第1話:壊れ合うから動けない!
私の名前はルナ。王都の魔導学院に通う15歳だ。
我が家は、傍から見れば「幸福な家庭」のサンプルケースのような場所だった。父は王宮に勤める文官で、母は専業主婦。弟は初等部で元気に遊んでいる。
特に母のエレナは完璧だった。
朝は誰よりも早く起きて焼きたてのパンを用意し、父のシャツには皺一つないアイロンをかけ、家の中は常に塵一つ落ちていない。彼女は45歳になっても美しく、近所でも評判の「良き妻、良き母」だった。
けれど、私は気づいていた。
最近、母が作る料理の味が、どこか「無機質」になっていることに。
美味しい。味付けは完璧だ。けれども、そこには食べる相手への愛情や関心が抜け落ちている。まるで、精密機械がマニュアル通りに配合した栄養食のような、冷たい完璧さ。
一体何が、理由なのか。
違和感が確信に変わったのは、ある午後のことだった。
私が予定より早く学校から帰宅した時、リビングのテーブルに母の魔導端末が置きっぱなしになっていた。画面は点灯したままだ。
ふと視線を落とした私は、そこに表示されていた「日記」の記述を見て、息を呑んだ。
『もう全てが嫌だ。家族という名の鎖が、私の手足を食い千切っていく感覚がする。夫の足音を聞くだけで動悸がする。子供たちの笑い声が、私を責めるノイズに聞こえる。「ママ」「あなた」と呼ばれるたびに、エレナという人間が削り取られていく。私は、家政婦じゃない。私は、所有物じゃない。私は、奴隷じゃない。家族が元気で揃っていることに感謝すべき?それは、頭ではわかっている。愛はある。情もある。でも、心の中では、彼らが「私個人の幸せを食い潰す捕食者」にしか見えない』
これが、母の本音。
あの完璧な笑顔の下で、母はずっと私たちを「捕食者」と認識していたのだ。
それからだった。私が、家庭内に走る亀裂を、明確に認識するようになったのは。
一週間後、弟の10歳の誕生日があった。
母は完璧なホールケーキを焼き、豪華な料理を並べた。
しかし、主役の弟が「友達と遊びたいから」などとふざけたことを言って、夕食の時間になっても帰ってこなかった。父からは「多分残業で遅くなるかも」という、でたらめな連絡が入った。
リビングには、私と母だけが残された。
蝋燭の火が、溶けたロウの中に沈んでは消えていく。
私は母に声をかけようとした。「私が食べるよ」と。
けれど、母は無表情で立ち上がると、銀色のナイフを手に取った。
「……処理、しましょう」
母はそう呟くと、手塩にかけて作ったケーキにナイフを入れた。
切り分けるのではない。
無造作に、機械的に、ただ「可燃ゴミ」として袋に詰めやすいサイズへと解体していく。
その横顔には、悲しみも怒りもなかった。ただ「タスクの処理に失敗した事務員」のような、虚無だけが張り付いていた。
私は、恐怖した。
母は、心のなかでは怒っていたはずだ。泣いていたはずだ。
けれど、母の中ではもう、私たちは「感情を向ける対象」では、なくなっているのだ。
数日後の休日。私は母が寝室で、鏡の前に立っているのを見た。
母は、昔着ていたという深紅のドレスを体に当てていた。それはとても華やかで、背中の開いた大胆なデザインだった。
母は意を決したようにドレスに袖を通し、背中のファスナーを上げようとした。
乾いた音がして、布が裂けた。
太ったわけではない。むしろ母は痩せている。
ただ、家事と育児で鍛えられた逞しい背中と、年齢を重ねた骨格が、若き日の華奢なドレスを、拒絶したのだ。
母はその場に崩れ落ちた。
裂けたドレスを抱きしめ、声を殺して泣いていた。
「返して……私の時間を、返して……!」
けして、ドレスが着られないことが悲しいのではない。
