広場にある『魔導給水塔』、あれ古臭くて効率悪そうだったろ? チョロチョロとしか魔力が出てない。俺が今から行って、ちょっとイジって『解放』してきてやるよ」
エラーラの顔色が蒼白に変わった。
「……待て。あれには触るな。あれは王都の魔力循環を制御する……」
「いいっていいって!専門家は机に座ってな!現場は俺みたいな『行動力のある天才』に任せろ!」
バルゴは風のように事務所を飛び出していった。
ナラも慌てて後を追う。
「すごいわバルゴさん! 有言実行ね! あたしもその歴史的瞬間を見るわ!」
残されたエラーラは、ガタガタと震える手で杖を掴み、立ち上がった。
涙は乾き、瞳には戦慄が宿っていた。
「……まずい。あいつ、本当にやる気だ。……止めなければ、王都が死ぬ!」