このドレスを着て輝いていた「エレナ」という女性が、自分が、もうどこにもいないという、事実。そして、その時間を奪ったのが、まぎれもなく、「私たち家族」であるという、事実。
その嗚咽は、私という存在への呪詛のように響いた。
決定打となったのは、ある雨の日だった。
私は学校帰りに、母が街角のカフェで、見知らぬ男性と会っているのを目撃してしまった。
男性は紳士的で、母の手を握り、真剣な眼差しで何かを訴えていた。
母の顔は紅潮し、少女のように潤んでいた。私は初めて見る母の「女の顔」に動揺し、物陰に隠れた。
しかし……母は首を横に振った。
「……できません。私には、夫と子供がいますから」
毅然とした声だった。世間的には「貞淑な妻」の模範解答だ。
男性は肩を落とし、去っていった。
残された母は、テーブルに突っ伏した。
そして、獣のような低い唸り声を上げて、自身の胸を掻きむしった。
「……あぁ……行きたかった……!私だって愛されたい……!なんで……なんで理解してくれないあの人たちがいるの……ッ!」
聞いてしまった。
母はけして「家族がいるから断った」のではない。「家族さえいなければ行けたのに」と、私たちを憎んでいるのだ。
母が守ったのは貞操ではない。
「母親という役割」を守るために、「自分という個人の幸福」を、自らを生贄に捧げたのだ。
私は雨の中、傘もささずに立ち尽くした。
限界だった。
母の犠牲の上に成り立つ日常。私の食べている食事は、母の死骸で、できている。
私が生きているだけで、母は死んでいく。
怒りが、湧いた。
誰に対して?
自分勝手な、弟へ。
自分勝手な、父へ。
被害者ぶって、私たちを呪いながらも、世話を焼き続けて、自分を殺し続けている母へ。
そして何より……ただ守られるだけで、弟や父の横暴を許し、母を牢獄に閉じ込めて苦しめている「子供」という役割に甘んじている、自分へ。
「……ふざけるな」
殴りたい。
だが、誰を殴ればいいか、分からなかった。
私は、制服のスカートを握りしめた。
私は母の枷じゃない。母も、私の奴隷じゃない。
こんな欺瞞に満ちた「家族ごっこ」なんて、私が、終わらせてやる。
その足で、私は王都の外れにある「獣病院」へと向かった。
そこには、どんな難事件も解決するという魔女がいると聞いたからだ。
獣病院の二階。
黒いドレスの探偵、ナラティブ・ヴェリタスは、私の話を聞き終えると、静かに紅茶を置いた。
「……なるほど?母親と決着をつけたい、と」
「はい。法的な離縁じゃ足りない。魂のレベルで、他人になりたいんです。母を『母親』から解き放ち、私も『子供』をやめる。そのためなら何でもします」
ナラさんは、不思議なものを見るような目で私を見て、それからふっと笑った。
「奇遇ね。実は昨日、あんたのお母さんもここに来たわ」
「え?」
「依頼内容は同じよ。『もう限界だ。家族を捨てて、一人の女として生きたい。でも母親としての責任が足を止める。……誰かに、物理的にこの鎖を断ち切ってほしい』」
母も、来ていた。
私たちは、同じことを考えていたのだ。
互いに、互いを「殺して」でも自由になりたいと。
「舞台は、整えてあげるわ」
ナラさんは立ち上がり、鉄扇を開いた。
「場所は王都郊外の荒野。言葉はいらない。魔力と拳で語り合いなさい。……『家族会議』よ」
私は頷いた。
もう、後戻りはできない。
明日の正午。私は母を殺し、母も私を殺す。
これは、どちらがより加害者かという、単純な問題ではない。
戦わなければ、私は救われない。
母も、救われない。
そうしなければ、私たちは一生、腐ったへその緒で繋がったままの化け物になってしまうから。




